第三十話 迎撃 二
誰かの歌声にハツメはぼんやりと意識を戻す。知らない声、知らない歌。どこかの童謡のようだ。
ああそうだ、雪崩に飲み込まれたのだった。
アサヒは大丈夫だろうか、そう思い身体を動かそうとすると、腕をぐっと握られた。
突然の刺激に驚き顔を上げると、腕を握った人物はシンだった。シンは人差し指を自身の唇に当て、静かにするように、とハツメに訴えかける。ハツメはわずかに頷いた。
冷静になって周囲の様子を探る。隣に視線を移すとアサヒがいた。アサヒはハツメが意識を取り戻したことに少し口角を上げるが、緊張の面持ちを崩さない。
どうやらここは雪山の中らしい。積み重なった硬い雪塊の隙間に運良く入り込み難を逃れたようだ。いや、運良くではなく、シンかアサヒが助けてくれたのかもしれない。薄暗く外の様子は見えなかった。
それにしても、とハツメは外の人物の歌声に耳を澄ませる。低音の甘く柔らかい声だ。普段なら心地良い歌声なのだろうが、今はとてもそんな気分にはなれない。戦場に不釣り合いなその歌はむしろ不気味さを感じさせた。
「イチル様!」
遠くから誰かが駆けてくる音、続いて名を呼ぶ若い女の声。
シンの身体が強張ったのが分かった。イチルとは、錫ノ国の第一王子の名前だ。
「ああカリンちゃん、終わった?」
「はい。山ノ国は全軍、都コトブキに撤退いたしました」
「お疲れ様。こんなに簡単に国境内に入れるなんてね、ロウ中将は遊んでたのかな? ……まぁ彼は、谷の穴鼠の駆除程度がせいぜいだったってことだね」
嘲笑が聞こえる。
穴鼠とは自分たちのことだ――
ハツメは怒りに沸き立つ身体を抑えるので精一杯だった。
アサヒは目を大きく見開き固まっている。いつもは涼やかなその顔が怒気に染まっていた。
「はい。この程度ならイチル様のお手を煩わせる必要などございませんでした」
「宮殿にいても退屈だしね。たまには外に出ないとまた『第一王子は身体が弱い』なんて言われちゃうから」
「そんなこと……! もうそのような戯言を吐く者などおりませぬ! イチル様自身がそのお力をもって国民全員に知らしめたのです。絶対的王者はイチル様だと」
「本当に、ただ少し日光に弱いだけなのに酷いよねぇ。少し、と言ってももうこの髪色は治らないのだけど」
「私はお美しいと思います! 上質な金糸を束ねて、梳いたような……神々しい金色の髪です」
恍惚を含んだ女の声。男はふふっと笑い、
「カリンちゃんは相変わらず優しいね。そろそろ本隊に戻ろうか。流石に今夜は休ませて、明日の朝に一気にコトブキを叩くよ」
「かしこまりました」
そう言って2人の足音は去っていく。
しばらく外の様子に耳を澄ませ誰もいないことを確認すると、シンは覆っていた雪を除けた。
「助かりましたね。雪崩もそうですが、第一王子に見つからなくて良かったです」
そう言いながらアサヒとハツメを引き起こす。
ハツメが外を見ると、日は完全に暮れて夜になっていた。
「ありがとう、シン。あのカリンという女は誰か知っているか?」
アサヒが雪を払いながら問う。
「あれは三剣将の1人です。強いですよ。本当に、見つからなくて良かった」
安堵したシンの様子を見てハツメも胸を撫で下ろす。しかし、ゆっくりしている時間はない。
「錫ノ国の軍に会わないようにして、急ぎコトブキに戻らなければなりませんよね。明日の朝コトブキに攻め入ると言っていましたから」
「そうですね。お2人の体調が良ければすぐにでも行きたいところです。上手くいけば向こうでも休めるかと思います」
「俺は大丈夫だ。ハツメはどう?」
アサヒがハツメを見やる。
「私も平気よ。生半可に鍛えたわけじゃないわ」
にっと笑顔を返す。
「それでは参りましょう。コトブキにも隊が帰還しているはずです」
ハツメたち3人が帰還するとコトブキでは住民の避難が始まっていた。居住区から移動し兵舎区、神官舎にも住民が集まっている。
神官舎に着くと、ハツメは自室に一度戻るためにアサヒたちと別れた。
板張りの廊下を進む。神官舎は重苦しい雰囲気で、仮眠を取る者、武器の手入れをする者、言葉少なに会話を交わす者など様々だ。いつもは磨かれ艶のある木床には血痕も見られた。
ハツメがふと顔を上げると、トウヤが足早にこちらへ歩いてくる。本来純白の神官服は赤黒く染まっていた。
「トウヤ!」
「ハツメ嬢! 無事だったか。何よりだ」
トウヤは口角を上げるが、その顔にいつもの余裕はない。
「トウヤこそ、その血……」
「大丈夫だ、俺の血ではない。……ヒザクラが重傷を負ってな。奥で治療を受けている」
「ヒザクラが……!」
「ハツメ嬢。金色の髪の男を見たらすぐに逃げろ。あれは異様だ」
トウヤはハツメの目をじっと見据える。
「では、急いでいるのでな。生き延びてくれ、ハツメ嬢」
そう言い残して廊下を去っていった。




