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詩は最も自由な文学である

◆注意◆

頭のてっぺんから足の爪の先まで私個人の見解です。

 詩制作をしている方は、必ず一度は以下の質問をぶつけられた経験がおありかと思います。

「詩ってどうやって書くの?」

「どうやって読むの?」

 この問いに対して「あなたは日本語の読み書きができないのですか?」と聞き返したくなるのは置いといて。誰もそんな意地悪な返しはしたくならないですか、そうですよね。皆さんお優しい。

 私は実際にこの問いを身内から投げかけられた時、ここまで詩に対する認識が違うのか、と一種の衝撃を受けました。咄嗟に適当な返しをしてしまいましたが、よくよく考えてみて、最適な模範解答に辿り着いたので、此処に記します。というかもう、記してあります。この本文のサブタイトルに。

『詩は最も自由な文学である』

 この言葉こそ、私の用意した模範解答です。自由だから、読む時の解釈も自由。自由だから、書く時の言葉や行間の使い方も自由。書き手が伝えたかったメッセージが、読み手に100%伝わることの方が稀。それが詩という文学なのです。


「じゃあ何で書くの?」

 まぁ、次に来る質問はそうなりますよね。私自身、どうして詩を書くのかを考えております。結論から言いますと、理由など一つにしぼれません。強いて言うなら、ぶちまけたい感情があって、けれど絵は書けないし、音楽にも出来ないし、友達や家族に「ねぇねぇ聞いて」とわざわざ振るような話題でもない。ただ、「私はこの時、この場所で、こんな物を見て、こんな感情を抱いた(こんな時間の流れを感じた)」といった、まるで日記のような、けど日記にするにはあまりに断片的な、一文で終わってしまう感情があり、それを表したくなるのです。自己顕示欲とは少し違うように感じます。敢えて言うなら「表現欲」でしょうか。その感情を、どのように表せるのか挑戦し続ける感覚です。

 そんな観点で、有名作品を読み返してみてください。失礼を承知で言いますが、色々と削り落とせばきっと、一言で表せる感情が支柱となってます。「哀しいんだー!」とか「嬉しいんだー!」とか「寂しいんだー!」とか「好きだー!」とか。シンプルなものほど世の中にうける、昔からそういうものです。


 感情をぶつけられれば作品になり得るのですから、例えばこんなのも詩としては「あり」だと思います。

    きょうは つかれた

    あしたは どうかな

    あしたが おわれば

    あいする きゅうじつ


 ただの愚痴ですがどうでしょうか。それっぽく見えます。この四行に「愛する休日って、一体何が待ってるんだろう?」なんて期待を抱いたり、「どんだけ疲れてんだ、何があったんだ?」とか同情したり、読み手の解釈によって「泥沼の今を表現している」のか「明日への希望と奮起を表している」のかも異なってくるんです。なかなか面白い文学ではないでしょうか。

 ルールの有無だけで言えば、詩は読書感想文や小説やレポートなどよりよっぽど緩いです。構成、感情表現、描写、キャラクター作り、文体などのルール、引用の仕方……ざっと挙げただけでうんざりするほど出てくるルールの一切が、詩にはありません。かっこつけなくても詩になりますし、比喩がなくても詩を名乗っていい。物語が隠されていたっていいし、感覚任せの散らかった単語の羅列でも詩になります。作者が「これは詩だ」と言えば、口語だろうが文語だろうが定型だろうが散文だろうが「詩」なのです。


 では、そんなに自由な「詩」がどうして広まらないのか。私の最近の疑問はこれです。と言っても、いくつかの理由は想像できています。

 まず、自由なフィールドであるがゆえに、腰が引けてしまう可能性があるということ。「こ、これでもいいのかな……?」という状態です。ドレスコードはないです、と言われても不安になるように。

 二点目に、自由に綴ってきた先駆者の詩人を、文学者たちが分析にかけて解説を添えたことで、「詩は難解なフィールドだ」と大衆に根付くキッカケとなってしまったということ。つまり俗に言う「かっこいい言葉の並び」や「美しい比喩表現」がないと「詩」じゃない、なんていう敷居の高さだけが広まってしまったということです。

 そして三点目、現代においてはこれが最も大きな要素と考えざるを得ないのですが、SNS等で根付いてきている「共有」という文化に、「詩」の持つ魅力は縁遠いということ。「自由な表現」と「自由な解釈」では、「感情の共有(共感)」はしづらいのです。詩を読んで「それな」とか言えません。はっきり言って、ほぼ無理でしょう。

 たとえば、ある詩を読んで「愛する人との別れに伴う哀しみが伝わってきました。じーんとする詩です」と感想を送ったら、「えっ、いや、引っ越す時に愛犬を親戚に預けなくちゃいけない辛さを表したんです……」みたいに気まずい空気になることが、ないとは言い切れない。詩は言葉が足りなくていい分、読み手の補い方一つで書き手の意向と別方向に読み取られてしまう危険性を含んでいるのです。(危険性、という言葉が適切かどうかは置いときます。)


 それでも誰かの心の何処かに響いて、叫びたい気持ちの欠片でも汲み取ってくれたら……そんな思いが、詩人さんの中にはあるのではないでしょうか。読み手さんは完全な共感によって支持や評価をしているのではなく、言葉の使い方が好きだと感じたり、何となく伝わる書き手の人柄に惹かれたりするのではないでしょうか。

 千差万別な日常の中、書き留めたい感情が誰しもあると思います。「エッセイにするほどのことじゃない」「そもそもそんな時間はない」と、作品にすることを諦めている方がいるのであれば、私は胸を張って詩制作をお勧めしたい。


 数行でいいです。詩を、書いてみませんか。

 他人との共感のためじゃなく、自分の真直ぐな言葉を残すために。

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