第百四十五話 眠れぬ王妃
国王との謁見から、アザミの様子が目に見えておかしくなった。
変な行動を起こすわけではないのだが、何を言われても絶やさなかった笑顔が崩れやすい。冷めたハツメとは対称的に、少年はどこか苛立っているようだった。
朝から雨が降る日、消え入るような入室の合図と共に入ってきた彼は、旅芸者の格好をしていた。
彼への反応を薄くしていたハツメも、これには思わず顔をしかめた。
「アザミ……どういうつもり? 今さらそんな格好して」
シャラを出て以来、アザミがこの姿になるのは初めてだった。
「この姿のときはケイって呼んで下さい」
彼はハツメの反応を窺うように、黒目がちの目を瞬かせる。
「……こっちの方がハツメお姉ちゃん、話してくれるかなって思いまして」
「……馬鹿にしてるの」
これにはハツメも頭にきた。騙されていたことに対する怒りと哀しみ、日々閉じ込められることに対する鬱々とした感情。沸々と込み上げる熱を押さえずに、勢いのまま彼女は叫ぶ。
「もう口もききたくない! 顔も見たくない! この嘘吐き……! アサヒのところに帰してよ!」
ハツメは少年にそのままの苛立ちをぶつけると、ばっと顔を逸らす。久しぶりに感情を昂ぶらせ大きな声を出したことで、心臓は強く早く拍を刻んでいる。
怒るハツメの様子にアザミは目を見開いた。一度面食らった彼だが、遅れて言葉を取り戻したように紅い唇を開く。
「……嘘ってなんですか? 花ノ国で、ハツメお姉ちゃんに近付くためにわざとぶつかったこと? 海ノ国に行くって言って、錫ノ国の軍に戻ってたこと? そんなの全部、どうでもいいじゃないですか!」
ハツメに負けじと彼は吠える。
「神宝集めに協力しなきゃいけなかったのも、ハツメお姉ちゃんが一番大事なのも本当だったでしょう! ……そもそも! ぼくが助けなかったら、ハツメお姉ちゃん今頃カリンさんに殺されてるんですよ? 仮にあの場はどうにかなったとしても、あのままアサヒさんたちと旅を続けるよりはここにいる方がよっぽど安全だと思いますけど!」
一気に叫んだ後、荒々しく肩を上下させてアザミは声を落とす。
「自分で言ってたように、少なくとも死ぬことはないんですから」
そう言うと彼もまたハツメから目を逸らした。
無言の中、一層心地の悪い空気が流れた部屋。
突如その扉が、ばん、と激しい音を立てて開かれた。
「うるさいぞアザミ」
「父上……」
荒々しく部屋に入ってきたのは先日コウエンの横に控えていた短髪の男。前任の大将にして、アザミの父親だ。
声同様にねっとりとした男の視線がハツメに向く。相手を絡め取るような視線だが、ハツメに対するものはまさに物を見るような目と言ったらいいのか、彼女を蔑む気持ちを全く隠していなかった。
「陛下がそれに御用だそうだ。連れていけ」
「はい。かしこまりました」
アザミはくぐもった声で答えると、
「行きましょう。……谷の娘」
そう言って、ハツメの腕を引いて部屋を出た。
ひた、ひたと湿った足音と共に螺旋階段を登っていく。
古城の一番高い部分に向かっているのだ。ここもまた漆黒の煉瓦を積み上げてつくられたもので、天に伸びる円柱の空間には冷たい風が上から吹き下りる。
ハツメの前には長羽織の裾を揺らしながら階段を進むコウエンがいる。黒色の背に映えるのは一輪の白い花。これが王族の紋、菊の花か、とハツメは見つめる。
謁見室のさらに奥でアザミと別れ、コウエンと二人きりになったハツメ。前の男からは行き先も含め何も聞かされていないが、彼が正装で向かう場所――いや、正装で会いたいと思う相手など決まっているのではないだろうか。
ハツメは螺旋階段の先にいるであろう人物を想像し、緊張を高まらせていた。
天井から自然光が射し込む螺旋階段を登りきり、コウエンが一枚扉の錠を外す。
彼に続きハツメも部屋に入る。
ここもまた漆黒の壁に覆われた、半球状の冷たい部屋。
その中心、棺ではなく銀製の寝台に、彼女は寝かされていた。
「アサヒの……お母さん……?」
「アサヒ? ああ、ヒダカはそう名乗っているのであったな」
ハツメの独り言のような呟きに、コウエンが無感動にハツメを一瞥する。
「あとは天鏡だけなのだ。お前に見つけさせてからここに連れてくる予定が、アザミの……いや、イチルのせいで狂ったな」
そう言ってコウエンは寝台で眠る女性に近付いていく。つられるように、ハツメも数歩進み、その姿をしっかりと目に映したところで足を止めた。
「あともう一つでアカネは生き返る。早く見つけねばならぬ、天鏡を。……心当たりはないのか、谷の娘」
コウエンは寝台の端に腰掛けると、女性の美しく流れる長い黒髪を見つめ、丁寧に指で梳く。
「……ありません」
震える唇で、ようやく絞り出した一言だった。
ハツメは目の前で冷たく眠る女性――アカネから目が離せなかった。
アサヒの母親ということに疑問は持たない。
陶器のような白肌も含め、顔立ちが似ている。生きていたときは雰囲気も似ていたのだろうと思う。
それに――
ハツメの歯がかちかちと小さく鳴り始める。
気が付けば全身が震えていた。心臓が握られたように苦しく、送られる血は全身に冷たく巡る。
「姿形は保ててもまだ足りぬ。もう一度アカネの熱が欲しい。瞼の下の、炎の眼が見たい」
コウエンの縋るような、熱を帯びた声を聞きながら、ハツメは必死の思いで後ずさる。
今にも崩れ落ちそうな自身の身体を叱咤する。
コウエンの艶がかった髪がはらりと頬で揺れた。彼が身体をアカネに寄せ、その冷たく固い瞼を親指で撫で始めたのを最後に、ハツメは身を翻した。
コウエンはもはやハツメのことを見ていないようだった。
扉も閉めないままハツメは部屋を飛び出す。
螺旋階段を駆け下りながら、彼女は片手で口を押さえ叫び出したいのを我慢する。
目の前の光景が大きく揺れ、瞬きをすると、こらえきれなかった涙が目尻からこぼれた。
アサヒ――アサヒ。早く来て。
漆黒の古城の最上階、螺旋階段の先の光景を思い返しながら、ハツメは泣き続けた。
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