先生、わたし。
※縦書き推奨です。
1
キイイイイイイイ、ガシャン。
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――。
歪んだ音だ。歪んでいて、狂っている。ひび割れたノイズ音は、まるで耳元で愛を囁くように静かに、けれども身体の芯を震わせるように、ただひたすら鳴り続いている。その壊れた音を聞いていると、足元の感覚が突然消失した。重力を感じることができずに、どこかへ、堕ちてゆく。仄暗いどこかへ、堕ちてゆく。
「――――い」
誰かが声を出した。誰の声だろう。知っている声だ。
「――――い」
誰かが声を出した。誰の声だろう。知っている声だ。
「内田先生!」
はっとして顔を上げた。
驚いて辺りを見廻すと、同僚の和田先生が心配そうにこちらを見ていた。
「大分お疲れのようですね」
「すみません」
口元に濡れた感触がして袖で拭った。和田先生はくすりと笑顔を浮かべた。どうやら眠ってしまっていたらしい。びっしょりと首元に汗をかいていた。
シャツのボタンを一つ外して仰ぐようにした。それにしても暑い。窓の外から強い日差しが射している。その奥から蝉の声が絶えず聞こえていた。職員室ではエアコンを28度、風量は弱で設定してある。あとは扇風機を部屋の中央に首振りモードで設置してあるが、それだけではこの暑さは消えてくれないようだ。最近では車のエアコンが壊れてしまって、家を出て帰ってくるその瞬間まで、とにかく暑い日々を送っている。
和田先生が俺の斜め前のデスクの上にハンドバッグを置いた。それからポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭いた。
今日も彼女は白い服を着ている。一度、何故白い服ばかり着ているのか、と質問をしたことがある。すると彼女は清潔感が必要な職業ですから、と答えた。まだ若いのに素晴らしいプロ意識だ。俺が二十四歳の頃には、確か毎日ジャージだったはずだ。年齢は俺の方がちょうど一回り上だが彼女から学ぶことは多い。
「お水、お飲みになりますか?」
「えぇ、すみません。いただきます」
和田先生は職員室の隅に置いてあるウォータサーバーの前に立つと、紙コップを片手に二つ持って器用に水を注いだ。このサーバーは一年前に突然やってきたものだ。使っても使わなくてもボトルが次々やってくるので、進んで飲むようにしている。予算の関係で、配送ボトルの数は決まっているらしい。こんなことに金を使うくらいなら、エアコンを使うことを許可してほしい。
和田先生はこちらへコップを持ってくると、俺のデスクへその一つを置いてくれた。マニキュアは塗っていないが、細く繊細で女性らしい指だ。
礼を言いつつコップを手に持ち口へ運んだ。冷たい水が喉を通り、まだ寝ぼけている頭を多少は働かせてくれた。
和田先生が席についた。積み上げられた書類の間から顔を覗かせるようにして、話しかけてきた。
「今日はお早かったんですね」
「えぇ。まあそのせいで、朝から居眠りをしてしまいましたが」
和田先生は口元に手を当てて小さく笑った。暑くて居心地の悪い職場だが、この人のおかげでいくらかましになる。
「和田先生も早いですね。それともいつもこのくらいの時間に?」
「いえ、今日は色々と準備がありますから」
そう言いながら、デスクの引き出しからクリアファイルを取り出した。中には何枚か紙が入っているようだ。
「コピー、取って来ますね」
「分かりました」
彼女は紙コップをあおり、それを潰して捨てると、クリアファイルを持って立ち上がった。印刷室は職員室から直接繋がっている。彼女はそこへ入っていった。扉が閉まる時、ばたん、とやたら大きな音が鳴った。建付けが悪いのだ。
この校舎はそこまで古い建物ではない。今年でちょうど築25年だ。そうはっきりと分かるのは、毎朝、体育館の壁に書かれた建造年月日を見ているからだ。その割には建付けが悪い箇所が多いと思う。
キイイイイイイイ、ガシャンとコピー機が稼動する派手な音が聞こえてきた。あの機械は、毎朝、最初の起動にやたら時間が掛かる。電源を切ってしまっているからだ。これも節電の一環ということらしい。一体それでどれだけの効果があるのか、市教委は知っているんだろうか。
音を聞きながら、何か彼女と話す話題はないものかと考えた。最近給食の味が随分薄くなったことでも話そうか。いや、そうだ。俺にもやることがあったんだ。
目線を落とし、原稿用紙を見た。幸い、よだれで汚してしまった形跡はない。眠る直前の俺が本能的に原稿用紙をよけてくれたようだ。
一番上の用紙の端を持って、手前に引き寄せた。
タイトルを見る。【先生、わたし。】とある。その下に【五年一組 西野美香】と続いた。
授業の一環で物語を作るというものがあり、今日はそれを読むために、いつもより一時間半も早く家を出たのだった。
(先生、わたし。か)
創作だということは理解できているだろう。この子は頭がいい。悪ふざけをするタイプでもない。一体どんな内容なのだろうか。原稿用紙三枚分のようだ。
子供たちの発想は本当に面白い。大人には考えもつかないようなことを書いてくる。俺は胸を高鳴らせつつ、一行目に目を移した。
2
『先生、わたし。』 五年一組 西野美香
先生、わたし。すごいひみつを知ってるんです。
先生は、五年一組の生徒の数、何人だと思いますか? きっと今、心の中で、三十四人だろって言ったと思います。そうです。わたしたちの人数は、全部で三十四人ですよね。
じゃあね、今年の四月は何人だったと思いますか? 転校しちゃったり、お休みしてる子もいないから、変わらず三十四人のはずですよね?
でもね、信じてくれないかもしれないけど、五年一組の生徒の数はね、三十五人だったんです。他の先生も、みんなも、その子のことを忘れちゃったけど、わたしたちは全部で三十五人いたんだよ、先生。
その子の名前は、■■っていいます。■■■と■■■■だね。
■■は、いつの間にか、急にいなくなっちゃった。どうしてわたしだけ、そのことを覚えてるのかは分からないけど、みんなそのことを忘れちゃったの。
先生は、今、わたしがうそをついていると思ってますよね。
だからね、先生にだけ、ひみつを教えてあげる。
四月に遠足に行って、みんなで写真をとったのを覚えてますか?
人数を数えてみてください。きっと三十四人だと思います。でも、わたしが人数を数えると、ちゃんと三十五人いるんだよ。田村君と西島君の間に立って笑ってるんだよ。もしうそだと思うなら、頭だけ見えないように写真を切って、体だけ数えてみて。ちゃんと三十五人写ってるから。
それとね、だれに言っても文字に見えないって言われるんだけど、図書室のとなりのかべの上の方にね、その子の名前がちっちゃく書いてあります。■■はああ見えて、やんちゃなところがあったから、きっといたずらだと思います。
先生は、せが高いからきっと読めると思います。今度見てください。
あと、先生に思い出してもらえるように、今プレゼントを作ってます。楽しみにしててね。
先生。この話は他の人にしたらダメだよ。この話をするとね、みんな冷たい目でわたしを見るの。きっと先生も同じだよ。だから話しちゃダメ。多分ね、誰かがチョウ能力でソウサしてるんだよ。その子のことを思い出せないように。だからあんな冷たい目になるの。きっとわたしにだけチョウ能力が効かなかったんだよ。
お母さんに言ったけど、イタズラでしょって信じてもらえなかった。
でも先生なら信じてくれるよね? わたしは先生のこと、信じてるよ。
3
俺はしばらくの間、原稿用紙を持ったまま文字を見ていた。蝉の鳴き声が急に止んで、扇風機の回る音とコピー機が稼動している音が大きくなったような気がした。
唯一の読者である俺に語りかけるような文章にして、子供ながらに、創作と現実の境目を曖昧に見せるよう工夫をしたということだろうか。
特にこの黒く塗り潰された部分は面白い。大人ならこういう発想はしない。原稿用紙のマスに合わせて几帳面に塗ってある。これはボールペンだろうか。
ルーズリーフへ「工夫が良かった! 本当の話みたいで面白かったです。今度は起承転結を意識してみましょうね」と書き込んだ。原稿用紙の三枚目にクリップで留め、それから一番広い引き出しを開けて、そこの一番上へ重ねて入れた。
時計を見る。午前六時五十分。子供たちが登校してくるまで、あと一時間はある。寝ていたせいで予定より進捗が遅れている。急がなくては。
次の原稿用紙を手をつけようとした時、印刷室の扉が開いた。両手にコピー用紙の塊を持った和田先生が出てきた。
彼女はデスクへそれを置くと、ため息をつきながらハンカチで額の汗をぬぐった。頬のところに黒髪がぺったりと張り付いているのが見えた。印刷室はこの職員室よりも更に暑い。きっと機械が密集しているからだろう。サウナと言っても言い過ぎな気はしない。
「授業の準備も大変ですね」
そう言うと、彼女は目を丸くした。不思議そうに首を傾げこちらを見ている。
(どうしたんだろうか)
「あの?」
彼女はたった今俺に気がついたような仕草を見せ、取り繕ったよう「あぁ、すみません。ぼおっとしちゃって」と笑った。きっと暑くて俺がいることを失念していたのだろう。俺は普段、登校時間ぎりぎりにやってくるから。
彼女がこちらにやってきた。「何をされていたんですか?」
俺はしまったばかりの原稿用紙を引き出しから取り出した。まだ見ていない次の生徒の原稿用紙は、一人で落ち着いた状態で見たいからだ。
「生徒たちに書かせた掌編小説を読んでいたんです」デスクの上へ用紙を広げる。
「へぇ、見てもいいですか?」
「えぇ、どうぞ」
俺の肩越しに和田先生がそれを見た。シャンプーの良い香りがして思わずドキリとした。
「子供の発想というのは、本当に面白いですよね。特にほら、こことか」
黒く塗り潰されたマスを指差し、ちらりと彼女の顔を見た。
(――え?)
どくん、どくんと心臓の音が聞こえた。鼓動が早くなっている。彼女にときめいているわけではない。
「和田先生?」
ある一点を凝視したまま、瞬きもせずに、ただ静止している。その黒い瞳から人間らしさの一切が消え失せていた。まるで時が止まったかのようだ。だがそうではない。蝉がまた狂ったように鳴き始めたからだ。
世界から色が消え、代わりに音が増していく。壊れて歪んだノイズ音が、モノクロの世界へ満ちてゆく。
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――。
死体のような目玉が、突如こちらへぎょろっと向いた。視線が合う。心のないナニカが俺を見ている――。
ナニカが俺の耳元で囁いた。俺はその言葉を聞いているが理解ができない。ノイズに混じって濁った音が聞こえただけだ。俺は乾いた声で悲鳴を上げていた。
ナニカは俺の顔を数秒じっと見たあと、無機質な表情のまま顔を上げ、そのまま職員室を出て行った。
4
五分程その場に立ち尽くしてから、ようやく俺は、今何が起きたのかを理解し始めた。デスクの上の原稿用紙を見る。この文章を見た瞬間、和田先生の様子が急変したのだ。さっぱりした性格だが女性らしい柔らかな思考を持っている人だった。俺を含め同僚にも人気があったし、子供たちからも慕われている。
何故、あの人が突然化け物のようになってしまったのか。
俺は原稿用紙を手に取り、三枚目までめくった。
じゃあね、先生。この話は他の人にしたら駄目だよ。この話をするとね、みんな冷たい目でわたしを見るの。きっと先生も同じだよ。だから話しちゃ駄目。多分ね、誰かがチョウ能力でソウサしてるんだよ。その子のことを思い出せないように。だからあんな冷たい目になるの。
ひょっとして、美香に一杯食わされたのだろうか。和田先生と手を組み俺を脅かそうとした。だが俺が予想以上に怯えてしまい、どうしていいか分からなくなった和田先生は職員室を出て行った。
いや、違うだろう。美香は悪だくみする子じゃないし、和田先生も協力しないだろう。
あるいは。こうは考えられないだろうか。
例えば、この文章の何かが彼女の心を刺激した。よく読んでみると、この文章はイジメの告発文のように見えなくもない。誰か一人を全員で無視し、まるでいない人間のように扱っている。俺のクラスにそんなイジメはないと断言できるが、和田先生にはそう見えなかったのかもしれない。そして彼女の過去の何かが、あの表情を作らせた。
――いいや。これも違う。あの表情は断じてそんな顔ではなかった。
まるで生物じゃないような――。
あの不気味な眼差しを思い出し、俺はまた身震いを起こした。あの顔はまともな精神の人間のそれじゃない。どんなショッキングな出来事があったとしても、あんな顔はしないだろう。
では一体何が原因なのか。いや、正直に言おう。俺は今、この原稿用紙の話が本当なのではないかと馬鹿げた妄想をし始めている。
それなら確かめてみればいい
職員室の廊下側の壁に大きな書棚がある。そこにアルバムがあるはずだ。
探してみると、五年一組のラベルが貼ってあるアルバムはすぐに見つかった。まだ三か月分の写真しか中には入っていない。すぐに見つかるはずだ。
(これだ)
白い帽子を被った体操服の生徒たちが三列になって笑顔を向けている。中央には俺も写っていた。背景に山が見え、その上に青い空と雲が広がっている。これはK**高原で撮った一枚だ。長い道をみんなで歩き、牛の乳搾り体験をした。欠席者は一人もいなかったことを覚えている。
カバーから写真を取り出し、アルバムを近くにあった台に置いた。印刷室への扉を開ける。むわりとした熱気が顔を撫でた。その時になって、俺は暑さを忘れていたことにやっと気がついた。
カラーコピーを数枚取ってから印刷室を出る。写真をアルバムへ戻し書棚へしまうと、印刷した紙を持ってデスクへ着席した。
デスクの上の筆入れから赤ペンを取り出した。体の中央にレ点をつけながら、数を数えていく。俺を除いて三十四人のはずだ。
頭の中でカウントした数字は三十四人だった。レ点の数をもう一度数えて確認する。間違いない、三十四人だ。当たり前だ。それが五年一組の人数なんだから。
(そういえば、誰と誰の間に立っていると書いてあったっけ)
原稿用紙を見て確認する。田村君、西島君。友宏と信一か。
コピー用紙の写真を見る。友宏と信一は隣り合っている。間に誰かが立っているようには見えない。
写真が横になるように紙を持ち、そこへはさみを入れる。横一列に並んでいるから、はさみを真っ直ぐ入れていくだけで首が落ちてゆく。まずは上側にいる子供たちの首が落ちた。
次に中断、下段と首を落とす。まるで子供の首を切っているような気がして、気持ちの悪い作業だった。
先ほどつけたレ点の数を数える。
数える――。
(――え)
三十五。増えている。
どくん、どくんとまた鼓動が早くなりはじめた。背中にかいている汗は暑さのせいではないだろう。
間違いに決まっている。そう思い数え直してみたが、何度数えても、レ点の数は三十五だった。
(馬鹿な。そんなはずはない)
カラー印刷した別の用紙を手前に寄せ、先ほどと同じように目印をつけながらカウントする。今度はレ点ではなく、数字を書いていった。三十四だ。友宏と信一は十五、十六になっている。彼らの間は間違いなく誰もいない。人ひとり立てる空間はあるが、感覚を空けているのは何もこいつらだけじゃない。不自然さはない。
再度はさみを入れていく。首をじょきじょき切っていくと、粘り気のある罪悪感がどろどろと胃に落ちていった。が、今は早くこの事象を解明したい気持ちの方が強い。全員の首を切り落とし、再び数えていく。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五。
三十五。
体操服の中央に三十五、と赤い文字で書かれた誰かがいる。
その隣は十六となっている。友宏と信一の間に誰かがいるのだ。切っている間は、こんな数字は書いていなかった。
一瞬目を離した瞬間に、突如現れたのだ。誰かが。
(一体誰なんだ)
体操服を来て、こちらにピースサインを向けている首のない子供。その無邪気な指を見た瞬間に、ぞっとして血の気が引いた。
俺のクラスに見知らぬナニカがいる。
どちらかというと女子に見えるが、断言はできない。胸元の名札も潰れてしまっている。写真を見ても、それは同じだろう。一体これは――。
がらがら、と職員室の扉の開く音がした。そちらを見る。内藤先生と寺尾先生が立っていた。和田先生の表情は人間に戻っていたが、怯えた顔をしていた。
5
内藤先生は昔ながらの熱い想いのある先生で、指導も同様に熱いことから、生徒からはあまり好かれていない。だが子供たちが大人になったその時には、内藤先生に出会えて良かったときっと思うだろう。そんな人だ。
寺尾先生は俺の一つ下の三十四歳。背が低く手足も短くて愛嬌のある顔をしている。生徒たちとは友達のような付き合いをするが、締めるところは締められる先生だ。
彼らは職員室の入り口に立ったまま、二人揃って、俺をじっくりと観察するように見ていた。
なんだろう、と思って気がついた。彼らは今、俺が手に持っているものを見ているのだ。はさみ、頭の消えた生徒の写真。
俺はデスクの上の頭だけになった写真を拾い、背中へ隠すようにした。それから彼らの顔を見返してみたが、鋭い視線を変えることはなかった。
「今、何を隠したのかね?」
内藤先生が言った。太い眉を眉間に寄せている。既に写真を見られていたのだろう。生徒の写真の首を切るなど明らかに異常だ。それに俺がつけた赤いレ点は、まるで血のように見えなくもない。彼らは俺を異常と思い、警戒しているからこそ、こんなに険しい顔をしているのだ。
答えないでいると、じりじりと二人が近づいてきた。今にも取り押さえられそうな気配を感じた。俺は咄嗟に判断し、背中に隠していたものをデスクへ置いた。寺尾先生が一瞬小さな目を見開いた。
「あなたは一体、何をしていたんですか」そしてまた疑いの目を俺に向ける。
仲のよかった同僚に言われると、ひどく心が痛くなった。それから、その後ろにいる和田先生の不安げな顔を見たら、今度は怒りが沸いてきた。
(くそ。先におかしくなったのはアンタだろう?)
「勘違いしないでください。内藤先生。寺尾先生。生徒の作った作文を見て、少し試していただけです」
疑われている不安と、和田先生への苛立ちで、俺は軽率な行動をした。そしてその直後に後悔した。
俺は美香の原稿用紙を持ち上げて、突き付けるように彼らに見せた。
その瞬間、彼ら三人の瞳から、生気が失せた。口を半開きにし、真っ黒な目玉をこちらに向け、じっと俺の顔を見ている。そして三人同時に俺を指さした。何かぶつぶつと言っている。まるでお経が重なったようなその声は、まるで理解ができないものだった。
狂っている。
彼らが俺を指さしたまま、また一歩近づいた。同時に俺は美香の原稿用紙を掴み駆け出していた。彼らが入ってきたのとは別の扉へ向かい、廊下へ出た。まるで夢の中を走っている時のように足腰に力が入らない。それに今見ている景色もどこか現実感がない。きっと恐怖が俺の精神を蝕んでいるのだ。
突然、何かが変わってしまった。いつも通りの朝を過ごしていたはずなのに。きっかけになったのはこの原稿用紙だ。美香に話を聞かなくてはならない。
走りながら、廊下にある時計を見た。七時三十分。美香が登校するまであと三十分はあるだろう。どうするべきかと考え一度立ち止まった時、走る足音が聞こえた。
リノリウムを叩く複数の足音。振り返る。内藤先生と寺尾先生がこちらに向かってきていた。表情は人間に戻っていたが険しい顔をしていた。明らかに俺を追ってきている。
再び俺は駆け出した。外へ出るか校舎にいるか悩んだ結果、階段を下ることにした。
6
この校舎は東階段と西階段があり、どちらも地下から最上階の五階まで行き来できるようになっている。どちらから追ってきても、反対側に逃げればいいと判断して地下へ降りたが、幸い追ってくるようなことはなかった。
呼吸を落ち着かせながら歩いていく。薬品のような臭いがする。おそらく理科室が近くにあるからだろう。今日は森野先生が授業の準備をしているはずだ。
理科室の二つ隣に図書室がある。この近くの壁に、赤い文字があると書いてあった。扉から一歩離れて周囲をよく観察した。何故かその周囲だけ、妙に壁が新しい。湿気か何かで壁紙が破れたのだろうか。――ああ、そう言えば最近、ここの壁の中の柱を改修したんだった。耐震構造がどうのこうのと市教委が騒いで。
(あれか)
その新しく見える壁の上の方に、何かが書いてある。一瞬それは、確かに文字に見えた。だがその文字に集中した瞬間に、それはただの赤いシミのようになった。おそらく目の錯覚だ。文字と意識して探していたので、そうやって見えたのだ。しかし、なんであんな場所に。
あれは赤いペンで滅茶苦茶に塗りたくったように見える。表面がざらざらしている壁だから、力を込めないとあんなにしっかり書けないだろう。
しかしあの高さは俺でも手が届かない。子供たちでは絶対に不可能だろう。脚立でも持ってくれば届くかもしれないが、悪戯でそこまでするだろうか。
(あれ)
そのまま赤いシミを見ていると、それが先ほどよりも僅かに広がって見えた。
目をこすり、もう一度赤いシミを見る。
広がっている。じわりじわりと白い壁を侵食するように、赤いものが広がってきている。それはいつの間にか天井まで広がっていた。何かが俺の頬に触れた。生温かいものだった。
触れてみる。そしてその指を見た。ねちょっと嫌な音がした。
俺はまた悲鳴を上げた。
赤黒くてひどく臭いものが、べったりとまとわりついていた。あぁ、眩暈がする。耳鳴りもひどい。これは血ではない。もっと粘度の高いものだ。例えば内臓とか脳とかなら、こんな触感がするのではないだろうか。
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――。
耳鳴りがひどくなってきた。
俺はその場から走って逃げた。
7
逃げながら、今まで見たものは全て夢ではないかと思い始めていた。
最近は暑い日が続いている。ひょっとしたら疲れていたのかもしれない。きっと意識が朦朧として白昼夢を見たに違いない。でなければ、先ほどの現象はなんだったと言うのだろう。頬や指の赤いものはいつの間に消えていた。
ただ職員室に戻る気にはなれず、校舎内を適当にぶらついた。人がいればそちらには近づかず、誰かが近づいてくれば逃げるようにした。次第に、子供たちの声が賑やかになってきた。登校した子供たちが教室に入ってきたのだろう。
俺は五階へ足を運んだ。
五年一組に入る。おはようございます、と元気な声がした。子供たちの顔を見ると、やはり朝のことは全て夢だったんだな、と思えた。ここには日常がある。愛すべき子供たちがいる。考えてみれば、内藤先生も寺尾先生も、心配をしていたように思えなくもない。今日は早めに帰って、銭湯にでも行ってこよう。そうすればあんな馬鹿げた妄想は視ないだろう。
教室を見渡したが、美香の姿は見えなかった。ポケットをまさぐった。そこには丸められた美香の原稿用紙がある。これは妄想ではなかったようだ。
教室の窓際のデスクへ座る。隠すようにして丸めた原稿用紙を少しだけ開いた。そこにある文字もまた、朝見たものと変わらない。美香がこのぐしゃぐしゃの用紙を見たら傷つくだろう。絶対に見せてはいけない。そう決意し再度ポケットの奥深くへしまいこんだ。
徐々に生徒たちが集まってくる。時計を見る。八時十五分。もうすぐ朝の会が始める時間だ。普段ならそろそろ静かにしだす時間だが、今日は何故だか妙に騒がしかった。
美香の姿はまだない。あの子は割と早い方だったと思う。気になって近くにいた茜に訊いてみた。
「茜、美香はまだ来てないか?」
「え?」
きょとん、とした顔を俺を見ている。
どうしたんだろう。
「美香はまだ来てないのか?」
「ミカ? ミカッテ?」
やめてくれ。
全て妄想だったんだろう?
「ミカッテダレノコト?」
寒気を覚えた。気がついた時、教室にいた生徒たちの顔が変貌していた。いくつもの黒い目玉がこちらを見ている。まるで精巧に作られた人形が、電気信号で無理やり皮膚を動かしているように、不自然な表情を浮かべて、首だけこちらに向け、俺の顔をじっと見上げている。
(落ち着け……、これは俺の妄想だ)
相当まいっているらしい。
生徒たちの顔までこんな風に見えるなんて。
だいたい、美香のことを知らないわけないのだ。茜とは仲がいいのを知っている。美香のことを忘れるわけが――。
背筋に電流が流れたような感覚がした。――多分ね、誰かがチョウ能力でソウサしてるんだよ。その子のことを思い出せないように――。
子供たちが全く同じ動きをしながら、こちらに一歩近づいた。そして右手で俺を指さした。ぽっかりと口を開けた。何かを呟いている。
俺は走って教室を出た。
恐ろしい。罪深い想いだが、俺は教え子たちを怖いと思ってしまった。
美香、お前もまさか、忘れられてしまったのか。ありえないと思いつつも、そんなことを考えてしまう。唐突に美香の書いた文字を見たいと思った。手書きの文字を見たら、美香の存在を感じられると思った。ポケットに手を入れる。
ネチョっと不気味な音がした。手の先に生ぬるい感触がある。
(あぁ、そんな)
原稿用紙が赤黒くて臭いもので汚れている。ぼたぼたと地面にそれが垂れている。
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――。
耳鳴りがする。赤く汚れた用紙を広げた。
ナニカ書いてある。
赤い中に黒いもので、ナニカが。
先生、わたし。プレゼントの用意、できたよ。
図書室に来て。文字が書いてあったところだよ。
8
地下フロアの廊下を歩く。そこはひどい不敗臭がした。薬品の臭いと、赤黒いナニカが充満しているのだ。壁も床も天井も内臓のような色に染まっている。歩くたびに、ネチョ、ネチョと靴の底から音がした。一度滑ってしまい、白いシャツが赤黒く染まった。生温いナニカが服の中に入り、下着まで濡らした。風呂に入っても、この臭いは取れないだろう。
精神が壊れてしまった。俺はもう、何も感じていない。恐怖も、驚きも。ただ脅迫観念めいた何かが腹の底にあった。
図書室の扉の前へ到着する。
赤くて黒いものが蠢いて、模様のように変化した。まるで化け物の体内にいて、俺は今から消化されるのではないかという気がした。
模様はやがて、人間の子供のような顔に変化した。黒い目玉がこちらを見た。口の部分の黒がねっとりと動いた。
「先生、壁を壊してみて。そこにプレゼントがあるよ」
美香の声だ。声はその壁からではなく、頭の内側に直接鳴っていた。
「先生が持ってるそれで、壊してみて」
いつの間にか、俺は手に斧を持っていた。これなら壊せるだろう。目玉が右側へ動いた。そこを壊せばいいということだろう。
振り上げて、振り下ろす。壁に斧が突き刺さる。両肩に重たい感触がした。
何度も、何度も何度も同じ動作を繰り返す。次第に壁に穴が空いてきた。何度目かの破壊の瞬間、一気に壁が剥がれ落ちた。
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――。
また耳鳴りがした。
赤黒く染まった子供がいる。
「あ…………あ……」俺は呻き声を出していた。
女の子。頭がぱっくりと割れ、ナニカがはみだしている。その顔は紫色に変色し、皮膚が使い古したベルトのようにひび割れている。首の辺りからは何かが突き出していた。きっとあれは骨だ。
「あ…………あ……」
淀んだ黒い目玉を浮かべ、俺の顔をじっと見ている。
「美香………………」
それは、こちらを指さした姿勢のまま硬直している美香の死体だった。
美香の死体が口が開いた。
「先生、わたしのこと、思い出した?」
俺はその場に膝をついた。
「先生、わたし。ごめんなさい。嘘をつきました。忘れられたの、わたしだったの」
俺はそのまま額を床にこすりつけた。臭いものがべちゃりと額に触れた。
「もう忘れたら、駄目だよ」
「ごめん! ごめん! 美香、ごめん!」
彼女のことを思い出した。俺は――。
蝉の声がやかましい日だった。
車のエアコンが壊れていたせいで、とにかく暑くて、玉のような汗が噴き出ていた。多分苛々していたのだろうと思う。とろとろと走っているバイクを追い抜いた時。
――俺は美香を、愛すべき生徒の一人を轢き殺してしまった。
最後に見た映像は、こちらを見て指をさしている美香の顔だ。その背後に、狂ったような蝉の声が鳴っていた。
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――と。
その後のことはよく覚えていない。俺は一体、どうしたんだっけ。
目の前が赤く、黒く染まっていく――。俺は――。
9
「夏になり蝉の声を聞くとフラッシュバックするようです」和田先生が言った。
「そうですか。確か去年もでしたね」内藤先生がそう答えた。
俺はそれをベッドの上で聞いている。声は聞こえているが理解ができない。音楽を聞いているような感覚だ。なのに質問をしようという意欲がなかった。俺は天井を見つめたまま、ぼんやりとその会話を聞いていた。
「えぇ。去年はそれから一週間程度で、また記憶が消失しました」
和田先生が言う。すると寺尾先生がため息をついたのが聞こえた。
「これじゃあ遺族も報われないでしょう。だいたいこの人、殺した生徒の死体を校舎に隠そうとしたんでしょ? そんなに心に傷を負うほど生徒を愛していたと思えないけどなぁ」
「やめてください、寺尾先生。内田さんの前で。それに、わたしたちの仕事は、患者の治療とケアをすることです」
「へいへい。まあ白紙のコピー用紙を切り刻んだり原稿用紙だと言っているのを見た限りでは、演技には見えなかったしねぇ。人の心ってのは分からんもんだね。だからこの仕事をしてるんだけど」
「寺尾先生、やめないか。さ、行こう。和田先生も。内田さんを眠らせてあげよう」
ジィジィィ――、ジジジジ、ジィィジジジィィ――。
窓の外から蝉の声が聞こえている。
歪んだ音だ。歪んでいて、狂っている。ひび割れたノイズ音は、まるで耳元で愛を囁くように静かに、けれども身体の芯を震わせるように、ただひたすら鳴り続いている。その壊れた音を聞いていると、足元の感覚が突然消失した。重力を感じることができずに、どこかへ、堕ちてゆく。仄暗いどこかへ、堕ちてゆく。了。