第百四話 砦戦前夜、議事堂にて
アサヒたちがハクジの砦に入る前の晩。
学術院と議事堂を落とした錫ノ国は都に入り、本陣の面々もまた入洛を果たしていた。
彼らが一夜を過ごすのは議事堂。
革新派の屋敷も使えないことはなかったが、戦時中であるし、何より指揮に向かない立地にあった。
かがり火でぼんやりと白く光る議事堂の中、部下からの報告を受けたエンジュは議会場へと向かっていた。
大方予定通りだった。海ノ国の他の国民を殆ど傷つけることなく、確実にハクジの民だけを仕留めようとしている。これで戦後の収拾に手を煩わされることもなく、早々に錫ノ国に帰ることができる。
予定外の報告といえば、陸路を来させた隊のうち大河近隣の村に立ち寄った部隊が戻ってこなかったということだが、たかだか小隊の一つ二つ。その程度の損失ではこの戦の勝敗は揺るがない。
それよりも重要なのは、まだ第二王子と谷の娘が見つかっていないことだ。
念のため海ノ国中の町村にも兵を向かわせてはいるが、包囲さえ逃れていなければ都の中にいるはずなのだ。だが学術院と議事堂を落としたのにもかかわらず、所在は不明。いずれにしろ発見されない限り、主は帰国しないだろう。
エンジュはそっと息を吐きながら、厚い木製の扉を押す。豪奢な彫りで修飾されたその両開きの扉は、議会場のもの。
半円形の議会場は円の中心に向かいずらりと席が並んでいる。皆の視線が集まる円の中心には元首の席。そしてその背後には大きな祭壇があった。
祭壇には白い女神像。この像は海ノ神を想像して古来に彫られたものだという。豊かに波打つ髪が足元まで伸びた女神は目を瞑り穏やかな表情をしていて、胸の前では両手で盃の形をつくっていた。
エンジュはそんな女神像の下でたむろす二人を見やる。
女神像に寄り掛かりながら足を祭壇に投げ出しているのはリンドウだ。どこから持ち出してきたのか、一升瓶を抱え銀製の盃をあおっている。
その横、祭壇に腰掛けて剣の手入れをするのはカリン。彼女は研ぎを重ね細身になった剣を丹念に拭いている。血の付いた赤黒い巾が女神の足元に無造作に捨てられていた。
「罰当たりだな、二人とも」
女神像へと足を進めながらエンジュが声を掛ける。
「へえ。エンジュ兄さんには四神への信仰心があったんすか」
「いや、そういうわけではないが。流石に気が引ける」
意外そうに目を開くリンドウにエンジュは首を横に振る。四神への信仰心があるなしに単純に作法の問題ではないかと彼は思ったが、そんなことを言ってもこの二人には今さらだな、と息を吐く。
「まぁ四神は姿を変えるって言いますけれど、女神なら会ってみたい気もします」
でも神相手にあれこれできないか、とリンドウは喉をくくくと鳴らす。酒が入っていなくともこの男は同じことを言うだろう。エンジュは思わず遠くを見やった。
「ふん。四神なんて認めたくありませんわね。私の神様はイチル様ただお一人ですわ」
「認めたくないから神宝が余計目障りなんすよねー、それは分かります」
剣が光を反射する様を確かめながら話すカリンを見て、リンドウがにやりと笑う。
許せない四神の存在。それをまざまざと見せつける谷の娘と神宝は彼らにとっては不快極まりないものだった。
もちろんその気持ちはエンジュにも分かる。四神の恩恵だの慈悲だの、そんなことを考えられる人間の頭が羨ましいほどに。
「ええ、本当に。……四神なんていて堪るか」
そう悪態付いたカリンは汚した巾を捨て置いたまま、議会場を後にする。
不機嫌だが姿勢良く出て行くその背中を見て、リンドウはぼそりと呟いた。
「カリン姐さんは、大陸統一したらイチル様を一柱に宗教つくりそうっすね」
「……想像しただけで頭が痛くなることを言うな、リンドウ」
茶化すようで十分可能性のある彼の言葉に、エンジュは眉間を押さえる。
その様子を見てリンドウも「ですよね」と苦笑しつつ、楽し気に酒を飲み干した。
その頃、同じく議事堂内にある元首の執務室。
外の廊下で見張り兵の制止を一蹴した少年は、兄が一人になりたいと言って佇んでいるらしいその部屋の扉を勢いよく開け放った。
「イチル!」
「珍しく声を荒げて、どうしたのミヅハ」
革張りの椅子にゆったりと腰を掛けていたイチルは、弟の怒声ともいえる呼び声にくすりと笑う。
ミヅハがそのままイチルに詰め寄れば、立っているミヅハの方の視線がやや高くなった。自身を楽し気に見つめる兄を、ミヅハは見下げるように睨む。
「本当にハクジの民を滅ぼすの」
「そうだよ。次代に必要のない民族を残しておくこともないでしょ?」
そう言ってイチルは首を傾け、微笑んだ。言っていることと表情が合っていない。甘ったるい笑顔にミヅハは眉をしかめる。
「……そうやって谷ノ国も滅ぼしたんだ」
「なに? 四神について調べすぎて情が湧いちゃった?」
「情なんかじゃない。……お前は間違ってるよ、イチル」
ミヅハからすれば、イチルと同様大陸統一自体には否定的でない。錫ノ国の技術が一足に大陸に広まれば、人々は間違いなく豊かになる。
だが、四神信仰が関わるなら話は別だった。
「四神を蔑ろにしちゃ駄目だ。だから火ノ国は滅んだって、お前だって知ってるだろ」
「今さら四神を敬えと?」
「イチルが敬えとはいわない。でもせめて儀式を受け継ぐ民族は残すべきだ」
訴えかけるミヅハの言葉を、イチルは視線を落としながら聞いていた。何を考えているか見透かせないが、考えのない兄ではない。そう思っているからこそ、ミヅハはこうしてイチルに詰め寄っていた。
軽く息を吐いたイチルはミヅハを見上げると口を開く。
「悪いけどこの要求は変えない。三十年前と同じ道は歩まないし、何より反乱軍を匿った時点で救いようがない。お利口な君なら分かるでしょ」
ハクジの民がいる以上統治の邪魔、そう言ってイチルは腰を上げる。今度は彼がミヅハを見下げると、これ以上ない程に優しく微笑んだ。
「甘やかされて育った私の可愛い弟。私が君の歳には初陣を経験していたよ」
イチルがミヅハにゆっくりと右手を伸ばす。
少年の左頬に迫る純白の手袋。自身を見つめる兄の威圧的な笑顔にミヅハは視線を逸らしたくなる。だが彼は恐れを感じてはいけないと、そのまま目を離さず睨み続けた。
白絹に覆われたイチルの右手は、ミヅハの頬に触れる寸前でぴたりと止まった。
「大丈夫。ここから先は動かないから」
イチルはそう言うとふっと右手を下ろし、白手袋を外す。
あらわになったのは黒く焼けた肌。元々は綺麗だったイチルの右手に、黒くただれたような跡が残っていた。彼が軍服の袖を捲っていくと、捲った部分までその黒い火傷跡は続いている。
「肩まであるんだ、これ」
そう言ったイチルの表情は悲しそうでも、辛そうでもなかった。
むしろ――ミヅハには信じ難かったが、恍惚の笑みを浮かべていた。
「……天宝珠なら、治せるかもしれない」
思わず湧いた一言だったが、イチルの様子からそれは必要のないものだとミヅハはわかっていた。
「治す? ふふ、治すわけないじゃない。ヒダカが付けてくれた傷だよ」
そう言って自身の腕を愛おしそうに眺めるイチル。彼はただれた右腕を胸の前に浮かせると、美しいままの左手で丁寧に撫で出した。つつ、と見えない血管をなぞるように指を滑らせ、食い入るように自分の腕を見つめ、愛でる。
はぁ、と心地良さそうに吐息を漏らす兄の姿にミヅハは顔を歪め、無意識に一歩後ずさる。
以前の兄はこうではなかった。異質ではあったが、淡々と命令をこなす兄は両親によって作られた出来の良い人形で、今のような狂気は感じられなかった。
ヒダカに会ったせいか。いや違う、とミヅハはすぐに思い直す。
おそらくヒダカがいなくなってからずっと、イチルの心の奥底では彼への妄執が渦巻いていたのだ。今までひた隠しにされてきたそれは、ヒダカと再会したことで一気に表に出てきた。諦めていた分、年月の分、何倍にも膨れ上がって。
ミヅハは自身の身体が冷えていくのを感じた。執着に狂う父親や兄と同じ血が、彼の全身にも通っている。それはどうにもならない一種の絶望だった。
「さあ、子どもは早くおやすみ」
兄の柔らかい声にミヅハははっと我に帰る。
いつの間にか右腕を下ろしていたイチルは元の甘い笑顔をつくると、無意識に身を縮めていた弟を部屋の外へ促すように、優しく追い出した。
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