第三十四話 天剣
時間を少し遡り、国主の御屋敷。
ハツメがチガヤの護衛に付いてしばらく経つが、やはり落ち着かない。度々都を見下ろしては、じわじわと迫る錫ノ国の外套に心乱される。
皆大丈夫だろうかと、ハツメは今日何度目か分からない重い息を吐いた。再び縁側に戻ろうと思ったその時、
頭上を何か大きな影が舞った。
「ハ、ハツメや!」
チガヤが大きな声で叫ぶ。
ハツメは慌てて振り返ると、ばさりと音を立てて降り立とうとしている、黒い何かがいた。
目を凝らせば、全身真っ黒なそれは大鷲だった。
本来白が混じるはずの頭辺りや尾羽はもちろん、特徴ある大きな嘴、猛々しい後肢、賢しい瞳まで全て漆黒に染まっている。
人の数倍もあるその体長は、自然のものならばまずあり得ない。何より漂わせる神々しい雰囲気から、これはただの生き物ではないと感じた。
山ノ神を象徴する色は黒。
これは山ノ神の化身か、もしくは神使か。
「来なさい、ハツメ」
チガヤに呼ばれ、ハツメは降り立った大鷲に近付く。不思議と恐れはなかった。むしろ心は穏やかで、谷ノ国を見下ろしていた気持ちとよく似ている。
大鷲はハツメを見やると、頭を軽く下げ友好の意を示す。
「……背中に?」
ハツメには何となくこの大鷲が何を考えているのか理解できた。大鷲の羽翼に触れると、ハツメが乗りやすいように身体を下げる。
「チガヤ様」
「山ノ神が呼んでおるのじゃ。わしのことは気にせず、行ってきなさい」
「はい」
ハツメが大鷲の背中にしがみ付くと同時に、大鷲は大きく両翼を広げ、空高く舞い上がった。
大鷲はハツメを乗せてみるみる標高を上げ、山を登っていく。辿り着いた先は、ハツメも来たことのある本殿だった。
大鷲は本殿の前でハツメを降ろすと中に入るようハツメの背を頭で優しく押し出す。ハツメが前扉を開け中を覗くと、厳かな本殿の一箇所が光を放っていた。
眩しいというよりは柔らかみのある優しい光。
その光源は、仮初めの天剣ではなく。
本殿の中心、床下だった。
ハツメはゆっくりとそこに近付き、膝を付く。
輝いていることを除けば見た目はただの床だが、手を伸ばせるような気がした。
両腕を差し出すと、床はとっぷりとハツメの腕を飲み込んでいく。山の栄養が濃々と溶けた泉に手を入れたような、心地良い感触。
何かに触れた。
両手で握れば丁度良いほどの細長いそれを掴み、引き抜くと、目の前に現れたのは漆黒の剣、その柄がハツメの手に収まっていた。
黒く艶めく剣。滑らかに伸びる剣身には刃こぼれはもちろん一切の歪みがない。鍔や柄には簡素だが上品な装飾が施されている。
「天剣……」
思わず見入ってしまうその美しさ。
行方知らずとなっていた神宝の1つは、山頂近くの本殿、その床下に立てて埋め込まれた心御柱に存在していた。
本殿を出ると大鷲がハツメを出迎えた。
「山ノ神様か神使様かは存じませんが、私を送って下さらないでしょうか」
大鷲は心得ていたとでもいうかのように身体を震わせ、身体を落とす。ハツメは再び背にしがみ付いた。
天剣が現れた時はそれが必要になった時なのだとチガヤは以前話していた。だとすれば、今この力を必要としている場所があるはずだ。
大鷲は国主の御屋敷を超えて山を下っていく。兵舎区に差し掛かった辺りで、山ノ国の神官服と錫ノ国の外套が混じり合う広小路が見えた。
段々近付くにつれ、見覚えのある姿がハツメの目に留まる。
「アサヒ!」
その声を受けてか初めからそのつもりだったかは分からないが、大鷲は一度大きく空中を旋回すると、ハツメが呼んだ名の主に向かい急降下した。
漆黒の大鷲はハツメが背から降りると再び飛び立ち、広小路を抜け更に下って行った。
アサヒは自身を見て強く美しく微笑むハツメに見惚れそうになるが、そんな場合ではなかったとすぐに意識を前の男に戻す。
イチルは突然現れた大鷲とハツメの姿を見て一度怪訝な顔をするが、ハツメの手にある剣を見ると表情を変えた。整った顔がみるみるうちに驚愕に染まり、目を見開く。
それが何なのか分かったようだ。
「天剣……?」
イチルの唇が震えている。
「その声、その髪色、第一王子よね。アサヒは絶対に傷付けさせないわ」
ハツメは天剣を構え、イチルに向かい駆け出した。
振り下ろした剣を何なく避けたイチルだが、その直後身体に違和感を感じる。じわり、自身の感情を無理矢理押さえ込まれるような不快感。
イチルは得体の知れぬ嫌な予感に、成人したばかりに見える目の前の娘相手に本気を出そうと決意する。
ハツメはもう一振り試みるが、イチルは今度は避けず、ハツメが振り切る前に剣を持った腕を掴む。即座に天剣を払うと、それはハツメの手を離れ雪上に転がった。
イチルがハツメを押し倒す。
「なぜお前がそれを扱える? ……穴鼠は、1匹残らず殺したはずだろう!」
その顔に余裕は一切見られず、口調は三剣将を含め誰も聞いたことのないような、激しい怒気をはらんでいた。
すぐにでもこの娘を殺さねばならない、イチルはそう判断しハツメの細い首を片手で掴む。
ハツメはひゅっと息を飲んだ。
――殺される。
しかしイチルの手に込められた力は、すぐに緩んだ。
一瞬その理由に気付かず訝しんだハツメだったが、目を逸らしたイチルの視線の先を辿り、目を見開く。
アサヒが剣を持っていた。
ただの剣ではない。他ならぬ、天剣を。
「は……」
イチルは驚愕も怒りも超え、何が何だか分からない顔だ。無理もない、ハツメも混乱していた。
アサヒがイチルに斬りかかる。
だが、振り切ることは出来なかった。
「ハツメ!」
アサヒが叫ぶ。
「俺では完全に扱えない! 一緒に握ってくれ!」
ハツメはアサヒの言葉通り、イチルの下から腕を伸ばし、天剣を握るアサヒの手にそっと自分の手を重ねた。
途端、天剣は黒い炎を上げる。
振り切る前で止められていた天剣がアサヒによって降ろされる。
天剣は炎を纏ったまま、イチルの右腕を抉った。
「ああああああああああ!!!」
イチルが右腕を押さえ地面に転がった。
右腕には燃え移った黒い炎が煌々と揺らめいている。
「イチル様――!」
カリンが慌ててイチルに駆け寄り膝を付く。
想像を絶する痛みなのだろう、イチルは身体を捻り絶叫している。
「ぜ、全軍撤退! エンジュ! イチル様をお運びしろ!」
錫ノ国は慌てて撤退を始める。山ノ国も追いかけないわけではなかったが、こちらも満身創痍。カリンや一般兵に阻まれ仕留めることはできなかった。
アサヒやハツメも同様である。天剣の力の反動か、これ以上戦う力は残されていなかった。
アサヒが天剣から手を離す。
黒く染まったアサヒの手の平はずきずきと悲鳴を上げていた。
錫ノ国が撤退して間もなく、国主の御屋敷へハツメとアサヒは駆け込んだ。
「チガヤ様! アサヒの手が……!」
チガヤはアサヒの黒い手を見ると眉を寄せ、慌てた動作で部屋を下がる。すぐに持ってきたのは御神水。
柄杓も用いず直接アサヒの手に降り注ぐと、刺すような痛みが和らいだ。
「天剣を使ったのじゃな」
「はい。私はこんなことなかったのですが……」
「谷ノ民でなければ、本来ならば持つことも出来ないはずじゃ。……アサヒが天剣を持つことが出来た理由は置いておいて、まずは休息と、戦の始末を」
チガヤがハツメとアサヒを交互に見る。
「どちらも疲れ切っておる。まずは休むのじゃ。落ち着いたら、また改めて話そう」
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次話で第一章が終わります。




