広辞苑
広辞苑
「広辞苑ってさ、見たことあるかい?」
春男の質問は相変わらず、突然飛んでくる。ついさっきまで、話していたのは芋の値段の話だったというのに。家に着いて、早々、芋の話にも驚かなくなっている自分が悲しい。
「ああ、昔は家にもあったな。それがどうかしたのか?」
オレはコートをハンガーにかけながら言った。かけないと、しわになると、春男がうるさいのだ。
「今度新しくなったそうだよ。」
「知っているが?」
「買おうかなぁと思って。」
「なんでだ?」
「え……。」
振り返った春男は意外そうな顔をした。
「意外だな、君のほうが買うべきだと言い出しそうなのに。」
「そりゃ、置く場所と費用と使用数があれば薦めるが、……おまえ、なんで買おうと思ったんだ?」
オレはなんだか、怪しい予感がしてきた。
「ああ、最近テレビで直木賞がどーのこーの言っているから、僕も……。」
「お前は無理!」
オレは言い切った。
「やっぱり?」
春男はあっさりと妥協した。オレはなんだが、力が抜けた。
「お、お前、わかっているなら言うなよ。」
「いいじゃないか、言うだけなら自由だ。それにしても、広辞苑はどうしようかなぁ……。一応、辞書はあるんだよね、だけどさ、古いんだよ。辞書って生き物だろう?言葉も進化するし……。」
オレは、すそをまくって、手を洗い、お茶をそそぎながら聞いた。
「……おまえ、枯色って、どんな色だかわかるか?」
「枯色?茶色みたいなの?」
「いや、違う。つまり!言葉を知っていたとしてもだ、読む側にその言葉が通じなければ意味がないってことだ。だから、漢字や難しい言い回しよりも、わかりやすい文章を書け。と、いうより、春夏秋冬ってタイトルの作品を書くなら、春から書け!」
オレは春男にも、お茶を渡しながら言った。
「だ、だけど、春から始まらなくても……。ほら、春に終わる作品もあることだし。」
春男はなにやら抵抗している。
「百歩譲ってもだ!なんで、秋の終わりから始めるんだ?ええ?終わりが夏の頭か?なんでだ?そうしないとうまくいかない物語なのか?」
「いや、特に理由はないんだけど……。」
「じゃあ、春にしろ!」
「……わかったよ。後で服とかチェックしてくれ。」
春男が折れた。
「わかった。」
オレは、とりあえず、落ち着いてソファに沈み込んだ。
「ん?ところで、枯色ってどんな色なのさ?」
「お前、なんのためにパソコンの前にいるんだ、それで調べろ。」
春男は頷いて言った。
「そうだねぇ、これがあったら、広辞苑いらないかも。」
春男はなにやら、納得している。しかし、オレは本棚を見つめて、広辞苑が入りそうなスペースを考えていた……。




