第三十六話 いつかの記憶
夕日に照らされたすじ雲がほんのりと赤付いて湖面に映る。
穏やかに続く湖面の向こうは崖になっており、湖から溢れた水が緩やかに落ち続けていた。
崖下からは地平線まで、夕日に染まった王都が広がっている。
宮殿から弾かれるように建てられた離宮だが、ここから望む王都の夕映えは見事である。
厄介払いの為にこの離宮を建てた者は、風情という言葉を知らぬのだろうとシンは思った。
「今日も美しい景色ね、シン」
「はい、アカネ様」
「ここに離宮を建ててくれたクロユリには感謝しなくちゃね」
ふふふ、と笑うアカネに皮肉めいた様子は一切なく、むしろ茶目っ気があった。
自分より一回り年上の女性、しかも主人に向かって茶目っ気があるなどとは、シンは口が裂けても言えないが。
「アカネ様。お身体が冷えますから、日が暮れる前にお部屋に戻りましょう」
「もう少しくらい、駄目かしら。最近は体調も良いのよ」
アカネが甘えるように首を傾けると、しなやかな黒髪がさらりと流れた。
「……少しだけでしたら。戻ったら身体を温める薬草茶を淹れましょう」
「まぁ。いつもありがとう、シン」
「私には勿体無いお言葉です」
シンはうやうやしく頭を下げる。
「ああ、でも薬草茶を淹れてくれるのでしたらゆっくり頂きたいですし、もう戻りましょうか。今日も陛下がお見えになるかもしれませんから、あんまりゆっくりしていては怒られるわ」
そう言ってアカネは自室のある方向へ歩き出す。シンはアカネの横顔を見て胸が締め付けられた。アカネが国王の話をするときはいつも、普段は晴れやかなその顔に影が差すのだ。
自分に、この憂いを取り去ることが出来れば――
シンは度々こうやって考えては、自分の無力さに憤りを感じるのだった。
「……シン。おーい、シン」
アサヒの呼ぶ声でシンは瞼を開けた。シンの目の前には彼を覗き込むアサヒの姿。
「寝坊なんて珍しいな」
アサヒは責めるわけでなく、シンにも抜けたところがあって安心したという風に笑った。
「申し訳ございません」
まだ覚醒しきれない頭で答える。まさか昔の夢を見るとは意外だった、とシンはこめかみを押さえた。
先行くハツメを追い掛けるように、アサヒとシンはなだらかな丘陵を歩いていく。
シンはアサヒをさりげなく見やる。昔の夢を見たからだろうか、今まで気にしていなかったがアサヒは母親似なのだなと何気なく思った。
「アサヒ様」
ハツメには聞こえない辺りでシンは話し掛けた。
「どうした、シン」
「言う機会を失っていたのですが……第一王子に存在を知られてしまった件、大変申し訳ありませんでした」
「シンが謝ることじゃない。10年後の外見だけで分かったあいつが異常だろう」
「しかし……お二人に接点があったかどうか考えるのを完全に失念しておりました。私がアカネ様にお仕えしたのは8年前からなので、10年前のことは詳しくないのです」
そうか、とアサヒは頷くと少し考える仕草する。
「シン。正直なことを言うと、俺はお前の期待に添う主になる自信がない。母上への忠義を尽くしているのは分かっているのだが、それも申し訳ないくらいだ」
「何をおっしゃいますか」
弱気なアサヒの発言にシンは即座に返す。
「私がアサヒ様にお仕えした切っ掛けは確かにアカネ様のお言葉ですが、決してそれだけでここにいる訳ではないのですよ」
「だが変な言い方をするが、俺は女1人のことで悩んだり友人と殴り合ったりするような小さい人間だぞ」
アサヒが苦々しい顔をする。
「そこもまた良いのですよ。私も変な言い方をしますが、私はアサヒ様の、人間らしいところが好きなのです」
シンが目を細めると、アサヒは苦々しい顔から困ったような顔になった。
「いつまでもそのままでいて下さいませ」
2人が丘陵を登りきると前の方でハツメが立ち止まり、平野に広がる景色を眺めていた。目下には花ノ国の最西端の町、ハル。
アサヒが追い付くとハツメは興奮の混じった声を上げる。
「あの、なんだか沢山いるんだけど」
「何が?」
「茶色い動物……牛、だよね?」
「……本当だ」
平野には褐色の牛が大量に放牧されていた。谷ノ国や山ノ国には放牧する土地がないために、このような光景を見るのは2人は初めてだった。
「ハルからはあれに引っ張ってもらって、都まで行きますよ」
「乗るのか?」
「まぁ乗り物ですね。牛車です」
目を輝かせるアサヒにシンはくすりと笑う。
「お二人とも、喜んで頂けるのは何よりですが、都に着いたら腰を抜かさないようお気を付けて下さいね」
ハルから牛車に揺られ3日後、
花ノ都に着くハツメとアサヒはシンの忠告のお陰もあって腰を抜かさずには済むものの、その豪華絢爛っぷりに度肝を抜かれることになる。
第二章始まりました。
お読み頂きありがとうございます。




