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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第九十七話 泪雨

 ランプが放つ橙のほのかな光を頼りに、彼は一人釜戸の前に立っていた。半刻前から使い始めた釜戸の隙間からはわずかに炎の明かりが漏れている。


 彼は時折火の加減を調節しながら、釜戸にかけた鍋の中身を優しく玉杓子でかき回す。くつくつと火が回り始めたそれを眺めながら、彼はここ数日のことを思い出していた。


 アサヒがシンの故郷へ出立するとき。


 どこかよそよそしい二人を見て、鎮魂祭の夜に何かあったのだとすぐに察した。はじめは自分に気を遣っているのかと思い良い気がしなかったが、様子を見るにどうやら違う。


 アサヒが発ってからというもの、ハツメは毎日深夜まで縁側で考え事をしている。


 恋煩いだろうな、と思う。


 戦に対する不安も相まって、アサヒのことが頭を離れないに違いない。


 しかし。俗な言い方になってしまうが、何故アサヒはあの日に決めなかったのかとトウヤは思う。


 あの夜、彼がアサヒとハツメをあえて二人にしたのは山ノ国、谷ノ国同士の気遣いもあったが、男女間のそういった意味での気も遣ったつもりだった。


 まさか何もないことはないだろうとは思っていたが。何かあったなら、せめて綺麗にしてから旅立って欲しいものだ。


「帰ってきたら一言言ってやらねば気が済まぬ」


 恨めしげにトウヤは呟くと、釜戸の火を消す。

 くつくつと軽く煮立った鍋の中身を白磁の器に移せば、辺りに芳醇な香りが広がった。


 彼はその器を一つ持つと、中身が冷めないうちにハツメが佇む縁側へと足を運ぶのだった。




 ハツメ嬢、とトウヤが廊下から声を掛けると、ハツメはぼんやりと彼を見た。


「トウヤ」


「隣に座っても良いだろうか」


 ええ、という返事を受けてトウヤはハツメの隣に腰を下ろした。縁側の床は冷え切っている。これでは彼女の身体も冷たいに違いない。


 彼は手にしている器をハツメに渡す。


「冬に雨とはいえ、この時期の夜は冷え込むな。眠れぬなら飲むと良い」


 そう言って彼女に差し出したのは甘酒だった。


「わぁ。ありがとうトウヤ」


 ハツメはそれを受け取るとにこりと笑った。器を両手で包み、手を温める。液面に二回ほど息を吹きかけ気持ち冷ましてから、彼女はすす、と口にした。


「美味しい。生姜が入ってる」


 そう言って彼女は頬を染めながらほう、と息を吐く。手触りの良いつるりとした白磁の器と、ふわりとした白い息が重なった。


 無言の時間が流れる。


 彼女は縁側から外に投げ出していた足を引き寄せ、丸まるように膝を抱えた。両手はまだ温かい甘酒の器を包んでいる。


 縁側の先に広がる庭は夜の闇を纏っている。雨雲が空を覆い月や星も見ることはできないが、こういうときは明るくない方が良いのかもしれない、と彼は思う。


 優しく椿の樹を打つ雨の音がトウヤの心を落ち着かせた。


 頃合いをみて、彼は口を開いた。


「アサヒと何かあったのだな」


「……うん」


 伏せ目がちにハツメが呟く。


「好きなのだろう、アサヒのことが」


 確かめるように、ゆっくりと紡がれたトウヤの言葉。

 ハツメは曲げた膝に顔を(うず)めると、声を震わせた。


「……好き」


 その言葉は、凪いだ水面に滴が落ちるように。高く澄んだ響きでトウヤの心を打った。

 一瞬揺らいだ心はすぐにその言葉を受け止めると、再び凪いでいく。


 彼女が顔を(うず)めて良かったと、彼は目を伏せた。


 他の男を好きという彼女の顔を見なくて済んだ。

 今の自分の顔を彼女に見せなくて済んだ。


 小さく息を吐いたトウヤは再び目を開けると、ハツメに向かって口角を上げる。


「伝えたらいい。そうしたらきっと楽になる」


「本当に?」


「ああ。二人の友人の俺が言うのだから間違いない」


 トウヤがそう言うと、ハツメはゆっくりと顔を上げて横に座る彼の方を向く。


 恥ずかしいのか、顔は少し紅潮していた。目は少し潤んでいた。


 これは見るべきではなかったと、トウヤはハツメから視線を逸らし、目を細める。


「まずはアサヒの帰りを待とうではないか。最近は都の様子が不穏だ。何か起こる前に、帰ってきたら良いな」


「うん。ありがとうトウヤ。話したら、何だか気持ちが軽くなった。甘酒も温かくてほっとする」


「甘酒の残りは部屋で飲むと良い。女性があまり外で身体を冷やすものではない。眠れそうか?」


「ゆっくり眠れそう。……本当にありがとう」


 そう言ってハツメは立ち上がると、トウヤに微笑む。


「おやすみなさいトウヤ」


「おやすみ、ハツメ嬢」


 彼女は大事そうに甘酒の入った器を抱えて、寝室へと戻って行った。


 彼女の姿が見えなくなるまで目で追っていたトウヤは、誰もいなくなった廊下から目を離す。


 雨は先程よりも弱まっていた。ぽた、ぽた、と庭先の椿から滴が落ちる音だけが耳に入る。


「伝えたら楽になる……か。自分の胸に刺さるな」


 だが彼の場合楽になるのは自分だけだ。

 言えるわけがなかった。


 眠れなかったハツメを寝床に行かせたは良いが、トウヤ自身こそ今日は眠れそうにない。


 散歩にでも行くか、と彼は腰を上げた。




 トウヤは気付いていた。自分ではハツメの相手になれない。


 それは花ノ国で再会した時からひしひしと感じていたことだが、最もそう思ったのは海ノ国の漁村に泊まったとき。アサヒが深夜稽古に抜け出して、その後に起きたハツメが外へ出て行ったとき。彼は目が覚めていた。


 次の日、花ノ国を出てからずっとふさぎがちだったハツメの表情が心なしか晴れやかなのを見て、二人の間で何か話したのだと思った。彼女はアサヒに悩みを打ち明けることができたのだと。


 そして、書庫で。自分には彼女は弱みを見せない、甘えてくれることはないのだと身に沁みた。



 自分が彼女を全く幸せにできないとは思わない。

 大切にして、人並みに幸せにする自信はある。

 

 だが、彼女が望む場所はアサヒの隣で。

 これまでもそうだったように、この先もそれは変わらないだろう。


 気丈な彼女が唯一甘えられる相手がアサヒなら、彼の隣が一番だ。

 アサヒだって大切な友人だ。

 自分は少し離れたところで二人の幸せを見守っていればいい。




 ぱら、ぱらと小雨だったはずの空はいつの間にか表情を変え、雨は再び強まっていた。

 こんな天気に傘を持たないで散歩に出るなど、らしくないな、とトウヤは天を仰ぐ。

 空は彼の代わりとでも言うように、冷たい雨粒を彼の顔に落としていた。

お読み頂きありがとうございます。

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