第七十話 夜の汀
トウヤの持ち前の男っぷりによって美味しい食事、温かい寝床、都までの旅の支度と全てを手に入れた三人は、翌日、世話になった村民たちに丁寧に礼をして村を後にする。
それからは数日かけて、三つの村を越えた。
そうして海ノ都も近付いてきたある日。
日が暮れる前に寄った村の一軒と交渉し、寝床だけを確保した。
今は使っていないという納戸を借りての一泊だ。納戸の中を見れば漁網やその他小道具が仕舞われていた。手入れはされているのか埃は被っていなかったが、どれもしばらくの間使用されていないようだった。
村人の話によるとこのままの進度で歩けば明後日には海ノ都に着くらしい。
都に着く前に読まなければならない書簡があったと、三人が揃う中でハツメが二通の書簡を取り出した。
黒の書簡と、白の書簡が一通ずつ。
ハツメはそのうちの白い方を手に取ると、封を破る。中は二重に包まれていた。そのまま上質な便箋を広げて、レイランの優美で丁寧な文字を追いかける。
「何て書いてあるんだ」
ハツメが読み終わったのを確認して、アサヒが話し掛けた。
「えっとね、レイランたちの師だったという人が、海ノ都の学術院で先生をしているんですって。その人、神宝についても知ってるし、頼めば私たちの面倒もみてくれるだろう、って書いてあるわ」
「学術院か……本で読んだことがあるな」
「大陸一の蔵書量を誇る書庫があると聞いているぞ」
アサヒの呟きにトウヤが頷く。
「レイランたちに四神神話や天比礼について教えたのもその先生だって。キキョウさんっていうらしいけど」
「会ってみる価値はあるよな」
アサヒの言葉に他の二人も賛成し、海ノ都に着いたらまずは学術院のキキョウという人物の元を訪ねることになった。
深夜。
手持ちの衣を被って眠っていたハツメがふと目を覚ました。
薄暗い中ごろんと寝返りを打つと、納戸の端で同じように横になっているトウヤの背中が見える。
――アサヒがいない。
眠るときはトウヤの隣にいた彼の姿が見えず、ハツメはゆっくりと身体を起こした。
トウヤを起こさないよう気を遣いながら納戸を出る。
民家の方向は真っ暗だ。だが納戸の近くには松明が一本、地面に刺さるような形で燃えていた。
地面を見れば、おそらくアサヒのものと思われる足跡。柔らかい土に付けられたそれは、浜辺に続いていた。
浜辺に近付くと、そこにも一本、松明に火が灯されていた。松明のすぐ近くではアサヒが剣を振るっている。ハツメはすぐにアサヒの名を呼ぼうとしたが、出来なかった。
波のさざめきだけが聞こえる夜更けの浜辺で、彼は鬼気迫るように稽古の型をなぞっていた。
シンから教わった通りに、何度も何度も。
今、アサヒの眼前には自分に稽古を付けるシンが見えているに違いない。そう思うと、ハツメは声が掛けられなかった。
「ハツメ?」
突然名を呼ばれてはっとすれば、アサヒが一人稽古を中断してハツメの方を見ていた。
「ごめんなさい。邪魔しちゃったかしら」
「いや。むしろ気付かなくてごめん。こんな時間にどうしたんだ」
アサヒが剣を納めて歩み寄る。ハツメに近付きながら上がった息を整える彼は、また心配するようにハツメの顔を見つめる。
またこの目だ。
本人だって大変なはずなのに、なおも自分を心配するアサヒの優しさが痛いくらい心に沁みる。
急かさず、ゆっくりと自分の言葉を待ってくれている。
そんなアサヒの様子に胸が一杯になって、ハツメの口から言わないでおこうと思っていたことが零れ落ちた。
「……私、神宝が怖いの」
喉の奥がつっかえるのを感じながらも、ハツメは続ける。
「この残酷な力が怖い。もちろん、神宝を扱えるのが自分しかいないって分かってる。谷の民が、こんな風に四神の力を恐れちゃいけないって分かってる。でも、怖い。怖いの……アサヒ」
アサヒがハツメの両肩に手を伸ばす。そうしてハツメが震えているのを知って、肩を触れる手に少しだけ力を込めた。
「神宝の力は、ハツメが怖いなら使わなくてもいいと思う。嫌な思いまでして使ってほしくない。……俺はさ。ハツメがもう神宝を使わなくてもいいくらい強くなりたいんだ。花ノ国から逃げるとき、あの橋で天比礼を使って……辛かっただろう」
辛かったと、ずっと言えなかった言葉が、代わりにアサヒの口から紡がれる。
ハツメは唇を噛み締め、ぐっと涙を堪えた。
だが、一度覆いを外された心から溢れる感情を止めることはできず。
アサヒが映る視界が曇り、目からぼろぼろと涙が落ちる。
「……あんなに簡単に、手を汚さずに、人を殺せるなんて思ってなかったの。天比礼だけじゃないわ、天剣だってそう。戦場じゃあまり考えないようにしてたけど、あの第一王子、もう腕が動かないって……きっと、殺さない代わりに一生の不自由を与える道具なんだわ。もちろん、私だって命を奪う覚悟で戦ってる。でもこの力は……あんまりで……」
しゃくりながら、一生懸命に言葉を紡ぐハツメ。
そんな彼女を、アサヒは両腕で包み込んだ。
布越しでも分かる火照ったアサヒの体温に、ハツメは自分の身体が冷え切っていたことに気付く。
「俺が強くなるから。だから、ハツメは無理しなくて良いんだ」
アサヒが優しくハツメに囁く。
聞き慣れた穏やかな声。それが夜海のさざなみと混じり合ってハツメの頭に溶け込み、彼女は目を閉じる。
今、アサヒに甘えるのは簡単だ。
この重しを預けてしまえば楽になれる。
アサヒなら、自分の預けたものを重いとも思わず背負ってくれるだろう。
でもそれでは駄目だと、ハツメには分かっていた。
「それは……だめ。私も強くなる。神宝と、もっとちゃんと向き合う。だから、一緒に頑張らせて」
まだ荒い呼吸の中、絞り出すように、だがしっかりとした声でアサヒに伝える。
彼に甘えるのは、胸の内を吐き出すところまでにしようと決めた。
「分かった」
アサヒはそれだけ言うと、そっとハツメの柔らかい髪を撫でる。
ハツメはもう少し呼吸が落ち着くまで、心地良く包んでくれる彼の腕に、自分を預けることにした。
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