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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第二章 花ノ国編
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第五十六話 酒席

 ハツメの奉納舞踊の稽古の間。

 その間の他の3人はというと、時折別行動をとりながら、御所の一角を借りて訓練をしたり、草原で採集をしたり、読書をしたりとなんとも気ままに過ごしていた。

 本日はハツメが稽古後にレイランと夕飯も食べてくるとのことで、男性陣は飲みに行くことにした。


 夕刻、アサヒは大通り沿いにある一軒の飲み屋に着く。

 シンやトウヤとはそれぞれ別行動をとったため、店内で落ち合うことになっている。

 花模様があしらわれた扉を押して中に入れば、既に広い店内は賑わっていた。

 赤いランプがほのかに光る中、砕けた調子で男女が酒をあおっている。


 まだ2人とも来ていないのかと少し角度を変えてみれば、店内の奥の方、4人掛けの席にトウヤがいた。

 

 すぐに気付かないはずだ。

 

 トウヤの周囲には6人ほどの女子が群がっていた。

 半分はちゃっかり席に腰掛け、残りは立った状態で。彼なら自分の席を譲るくらいしそうだが、今日はアサヒたちもいるからかちゃんと席は確保してくれていたようだ。


 会話の内容は聞こえないが随分と盛り上がっているその様子をみて、アサヒに帰るという選択肢が浮かぶ。

 しかし入り口で立ち尽くす友人の存在に気付いたトウヤによって、その選択肢はすぐに消された。


「おおアサヒ。こっちだ」


 こちらに向けて手を振るトウヤに、そこだけは勘弁してくれとアサヒは顔を顰める。

 とはいえ帰るわけにもいかないので、とりあえず彼のもとへ歩み寄った。


「お嬢さんたちすまぬな。友人が着いたのでまた今度だ」


「ええ~。トウヤ様、今度っていつですの?」


「なに、縁があればまた会えるだろう」


 ではな、と笑顔でトウヤは女子たちを帰す。

 彼女たちは残念そうに、しかしトウヤとアサヒをちらちら見ながら楽しそうに去っていった。


「ほら、座れアサヒ」


 トウヤに促されアサヒも腰を下ろす。トウヤの前には既に空になった盃と徳利が置かれていた。


「お前、やっぱり人気あるよな」


 山ノ国限定ではなかったようだ。アサヒは特に羨ましがることもなく言う。


「ふむ、器の大きさが雰囲気に出ているのかもしれんな」


 自慢げな友人にそうか、と適当に返しつつ、やってきた女給に1人分の盃と追加の酒を注文した。


「しかし、花ノ国の女性はみな積極的だな」


「山ノ国は違うのか?」


「山ノ国では見合い話が殆どだ。まあ逢い引きの誘いもいくらかはあるがな」


 それはお前だけではないのか、とアサヒは心の中で突っ込みを入れる。


「アサヒも普通にしていれば声が掛かりそうだがな。一緒に街を歩いていると、近寄るなという心の声が滲み出ているぞ」


「女は得意じゃない。……というより、ここに来てからろくな目に合ってない」


 アサヒは自身の側頭部に触れる。傷はふさがったが、小さな跡が残ってしまった。


「女皇殿への婿入りの話と、ミヤだったか。災難だったな」


 言葉のわりには心配する様子を見せず、トウヤはにやりと笑う。


 アサヒが溜息を吐きながら再びやってきた女給から盃と酒を受け取るところで、背後から聞き慣れた深みのある声がした。


「遅くなりまして申し訳ありません」


「いや、俺も来たばかりだ。シン」


 頭を下げるシンに着席を勧めると、彼は恐縮そうに腰掛けた。

 アサヒはそのまま女給にもう1つ、盃を頼む。


「アサヒ様。やはり私が酒席を共にするなど……」


「俺がそうしたいんだ。いいだろう」


「そうだぞ。下戸ではないのだろう。主従で酒を酌み交わすのも時には大切なものだ」


 遠慮がちのシンは2人に押されると、渋々盃を手に取った。

 アサヒにとくとくと注がれた、美しく透き通った液体が光沢を放つ。少し顔に近付ければ果実のような華やかな香りがした。


「では、ハツメ嬢の奉納舞踊の成功を祈って。乾杯」


 トウヤの音頭でしっとりとした酒席が始まった。


 シンは久方振りの酒の味に浸りながら、和やかな雰囲気に目を細める。


 忘れていた時間が多すぎる――


 彼はアサヒたちと行動を共にするようになって、本来は当たり前にあるはずの穏やかな時間を取り戻しつつあった。

 だが同時に、自身の心が澄み切っていくほど、どこか噛みあわない歯車が胸を軋ませる。


 ここに来る前に鉢合わせたあの少年のことを思い出す。




 夕刻前、シンが指定された飲み屋に向かって大通りを歩いていると、被衣(かつぎ)を羽織った少年が正面から堂々と近寄ってきた。足を止めれば、その少年もシンの目の前で立ち止まり、顔を上げる。丸い目が面白そうにシンを見据えた。


「考えてもらえました?」


「考える余地もない」


 シンはアザミを見下ろして容赦なく睨むが、彼は怯む様子もなく笑う。


「それは残念です。でも、ヒダカさんたちには言ってないんでしょう? 知ったら賛同してくれるかもしれませんよ」


「そのようなお方ではないし、お前たちの戯言でお心を乱す必要などない」


「へえ。……言ってないのは本当にそれだけが理由でしょうかね、まあいいんですけど。ぼくだったら話せるだけ話すのに」


 シンの心を透かそうと少年は目を細める。


「……本当の主を知らないというのは可哀想だな」


 ふいに降りかかった憐れむようなシンの言葉に、アザミはほんの一瞬、大きい目をさらに見開いた。


「どういう意味ですか」


 少年の愛嬌ある目にすっと殺意の色が宿る。


「別に、意味などない。私はアカネ様とアサヒ様にお仕え出来て幸運だったな」


 そう言ってシンはアザミを振り切り、再び大通りを歩き出す。

 隙のないシンの背中を、少年は感情の見えない顔で見つめていた。




「どうしたシン、考え事をしているみたいだが」


「いえ、アサヒ様。……あまりに楽しいもので、少しぼんやりとしてしまいました」

 

 自身を心配して首を傾けるアサヒに、シンは柔らかく微笑む。

 嘘ではない。彼にとってこんなに楽しい時間は本当に久し振りなのだ。

 

 しかしそれでも、とシンは目を閉じる。

 一度どろりと流し込まれた少年の言葉は、確かにシンの心に黒い楔をつくっている。

 その楔は心の奥底、一番手の届かないところに深く打ち込まれ、彼を苦しめるのだった。

お読み頂きありがとうございます。

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