034
嵐が去り、思わぬ吉報が舞い込んで来て良い調子だと感じていた所へ、別の方向から災難がやって来た。
「灰皿、無いのか?」
「我が家に喫煙者は居ません。幼児の心肺に悪影響ですので」
植木鉢やら犬小屋やらを庭に戻し、ビニールシートも片付けたリビングのソファーには、僕と同じ色の髪、同じ色の瞳、同じように色素の薄い肌を無理に日焼けさせた二十八歳の下品な男がタバコを吹かしていた。
だが、灰皿が無いと聞くや、男は高級ブランドのスーツから携帯灰皿を取り出し、吸いさしのタバコをそこへ入れて蓋をした。
帰宅してすぐに、玄関先にこの男の姿を目撃した瞬間、僕は公道へ摘まみ出そうかと思った。それくらい、この男の嫌な性格を知っていて、口にしたくもないが、名前や現住所や勤務先だって知っている。何故なら、
「他人行儀は止してくれよ、兄さん。そういうところが、俺や上の兄さんみたく、うまく出世できない原因だぞ。見てくれは一番良いのに、勿体無い」
「女性関係でトラブルを起こしまくる人間に、他人に世渡りを説教する資格はありません」
「俺がトラブルを起こすんじゃない。女の方がトラブルを持ち込んで来るんだ。そこんところ、勘違いしないでくれよな」
血を分けた兄弟の一人だからだ。認めたくない事実だが、これだけ外見上の特徴が揃っていては、強く否定する事は難しい。
弟について、したくもない説明をしておくと、僕が生まれた国の有名ハイスクールへ飛び級で入学し、在学中に類稀なる才能を認められてラジオ局へ入社。今は、最近新設されたばかりの小さな支部の局長をしているという。ハッキリ言って、本人に面会する前に、この情報だけ釣り書に並べておけば、僕や兄より、ずっと早く結婚出来たはずだ。
しかし、この弟は独身貴族を嘯いている。というのも、新し物好きで、金満主義で、夜毎に女性をとっかえひっかえしているようなギンギラギンの人間の癖に、結婚するなら一途に愛して支えてくれる女性が良いという、非常に矛盾した性格をしているからだ。
「そういえば、ミキちゃんは? 二階に行ったきり、降りて来ないけど」
「僕が良いって言うまで、部屋で大人しくするように言いましたから。あと、さっきのオジサンに捕まると食べられるとも」
「おいおい、兄さん。いくら俺でも、ロリータは専門外だぜ?」
あぁ、もう、耳が腐り落ちそうだ。我慢の限界だから、そろそろお帰りいただこう。
「ところで、今回の来訪の目的は?」
「顔が見たくなったから、では納得しそうにないな。でも、強情だから言わないだけで、父さんも母さんも、兄さんの事を心配してるんだぜ?」
「適当な事を言わないでください」
「ホントにホントだって。あと、孫息子は定期的に顔を見るけど、孫娘の顔も見たいってさ。可愛い盛りなんだから、会わせてやれよ」
「その件につきましては、機会がありましたら検討いたします」
「行く気ゼロか。まっ、そっちから嫌うのは結構だけど、手伝えることがあったら言えよ。あと、上の兄さんに会ったらよろしく」
こちらが能面だというのに、その無反応さを意にも介さずニタリと笑うと、弟はエントランスへと移動した。
これで、ミキを下に呼んでも大丈夫だと安心した矢先、弟は玄関ドアに手を掛ける直前に手を引っ込め、中性脂肪で内股の布が薄くなっているんじゃないかと思しきスラックスのポケットに手を入れると、中からクロコダイル革の長財布を取り出し、乱雑に詰まった紙幣や領収書の隙間から観覧車のイラストが描かれた長方形の紙片を引き抜き、無理矢理僕の手に押し付けるように握らせながら言った。
指を開くと、それは遊園地のファミリーチケットだった。
「接待の時に景品で貰ったんだけど、独りだと使いようが無いから、兄さんにやるよ。上の兄さんは、こういう騒がしい場所が苦手だし、ミキちゃん、こういうの好きだろう?」
「お預かりします。使用するか否かは、妻と相談して決定したく存じます」
「絶対行くと信じてるからな。それじゃあ、また来るぜ」
二度と我が家の敷居を跨ぐなと思いつつ、僕は弟を表まで見送り、後ろ姿が見えなくなるまで睨みつけていた。
まさか、今度は生まれ育った国で再会する羽目になり、あろうことか協力を仰ぐ事になろうとは、この時は、つゆほども考えなかった。