第五十話 初夏の神官舎にて
今年も庭先の沈丁花の木に花芽がついた。
今はまだ緑色だが、来年の春前にはまた可憐な純白の花を咲かせるはずだ。沈丁花を眺める男の脳内に、あの爽やかで切ない香りが蘇る。
一緒にいたのはわずかな時間。それでも確かに好きだったあの女性は、自分が渡した香り袋を身に付けてくれているだろうか。自分が彼女に香り付けしていることを知ったら、恋敵でもある友人は怒るだろうか。そんなことを考えながら、神官舎の縁側に腰掛けるトウヤは人を待っていた。
ハツメたち3人が山ノ国を発ってから、もうすぐ4か月が経とうとしている。
山ノ国の復興作業ももうすぐ終わる。終わったとしても見た目では分かり得ない傷が癒えることはないだろう。それでも残された者は少しずつ、前に進んでいた。
「こっちから呼び出しておいてすまないな、トウヤ」
「いいや。いくら俺でも男から呼び出しを受けたのは初めてだぞ、ヒザクラ」
待ち人の声を受けてトウヤが視線を左に移すと、ヒザクラが寛いだ様子で隣に腰掛けた。
「それは悪かったな」
「お前の方が気楽でいい。それで、改まって呼び出しなどして、どうしたのだ」
ああ、とヒザクラは頭をかく。言うのを躊躇しているようだ。
「上手く言い回せないから単刀直入に言うぞ。トウヤ、お前山ノ国を出ろ」
「な……なんだ突然。俺が何か悪いことでもしたか」
いつになく真剣な表情のヒザクラに、トウヤは自分に何か問題でもあったのかと心配になる。そんなはずはないのだが。
「いや。むしろ仕事ばかりして無理してるんじゃねぇのか。俺が復帰してから少しはましになったと思いたいが……いや、それはともかくとしてだ。お前、アサヒたちのところに行ったらどうだ」
「どんな理由の呼び出しかと思えば……何を言っているのだ。神伯の仕事は、山ノ国はどうする」
「お前がいなければ大変なのは自明だがな、何とかなるさ。チガヤ様にも話してある」
友人の思いも寄らぬ言葉にトウヤは目を見開いた。
「国主様にも話しているだと。誰がいつアサヒたちのもとに行きたいと言ったのだ」
「お前を見ていれば分かる。もちろんお前のことだ、自分の選択に後悔なんかしていないだろうが……なんというか、その背中を見ていると放っておけないんだよ。恥ずかしいこと言わせんな」
ヒザクラは視線を逸らして眉を寄せると、手の甲で口を隠す。この仕草は昔からの照れ隠しだ。
「神伯は……」
「神伯代行はお前が帰ってくるまで俺がやる。お前はアサヒたちのところでやりたいことをやれば良い。あいつらの目的を考えれば、山ノ国にも無関係じゃないはずだしな」
こういうとき神伯代行は便利だな、とヒザクラは口角を上げる。
「そんなつもりで代行を選んだわけではないのだが」
「みんな知ってるよ」
ヒザクラは珍しく戸惑っている友人の背中をぽんと叩いた。
「いいから行ってこいよ。山ノ国を出て、見聞を広げてこい。帰ってきたら正式に神伯になればいい」
トウヤの胸がどくんと跳ねる。
もうないと思っていた可能性を少しでも差し出されたら、受け取ってしまいたくなるではないか、夢を見たくなるではないか。
「――そうだな。せっかくの友人の好意、受け取るとしよう」
トウヤは明朗な笑みを見せる。
「感謝するぞヒザクラ。いつもすまぬな」
「謝るんじゃねぇよ。こういうのが俺の役回りだと思ってる」
ヒザクラはそう言って立ち上がると、ぐんと背伸びをした。彼の胸のつかえも取れたようで、すっきりした顔をしている。
「行く前に肩慣らしでもしないか。しばらく手合わせ出来ないと思うと、それだけは惜しくなるな」
「それだけとはなんだ。……まぁ、そうだな。準備してこよう」
トウヤも立ち上がると、揃って廊下を歩き出す。
少し早い初夏の日差しが心地良く神官舎に降り注いでいた。
お読み頂きありがとうございます。
明日からはまた花ノ国です。




