ハルカ
今後も定期的に更新していきます。
「それでぇ、お二人はお知り合いだったみたいだけどぉ、そこら辺の経緯を教えてもらえると先生嬉しいなぁ」
ね、とウインク混じりに猫なで声を発する原口教諭。
いくら何でもあざと過ぎるような気がしたが、ケンジは知っている。彼女は怒り心頭になればなるほど優しくなる。これは既に噴火直前に近いサインである。
それがわかったからといってできることもないのだが。
「ねぇ、ケンジくぅん?」
ケンジの背中を嫌な汗が伝う。
目がまるで笑っていない。
先ほどの騒動をほんの数分で収集し、原因であるケンジと転校生であるハルカを連れ出したのが五分前。
生徒指導室と呼ばれる進路調査以外では入りたくもない部屋に連れ込んだ原口は、こうして尋問を開始した。
「あの、ですね。なんというか」
しどろもどろの返答に原口の視線が厳しくなる。
そのくせ彼女の笑みは深くなるばかりで、ケンジは胃がきりきりと痛んで行くのを感じた。内心で毒を吐く余裕もない。先ほどの出来事で完全に気が抜けてしまっていた。
そうだ、そもそもこんなことになったのも、
「原口先生。一つよろしいでしょうか?」
この女のせいなのだ。
ハルカと名乗った転校生はケンジの隣に座っている。ピンと伸びた背筋のせいなのか、座っている姿すらも絵になっている。というか顔が小さい。そのうえ顔立ちが凛々しく整っているもんだから、映画か何かの場面と勘違いしてしまいそうになった。
「何かしら、水元さん?」
ケンジにかかっていた重圧が消える。
その分矛先がハルカへ向かったはずなのだが、彼女は平然とした表情で言葉を続けた。
「申し訳ありませんが、その質問にお応えできません。なにぶん、プライベートなことですので」
…ケンジの胃が悲鳴を上げる。
もう、なんというかすばらしすぎる。既に重苦しかった空気が決定的なまでに凍り付いてしまった。
ケンジは恐ろしくて原口の顔をまともに見ることができない。もはや物理的なレベルにまでなった重圧に身を縮めることしかできなかった。
「…水元さん。あなたふざけてるの?」
「至ってまじめですが?」
耳を塞ぎたい、ていうかもう少し考えてしゃべれ。
他人の会話がここまで胃を痛くするなんて考えたこともなかった。そんなケンジの嘆きを無視し、室内の空気はどんどん最悪の方へ向かっている。
考えろ、赤崎ケンジ。このままだと山奥で壁の染みを数えることになる。
事ここに至ってようやくケンジも調子を取り戻してきた。
無言のまま向き合う二人にわかるよう、恐る恐る手を挙げる。
「なにかしらぁ?」
「後にしてくれます?」
何もしゃべってなかったじゃねえか…!
そんな文句も口に出せる雰囲気ではない。ケンジは二人の関心を得るために無言で手を挙げ続ける。二人はそれでもお互いしか見ていない。
永遠に続くとも思えた時間。
先に根負けしたのは原口だった。
「赤崎くぅん? なんで手を挙げてるのぉ? ここ、教室だったかしらぁ?」
めんどくさそうに目線だけをこちらに送る原口。生徒に対する態度としてどうなのかとケンジは思ったが、今更だったので気にしないことにした。
二人の視線が集まる。
ケンジは唇を舐めてから言葉を発した。
「幼なじみなんです」
沈黙。
それこそ先ほどとはまた違った空気が場を支配した。それを見て取って、ケンジは内心でガッツポーズをとった。
まずは一発かましてやった。
ここからが勝負どころである。
呆れ顔の原口に追撃を加える必要がある。視線をハルカへ。流れに合わせろとアイコンタクトを送る。
と、
「」
ケンジの思考が止まった。
澄んだ瞳がケンジを見つめている。まるでこちらの全てを見透すかのような視線に、何故か言葉を失うしかなかった。
「水元さん、彼の言葉は本当なのかしら?」
原口がうさんくさそうに言う。
ケンジも停止していた思考を無理矢理現実へと引き戻した。こちらの意図は既に理解しているはずだ。あとはハルカの発言とケンジの発言を繋げていくだけでいい。
そう考えていた矢先、
「いいえ、違います」
思わぬ裏切りにあった。
ケンジは呆気にとられてハルカを見た。ハルカは素知らぬ顔で原口を見つめ、気付いていないわけがないのにケンジの視線を無視している。原口も困惑気味にケンジとハルカの間を視線で行き来させていた。
「…どーゆことかしらぁ?」
「いや、違くてですね、その、ほら! おれは知ってたけどこいつは忘れてるってーか、いや、やだなぁ、そんな意地悪すんなよー、ほら近所にいたザキちゃんだヨー?」
やばい、とケンジは思った。
何がやばいって自分のキャラを見失うくらいやばい。
そもそもケンジの言葉は当然嘘だ。嘘だったが、この場を乗り切る為には最もわかりやすい嘘だったはずだ。お互いが嘘を言っているとわかるし、原口にしてみれば察することはできても嘘を証明はできない。なにより、ケンジ達の世代にとってみれば大人をごまかすための常套手段の一つでもある。
それをここまで真っ向から否定されては言葉を発することすらできなかった。
「水元さぁん? もう一度聞くけれど、彼とは幼なじみなのかしらぁ?」
「だから、違います」
二度目の否定。
ケンジは頭を抱えたくなったが、続く言葉があまりにも衝撃的すぎた。
ハルカはまっすぐ原口を見つめ、
「結婚を約束した幼なじみです」
そんなあり得なすぎて聞き返すのもばからしい言葉を吐いたのだ。
しかも、満面の笑顔で。
※
教室に戻ってからのことをケンジはよく覚えていない。
習慣とは怖いもので夢現のまま机に座っていても無事に一日を過ごすことができたらしい。らしいとはそれすらも曖昧で、正気と言えるほどまともな思考ができたのは放課後になってからのことだった。
「ケンジ? 生きてる?」
ケンジの視界を掌がゆらゆらと横断した。
その動きにつられて見れば、目の前に優男が立っていた。すらりとした長身と女みたいに整った顔立ち。そのくせ妙に自信なさげな仕草が目に付くケンジの腐れ縁の友人である。
「…なぁ、サトシ」
「ん、なに?」
サトシはほっとしたような顔をした。前の席に腰掛け、ケンジを上目遣いで観察している。気遣うような仕草だったが、ケンジはなんとなく違う気がした。
むしろ、咎めるような視線を感じる。
それが無性に腹立たしく感じた。
「お前、おれにラーメン奢れ」
「はぁっ? こないだアイス奢ったでしょっ?」
「今朝の分だ。お前、おれのこと見捨てたろ」
「見捨てたって…あれはしょうがないじゃん。俺が出てったなにもできないし」
「しょうがなくねーよ。お前がケンジ君は犯人じゃありましぇーん、 ぼくちんがやりましたーとかって言ってくれればなんの問題も無かったんだよ、わかってんのか? お?」
「むちゃくちゃを通り越して笑う気にもならないよ。ケンジ、本当に頭大丈夫? 死んだ方がいいんじゃない?」
「さらりと毒吐くなよ、拾いにくい」
「それをケンジが言う?」
どうでもいい会話を続けている内にケンジの思考は常時のそれを取り戻しつつあった。
教室を見回せば、ケンジ達の他にも残っているクラスメートがいる。どいつも暇を持て余した連中ばかりでそれなりに知っている連中だった。連中を誘ってどこかにいこうかとも思ったが、今朝のことを思い出してやめた。冷却期間が必要なのだ。そこら辺の距離感はここ数年で嫌というほど経験している。
となると、サトシとケンジの二人でどこかへ行くか、一人でおとなしく帰るかになる。
ケンジは一瞬思案したが、すぐに結論を出した。
こんな日は遊び歩かずに寝てしまった方が得である。
「…いや、違うか」
「は?」
「なんでもねぇ」
サトシが怪訝そうな表情をしたが、ケンジはそれを無視した。
全く馬鹿らしい、とケンジは自分自身を内心で罵倒する。紛れもない現実逃避。考えることは山ほどあるじゃないか。
昨日のこと。
今日のこと。
それだけであれば何もおかしくないのだが、中身が少々劇薬過ぎる。こんなもん片手間に考えては一日が一瞬にしてつぶれてしまうではないか。
そこでケンジは気付いた。
先ほどの自分は何も考えていなかったわけではない、考えすぎて時間が過ぎるのに気付かなかっただけだ。
なんて馬鹿らしい、と改めてケンジは自分を罵倒した。
「なぁ、サトシ。悪いけど今日具合悪いから帰るわ。ラーメンの件はまた今度な」
「いや、だからおごらないっていうかさ。あー、ケンジ。今は正門から行くのはやめた方がいいと思う」
「あ? なんで?」
「あれ、見なよ」
サトシはそう言って窓を指した。
ケンジは外を見る。
部活動に青春を賭けた連中がグラウンドを駆け回り、様々な種類のボールが飛び交っているのが見えた。
その脇の校門へと続く道を足場に歩く人影がいくつか。遠目にも携帯をのぞき込む姿がわかる。この時間帯は確かに大人共の嫌がらせは少ない。近隣に住む運のいい連中ならば何事もなく家に帰ることができるだろう。
いつも通りの放課後。
そこまで観察して、ケンジはようやく気付いた。
ハルカだ。
足早に校門を潜る生徒の中で一人だけ校舎を見上げて立ち止まっている
奴がいる。表情こそ見えないものの、その立ち姿と女子の制服。なにより言葉にできない雰囲気が彼女であることをケンジに悟らせた。
なにしてんだ、あいつ。
「ありえないよね」
サトシは吐き捨てるように言った。
「ホームルームが終わって、教室を飛び出したと思ったらずっとああしてるんだ。正直、彼女ちょっと変だよ」
「変?」
「うん。今朝のこともそうだけど、なんか浮いてるんだ。クラスの女子と話もかみ合わないみたいだし。可愛いみたいだけどこの時期に転入とかわけありなんだろうね」
関わらない方がいいよ、と険しい顔でサトシは言う。
無理もないか、とケンジは思う。サトシの意見は十分に筋が通っている。
今の御時世、訳ありの人間なんてのは最も厄介な人種である。下手に受け入れて厄介ごとに巻き込まれるなんてことはざらにある。万が一感染者であったら目も当てられない。
その考え方をケンジは否定しようと思わないし、むしろ肯定すべきだとすら思う。珍しいことに、サトシの考え方はケンジにとっても納得のいくものだった。
「じゃ、行こうか」
サトシが立ち上がる。
ケンジはサトシがそのまま扉を出るのを黙って見送った。
「ケンジ!」
「なんだよ」
何故か、サトシは肩を怒らせながら戻ってきた。
「なんだよ、じゃないよ。ほら、行こう。正門からだとあの娘に見つかるだろ」
何言ってんだ、こいつ。
ケンジは一瞬呆けたが、サトシの意図を理解した。要は裏門から出れば関わることもないということだろう。
なんでサトシが率先しているのかはよくわからないが、確かにそれなら面倒ごとには巻き込まれずに済みそうだなとケンジは他人事のように思った。
もう一度、外を見る。
正門に立つ姿に変化はない。
校舎を見上げ、腕でも組んでそうな姿勢で堂々と立っている。
ケンジはもし行かなければあの娘はどうするだろうか、と考える。学校は明日もあるし明日もああしているかもしれない。あるいは、明日の朝からいちゃもんをつけるくらいはするだろうか。
もしかすれば、それ以降は何もないかもしれない。
そこまで考えて、ケンジは席を立った。
サトシも付いてくる。
教室を出て階段を下り、靴箱から自分の靴を取り出す。
直後、何故かサトシが狼狽えた。
「え、ケンジ? あの、そっち、ちがうっ?」
靴を履き、外へ。
サトシの叫び声が聞こえていたがそれを無視した。
耳に飛び込んできたのはグラウンドでボールを蹴り回している連中のだみ声と白球を追っている連中の妙に通る声。ケンジは正門へ視線を向けて歩いた。
昨晩のことが脳裏をよぎる。
胸元を貫く刃。あまりの熱さに声も出なかった。すぐそばでこちらを見つめる視線が妙に冷たかったのを覚えている。
いや、冷たいと言うよりももっと別な何かだったように、ケンジには思えた。
もうサトシの声は聞こえない。
「よぉ、転校生。暇ならどっか行こうぜ」
「ええ、喜んで。行きたいお店があるの」
淀みない返答にケンジのほうが言葉を詰まらせる。
彼女はいたずらっぽく微笑んで背を向けた。軽やかな足取りに一瞬目を奪われたが、ケンジは頭を振って思考を取り戻す。
馬鹿らしい。
小さくなる背中を見つめながら、ケンジは自分自身を罵倒する。わざと一歩目を力強く踏み出し、腹の底に力を込めた。
虎穴に入らずんば孤児を得ず。
こちらに手を振る彼女を見つめ、ケンジは頭の中で何度もつぶやいた。決して下心はない、と。
「ところで、その恰好でいいのかしら?」
「あ」
半袖、短パン、体操着。
ハルカのからかうような視線にケンジは頬が熱くなるのを感じたが、結局、そのまま歩き出した。