急変
私、オルテンシアは社交界の翌朝、滞在予定だった貴族寮を出た。
今はギュソー様と馬車で隣国に向かっている。
まだあたりの住民も寝静まっている頃。霧が立ちこめるせいで、薄暗い日差しは灰色がかっていた。
この天気はきっと私たちには好都合なのだろう。
私達の馬車は街道を出て、検問所の周辺まで来ている。
町を抜けるまでは昨日の社交会場となった宮殿のクーポラが、住宅のレンガ屋根を飛び越えて一際大きく見え、苦々しく思えた。
昨日のことが嫌でも思い出されたから。
私があのカンパネラに負けたこと。貴族としての信用をなくしたこと。ギュソー様に見捨てられたこと。
私の対面に座するギュソー様は、馬車の窓から見える景色をボーと見ていた。だが、こちらの憤りに気付いたのか、私の顔を見て申し訳なさそうにしている。
「そう、怒らないでくれよ。昨日のことは本当にすまなかったね」
「………別に、もういいですわ」
我慢しなくてはいけない。私は自分の怒りを静めるため、肩で呼吸をした。けれど、どうしても自分の言葉の語気が強くなってしまったような気がする。
あの社交界の後、ギュソー様は私を置き去りにしたことを謝りにきた。何度も甘い言葉を囁いて。
私を見捨てたこの人を、最初は許すつもりもなかった。頭の中が真っ赤になって、怒りに打ち震えた。
だが、私にはそもそも選択肢なんてないんだ。
もしも、ここで彼の後ろ盾を失えば、私の立場は、今度こそ完全に失墜する。
私にはまだチャンスが残っている。幸い、彼は私の味方でいてくれているから。
この国にもう自分たちの居場所はない。
国外に逃げるしかない。ギュソー様からの提案された。
逃げるといっても、国外に逃亡するわけではない。ほとぼりが冷めるまで、たとえば舞踏会シーズンの間だけでも隣国にある彼の別荘に滞在するという意味だ。父には事情を伝え、彼から私の手紙を送ってくれる、そういう手はずになっている。流石に昨日会場にいた上位貴族達からの信頼をなくしたら、ギュソー様でもどうすることも出来ない、そういうことらしい。
私は父に合わせる顔がなかった。
私のせいで父の工場は半分カンパネラに乗っ取られ、無理してなんとか社交界に行かせて貰ったのに、苦労して男爵位の称号を得た父の顔も潰してしまった。もう自分の愚かさに消えてしまいたかった。
その時、不自然に馬車が止まる。
予定では、そろそろ国境沿いの検問所にたどり着くはずなのだが、馬車は検問所のもっと手前にある、渓流にかかる石造りの橋の前で立ち止まった。
「どうかしましたか?」
ギュソー様が馬車の扉から顔を出し、何かと御者にたずねている。
私も気になって、扉を開いて外を見る。
「ギュソー様あれを。騎士団ではないでしょうか?あれ、でもあそこにいるのは…」
御者は目の前を指差す。
まさか、嘘でしょ?
石橋の手前に、マルテッロとカンパネラが立っていた。
完全に予想外だった。
しかも後ろには数人の兵隊を連れて。ここの騎士団だろうか。
皆、甲冑に身を包み、これから楽しくお食事会という雰囲気ではない。
少なくとも、今から彼らは戦いに望むような面持ちだ。
まるで私達を捕らえるために彼らはそこに立っている、そんな気がした。
「い、一体何なのよ!」
私は馬車から身を乗り出し、彼女に問いかけた。
「ギュソー!貴方に用がある。その馬車から降りなさい」
カンパネラの奴が声をあげる。
「社交界では…ア、アンタの勝ちよ。もう私達にかまわないで」
たとえ事実だとしても、自分で言ってて惨めになる。私達のことは放っておいてほしかった。
「いいえ、そういうわけにはいかないわ」
「もう私達を放っておいて!お願いだから」
「駄目。じゃないと貴女、こいつに殺されるわよ」
「さっきから何!私がギュソー様に殺されるとか!いい加減なこと言わないで!!」
私はあらん限りの声量で叫んだ。
彼らは私達に追い討ちでもかけるつもりなのだろうか。
少なくとも、ギュソー様を侮辱されたのは確かだ。
私はたとえ、彼らが王子や大公の娘だとしても憎くて、憎くてしょうが――
「――そこまで調べ上げるとはね。カンパネラ、やはり君をさっさと潰そうとした私の判断は間違っていなかった。君は危険すぎる」
私は最初、彼の言葉が理解できなかった。
それはどういう意味ですか?
私がそれをギュソー様に問いかけるよりも、彼は私の腕を強引につかんで、馬車から地面に引きずり下ろす。握られた腕がジンジンと痛む。彼はこんなに力強かったのか。
「そのようね」
「う、嘘ですよね、ギュソー様…」
カンパネラが彼を一瞥した。
私はすぐさま、彼に事の真偽を確認する。
だが、彼はそれにさわやかな笑顔で問いただしてきた。
「オルテンシア、嘘って言うのはどこからの話しだい?」
「ど、どういう意味」
「色々時点によって変わってくるだろう?私がカルロンゾ公爵の本当の息子じゃないとか、君と私の馴れ初めは計画的だったとか、君とカンパネラとの拝謁式で起きたハプニングのこととかさ」
呼吸がうまく出来ない。
私は彼にだまされていたと言うのか、そう考えていたとき、彼らに聞こえないようにギュソー様は耳元で「演技だから」とささやいた。
彼が私を抱きしめる。私を抱きしめていない反対の手で、尖った物を押し付けて。
背中にほんの僅かに触れているだけなのに、鋭い痛みが走る。まさか、剣か、ナイフのようなものなのか。後ろを振り向いてはいけない。本当に殺されるかもしれない。
とても彼を信じられる状況じゃない。
「…分かっているわよギュソー。貴方はまだ貴族寮で眠っていることになっている。そしてオルテンシア…貴女はこれから仮面舞踏会で、会場にいる名前も知らない人間に逆恨みされて殺される、そういう筋書きなの。ギュソーの知人たちがそう証言することになっているから」
「そこまで情報を抑えていたのかい?驚いたな」
「私は必ず、貴方を司法の場に立たせるわ。他にも色々確認しなくちゃいけないからね」
彼は私を殺そうとしていた。
用済みになったから?
彼はそんな人ではないと、思っていた。
「オルテンシア嬢から手を離せ、ギュソー」
「嫌だといったら?王子」
マルテッロ王子は問答無用で、鞘から剣を抜いた。
ギュソー様は、王子を以前彼を獅子に例えたが、確かにそうだ。
まるで飢えた獅子のように全身の毛が逆立つように彼を警戒している。
「貴女もそんな男信じては駄目!」
「わ、私は」
カンパネラの問いかけに私は戸惑った。ついさっきまで、私が頼っていた人は疑わしく、目の前のカンパネラには昨日ひどい目に合わされた。
私は誰を信じればいいの…
「オルテンシア、一度だけで言い、私の言うことを聞いて。貴方本当に殺されちゃうわよ!」
彼女は泣きそうな顔でそう言った。
泣きたいのは私のほうなのに。
「彼らの言葉に騙されるな。彼らと私どっちを信じるんだい?私はいつも君を助けてあげたじゃないか。それに引き換え、彼女は君に昨日何をした?」
「ギュソー、何をする気!?」
彼は私の顎を、手の爪が食い込むほど凄まじい力で押さえつけた。あごが外れるかと思うほど、痛い。
私の顔は強制的に彼らの方を向けさせられる。
「ほら、昨日こいつらに何をされたか、君の口から言ってみろよ」
淡々と、抑揚のない言葉で彼はそう言った。
「わ、わたしは、昨日、彼女に脅されて…」
彼に言葉を言わされて、眼前は滲み、悔しくて、涙が出てくる。
「彼女を開放しなさい!手短に言うわ。公爵の身柄も抑えた、アンタの出生も調べた。それも公にするわよ!あきらめなさい。もうアンタの立場はない。ギュソー、大人しく観念して!」
「それで?」
「だから貴方の負けだって言ってんのよ、ギュソー!!」
彼は心底笑っている。何が可笑しくて笑えるのかと思う、そんな状況ではないはずなのに。
そして、ひとしきり笑った後、彼女に問いただした。
「……なぁ、一つ疑問だが。その勝ち負けの前提は私が貴族の立場に執着していた場合の話だろ?」
「――え」
その場の空気が一変した。私は声にならない悲鳴を上がる。
「君は優秀だね、カンパネラ。本当に聡い人間だ。私の想像以上に。でも、それだけだ」
「な、何を言っているの」
「自分の理の外にいる人間を理解していない、私の目的も理解してない」
彼の声が、さっきよりも耳元に近づいて聞こえた。きっと顔を寄せてきたのだろう。
以前ならともかく。今は嫌悪感しか感じなかった。
「それと、ありがとうオルテンシア。君を連れてきた甲斐があったよ。君を連れてくれば、必ず彼女は動かざる終えない。カンパネラ、君が俺を調べているのは知っていたよ。だから、こちらが動きやすいところにおびき寄せたんだ。ここまで調べ上げられていたとは思わなかったがね…」
「……私が彼女を助けなかったら、どうするつもりだったの?」
「ありえないよ、君は彼女を見捨てられない。社交界での振舞いで確信したよ。君はただのお人よしだ。これだけの力があるのに、あんな目に合わされてまだ彼女を脅す程度なんだから」
「あの場にいなかったお前が、何故社交界の顛末を知っている」
今度は王子が彼に問いただす。
「友人はたくさんいるんだ。あの社交界に貴族が何人いたと思うんだい?」
「カンパネラ、私のそばに。こいつは危険だ」
何かを察したように、王子がカンパネラを引き寄せる。
それも味方であるはずの後方に立つ兵士を警戒するような動きだった。
何をしているんだ。
そう思った瞬間。
彼らの仲間だったはずの兵士達が一斉に剣を王子とカンパネラに向けた。
周囲を完全に包囲している。
形勢は逆転した。
「急ごしらえでも、私兵を準備するべきだったね。この町の騎士団に応援を頼んだのは浅慮だよ。こんな風に私に協力してくれる連中がいるかもしれないからね。言っただろ友人は多いと」
「ギュソー、貴方!!」
「そうだ、私が一つ、人の脅し方を教えてあげよう。こうするんだカンパネラ」
彼は後ろからやさしくそう囁いて。
剣で私のわき腹をつらぬいた。




