第六十四話 天比礼
いつもより残酷描写が濃いめです。
苦手な方はご注意下さい。
三剣将のエンジュから解放されたアサヒは橋のたもとへ到着しようとしていた。
荷車がすれ違えるように造られた木造の橋は遠目で見るよりも幅広く、隙間なくぴたりと並べられた敷板が美しい。
橋のすぐ下には広い大河。
穏やかに流れているようだが川底は確認できず、水量が多い。おそらく見た目よりも流れは早い。
どこまでも続く大河は一面に月明かりを浴び、暗く鈍い光を放っていた。
ここに来るまでに足止めになってくれたのはヒメユキだけではない。『猫』の総員数は知らないが、少なくとも二十人程でもって錫ノ国の兵士の歩みを止めているようだった。
「ハツメ!」
アサヒが名を呼べばハツメが青の衣をはためかせて駆け寄ってくる。
「良かった、アサヒ」
少し怯えた様子の彼女は、アサヒの顔を見るとほっとしたように息を吐いた。
ハツメのすぐ後ろにはトウヤ。アサヒの側にもシンがいる。
二手に分かれた四人は予定通り、大河の両岸を渡す橋のたもとで合流した。
『猫』によってシンとの剣戟に水を差されたカリン。
自身の進路を妨げた『猫』を数人、何でもないように切り捨てた彼女は直ぐさまアサヒとシンを追いかける。
彼女は橋の方へ駆けていくハツメを視界に認めると、憎々しげに睨んだ。
「……あの馬鹿はどうして女まで取り逃がしているのかしら」
まあ人のことは言えませんけれど、とカリンは独りごちる。
「姐さーん」
振り向けばリンドウもまた四人に追いつかんと草原を駆けていた。カリンの横に並ぶ。
「お前が女を取り逃がすなんて信じられませんわね」
「それが! とんでもない美女がいて……いや、これでも後ろ髪引かれる思いでこっちに来たんですって。怒らないで、姐さん」
相変わらず真剣みの足りない男にカリンはふん、と鼻を鳴らした。
周りを見やれば、上手く戦場を抜けてきた兵士たちも橋のたもとに集まろうとしている。
「エンジュ兄さんはどうしたんすか?」
「残りの『猫』を全部任せてきましたわ。まだ時間がかかるでしょう」
そう言いながらカリンは細身の剣を構える。
「やっぱあれ『猫』だったんすか」
男だけでつまらなかったなー、とリンドウはぼやく。その手には大身槍が戻っていた。
「お前にはちゃんと用意したのですから、早くお行きなさい!」
「はーい」
自身の間合いに入った四人を薙ぎ払うように、リンドウは槍を振るった。
カリンとリンドウがこちらへ迫っていることに気付いたハツメ。
このまま橋を渡ったところで、追いかけて来るのは自明だ。
どうするべきか考えたとき、ふと頭を過ぎったのは先ほどのリンドウの言葉。
振らせなければいい、と彼は言っていた。
確かに天剣の発動条件はそうだ。
振るときに限り黒い炎を纏う。
ならば天比礼を振るとどうなるのか。
今思えば、奉納舞踊の動きも比礼を振っていたように思える。
邪を打ち払う力。
ここで今、扱えるだろうか。
その考えに至ったとき、天比礼がゆらりと浮いた。
それは柔らかいほのかな光を伴って。
ハツメは天比礼を左手に取る。
こちらに大身槍を振りかぶる男の前。
他の三人も武器を構える横で、彼女は大きく天比礼を振り上げた。
リンドウによって勢いよく振りかざされた大身槍の穂先は不自然な位置で弾かれると、青い光の粒を纏う。
たなびく煙のように纏わりついた清らかな光は穂先を青く染め上げると、静かに下へ落ちていく。
それとともに、穂先も塵のように崩れていった。
ハツメたちと彼らを隔てるのは、薄く透けた絹織物のようにふわりと広がる青い光の波。
瑠璃色の比礼を掲げるハツメは呟いた。
「これが天比礼の力……」
ハツメに向けられた悪意は、青い光と共に塵となって消えた。
カリンやリンドウは半ば呆然とこちらを見つめている。
「今のうちに行こうハツメ。向こうもかなり動揺しているし、これではこちらには来れないだろう」
そう言って柔らかく微笑むアサヒ。
アサヒはハツメが左手で掲げる天比礼を両手で丁寧にすくい上げると、再びハツメの肩にかけた。優しく、慈しむように。
アサヒの手に痛みはなかった。感じたのは、いつまでも愛でたくなるような心地良い絹の滑らかさ。
再び四人は対岸を目指して走り始めた。
あくまで仮の話だが。
もしこの場にいたのがカリンのみだったなら、四人は上手く逃げ切っていただろう。
あるいは、カリンと共にいるのがエンジュであったなら。
「お、お止めくださいリンドウ様!」
背後から聞こえた悲鳴にも近い男の声に、ハツメは思わず振り向いた。
その視界に飛び込んだ光景に、ああ、振り向かなければ良かったと、彼女は激しく後悔する。
「うるせーな。さっさといけよ」
錫ノ国の一般兵の襟首を掴んだリンドウが、天比礼がつくりあげた光の波へと男を放り投げた。
青い光の粒を全身に纏った男は、先ほどの大身槍と同様に身体に青い染みをつくりながら塵となっていく。
全てが消える瞬間まで、悶え苦しみ、叫び声を上げながら。
何も残らない死。
それはハツメにとって、眠ったまま骨となることよりも、血飛沫をあげて肉塊となることよりも、何よりも残酷な死のように感じられた。
「やっぱり男の悲鳴なんて聞けたもんじゃねえな」
表情をぴくりとも変えずにリンドウが言い放つ。
「まあでも、あと数人いけば通れるか」
男が消えた後の天比礼の光は、確実に少なくなっていた。
これ以上は見られない。
ハツメは再び前を向き、駆け出す。
背後から降りかかる阿鼻叫喚の声にハツメは口を押さえる。
出てきそうになったのは悲鳴か、胃の内容物か。
彼女自身にも分からなかった。
ハツメが口をぐっと押さえ込むその傍らで、シンはちらりと背後を見やった。
天比礼の力ももうすぐ消える。
そうすれば必ずカリンたちは追ってくるだろう。
誰か一人が残る必要性を、彼は考えていた。
お読み頂きありがとうございます。
第三章からの更新予定を活動報告にあげております。
何卒よろしくお願いいたします。




