009
思い返せば、あれは予兆だったのではないかと考えられる出来事も、その当時は、日常の些細な変化として右から左へ流してしまう。
それは、まるでボタンを掛け違えるようなものだ。
「しゅっぱーつ!」
「待って、ミキ。ボタンが逆になってる」
「えっ?」
ミキの制服のブレザーが、ボタンを右前に掛け違えた状態になっていたので、呼び止めて後ろから抱きしめるような形で掛け直していたんだけど、
「ほーら、じっとして」
「あはは。パパ、くすぐったい」
もぞもぞと動くものだから、なかなかボタンを掛け替えられない。ミキの笑い声が聞こえたのか、それとも、なかなかエントランスまで来ないことにしびれを切らしたのか、ミネから催促の声が飛んでくる。
「何、遊んでるの。遅刻するから、早くして!」
「すぐ済むから。……はい、おしまい」
「わーい。パパ、ありがとう」
ブラウスの裾をスカートに入れ直したミキは、僕の頬に軽くキスをすると、エントランスへと駆けて行った。軽快に走る後ろを追って、僕もエントランスへ向かうと、ミネは少し不機嫌な様子だ。むくれた顔を悪くないけど、朝は気持ちよく出勤してもらいたい。
はて。何に怒っているのだろうか?
「ミキだけ、ずるいなぁ」
「んんっ?」
ミネの服装はオフィスカジュアルで、どこもボタンを掛け違えてはいない。なんて、見当外れの事を考えていると、ミネは僕の襟元を引っ張り、半ば強引にキスをしてきた。頬にではなく、唇にだけど。
呼吸困難になりかねないところで解放された僕は、手の甲で口を拭いながら言った。
「あのさ、ミネ。こういうことは、二人きりの時だけに……」
「夫婦なんだから、恥ずかしがらなくていいじゃない」
「いいじゃない、いいじゃない」
照れる僕をよそに、ミネは機嫌を取り直し、ミキもミネに便乗して囃し立て始めたので、僕は二人の背中に手を当て、家の外へと押し出した。
「急がないと、間に合わなくなるよ」
「はいはい。じゃあ、いってきます」
「いってきま~す」
「いってらっしゃい」
庭の向こうへ曲がる寸前、二人は何かひそひそと話していたけれど、何を喋ったのかは、気にしないことにしよう。それより、そろそろ洗濯が終わる頃だから、さっさと庭に干してしまおう。
「あっ、しまった」
傘立てに、昨夜、キンダーガーデンから借りてきた傘が残っている。ミネは今夜も遅くなるかもしれないから、僕が返しに行かなければいけなくなりそうだ。