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三鷹うまいもん物語

作者: 夏ヨシユキ

店との出会いは不思議なものです。ほんのささいなキッカケが、いごこちの良い、得がたい自分の場所を提供してくれる。僕の場合「店」というと、ただただ、気分よく旨いものか酒、もしくはその両方を与えてくれることに条件は集約される。そんな店「我善坊」との出会いにはじまる、〈うまいもん〉の話です。三鷹・四谷・神楽坂……あれこれ彷徨いながら、おバカな〈食い意地の権化〉の巡礼は続きます。嗚呼、今夜も旨いものが食べたい!

………………………………………………

■其の1〈我善坊との邂逅。その顛末〉

………………………………………………


 僕はいま東京都下の三鷹市に住んでいます。JR中央・総武線の1駅へだてたお隣は、「東京で住みたい街」調査TOPの座をつねに争う、吉祥寺を擁する武蔵野市。吉祥寺のイメージはわかりやすい。「あぁあの、井の頭公園のあるコンパクトでにぎやかな街」って、多くの方は思われることでしょう。でも、ほんとどうでもいい話なのですが、「井の頭公園」って、実は三鷹市にあるんです。ついでに言うと、国内外のファンを魅了してやまない「ジブリ美術館」も、公園の一角の木立の中にあります。当然、所番地は三鷹市です。


 何が言いたいかというと、三鷹は、いろいろな意味で派手な目立つ街の「となり」(地図上では南側)にある、控えめな土地であるということです。吉祥寺は、繁華街の外郭をなす高級住宅街のマダム連と若者たちが、ニアミスしながらもなんとなく住み分けしています。三鷹は圧倒的にファミリーの街。歴史はほとんど同じ。街ができるきっかけは、江戸時代初期の明暦の大火(1657年:明暦3)でした(*1)。


 三鷹(*2)はなぁ、神田連雀町(いまの東京都千代田区神田須田町・神田淡路町付近)を焼けだされた人々が移り住んで新田を開墾し、連雀村を開いたんじゃ。かたや吉祥寺は、本郷元町(いまの文京区本郷一丁目・水道橋駅付近)にあった諏訪山吉祥寺門前に住んでおった人々が焼けだされて移り住み、吉祥寺村(*3)を開きましたとさ。めでたし、めでたし……?


「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という、有名な川柳があります。「かねやす」とは、いまも本郷にある元禄時代創業の老舗小間物店です。いまの神田須田町・神田淡路町あたりから北に向かって坂を登ると、深い渓谷をなす神田川(*4)にぶつかります。そこには当時、筋違橋、昌平橋が架けられていた。川を渡ると有名な神田明神が鎮座。その先が本郷です。本郷の背後には茫漠とした武蔵野が広がっている。どこで「御府内(*5)」(江戸という行政単位の境界)の線引きをするか。


 17世紀。すでに世界最大の都市であった江戸は狭かったのです。本郷の「かねやす」近辺を「江戸」の北限としていた。それが、先に記した川柳を生んだわけです。神田連雀町から本郷「かねやす」までは約2キロ。都下多摩地区の三鷹駅と吉祥寺駅の直線距離も約2キロ。江戸時代とほぼ同じ位置関係にあるのがおもしろいです。


 現時点で、僕は三鷹に住んで20年。人生でもっとも長く暮らしている土地になりました。住みはじめたころの印象はまさに、「ひなだなぁ」でした。(吉祥寺の隣のはずが……)駅から歩いて20分、バスを利用した方が賢明なわが家の近くには、こじんまりとした商店街はあるものの、相当な「郊外」感のあるところでした。それが、ハタと気づけばマンションだらけになっていた。三鷹市下連雀(*6)。1丁目から4丁目あたりまでは、お屋敷街とそれに続く一軒家が続いています。5丁目以降はいまも、そこここでマンションが建設されている。まったくもう、「三鷹市下連雀○丁目じゃなくて、三鷹市マンション○丁目じゃないの?」ってな感じです。


 まぁ、それはさておき、住んでしまったからには、その街を知らなければ何もはじまらない。移住当初は、休日に自転車であちらこちらを探検しまくりました。幹線道路はもちろん、路地路地をくまなく走りました。目的はひとつ。「旨そうな店はあるか!?」でした。食い意地の権化=僕の、巡礼。まったくバカげた話と、お笑いください。そして、「我善坊」に出会いました。


 駅に近い、とある路地の小さな店。道に面した格子窓。そこに、横長の紙にワープロのタテ書きで、きれいに印字されたメニューが置かれていた。気になりました。通るたびに、何気に見る。


(そうか! 「前夜のメニュー」なんだ……)


 さりげないけれど、強い吸引力を感じました。なにより、書かれている食い物が旨そうでした! 決定打は「鯛の白子」でした。


(珍しい。〈鯛の白子〉を食わせる店があろうとは!?)


 東京ではほとんど見かけない。稀少部位ですから、生きのいいそれはおそらく、高級料理屋などで消費されて一般には出回らないものなのでしょう。岡山の記憶が蘇りました。食ったことあるぞ。間違いなく旨かった。濃厚。クリーミーの極致。河豚や鱈のそれとは、また趣の異なる旨味の結晶。


(嗚呼、食いたい!)


 またまた意を決して、扉を開けしました。


「すみません、6時からなんです」


 5時30分。食い物となると我を忘れる僕は、暖簾も出していない店に突撃し、見事に撃退されました。


(カッコわるぅ!)


 しかし怯むわけにはいきません(なんせ食い物がからんでいるので)。店の前の喫茶店で時間を潰して、6時に〈おずおずと〉再突撃。


「あの……いいですか?」


「いらっしゃいませ」(あッ、さっきのせっかちな人)


 カウンターのみ、7〜8席の小さな店でした。質素だけれど清潔な内装。客席スペースよりもカウンター越しの調理スペースが広い、ような気がした。袋なんかに入っていない気持ちいい「おしぼり」が、さりげなく手もとに置かれる。作務衣のご亭主は料理人っぽくなかった。もの静か。素っ気ないけれど対応は丁寧。尋ねれば目線は合わせるけれども、基本は自分の守備範囲を見ている。


(含羞の人だ)


 はじめての店で緊張していましたが、僕の独りよがりな第一印象を信じることにしました。


「どうぞ」


 両手いっぱいに広がる当夜のメニューを渡されました。店の格子窓に置かれていた、あれです。横長の紙ではなくて、奉書巻紙でした。


(なるほど、そうだったのか!)


 変なところで感心しました。そうですよね。紙の規格には、あんな横長のものはありませんから。で、メニューはというと……右から、日付、2種類のコース、お造り、焼物、煮物、揚物、口直し、食事、デザート、飲み物が整然と印字されている。目移り、また目移り。決められないよ!


「と、とりあえず、ビールをください」


「ビールはどれになさいますか?」


(あわわッ。メニューを見る目が泳ぐ。ヱビス、サッポロ、キリン……どれにしよう)


「く、クラシックラガーをください」


 まったく、初手から情けない仕儀になってしまった。口開けで入ったはずが、いつのまにかカウンターは客で埋まっている。カウンターの左隅奥の急な階段から、ご亭主の奥さんらしき女性登場。パキパキしている。うだうだしていると相手にされない感じ。


(……タイミングを見計らって注文しないと、こりゃまずいぞ)


 浅はかな突撃からはじまった戦況は、悪化の一途をたどって……。でもこれが「我善坊」夫妻との、付き合いのはじまりとなりました。


*1 明暦の大火:(Wikipediaより引用)明暦3年1月18日(1657年3月2日 *筆者注:太陽暦)から1月20日(3月4日 *同)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。


*2 (Wikipediaより引用)三鷹の名は、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)と言われている。旧三鷹村役場火災による資料焼失のため詳細は定かではない。


*3 移住した人たちが本郷を懐かしんで付けた村の名前です。当時もいまも「吉祥寺」という寺は存在しません。


*4 (Wikipediaより編集引用)かつては「神田上水」と呼ばれた上水道。江戸時代に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。江戸の六上水のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされた。水源が「井の頭池」(井の頭公園内)であることも、本稿の因縁を感じさせます。


*5 (デジタル大辞泉・Wikipediaより編集引用)江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。1730年(享保15)の大火の復興にあたって、南町奉行・大岡忠相(越前守)は、本郷の「かねやす」近辺から南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励、屋根は茅葺きを禁じ瓦で葺くことを許した。このため「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。後の1818年(文政元)、改めて江戸の範囲を示す朱引が定められたが、これは「かねやす」よりはるか北側に引かれ、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。──約90年を経て、江戸市街は大きく広がっていたのです。


*6 連雀村は、人口増加にともない「上連雀村」と「下連雀村」に分かれました。西側=みやこに近い地域が「上」、東側が「下」と称するようになったそうです。


…………………………………………

■其の2〈ちょっと四谷の話〉

…………………………………………


 店との出会いは不思議なものです。僕の場合「店」というと、ただただ、気分よく旨い物か酒、もしくはその両方を与えてくれることに条件は集約される。さらに安ければ100点満点! かつて勤めていた会社。事務所内が禁煙になってしまったために、5階のベランダでタバコを吸っていました。面しているのは片道3車線+退避線のある大通り。日中は、忙しげに行き交うクルマと人波と、ビル上の空の変化くらいしか見るべきものはない。しかし、夜になるといろいろなものがあらわになってきます。


 街灯に照らされた光景を、何気に見ているのはおもしろいものです。わけありげなカップルとか、酒に足を取られまくっている酔客連とか、ネオン鮮やかな交差点上を舞う鳩の群れ(おぃおぃ、あんたたちは鳥目じゃないのか?)とか、興味は尽きません。そして、ある夜、道の向こう、ベランダの斜め右下の窓にバーカウンターがあるのを見つけました。いち・にぃ・さん。


(あぁ、地下鉄出口横のビルの3階か)


 それからなにくれに、その店を観察していました。カウンター奥にマスターらしき人物が、いつも見える。早い時間には客がいないことが多かった。


(行ってみるか)と思いました。地下鉄出口横のビル。狭い、怪しすぎる。冥府へ一直線、とまでは言いませんが、勇気のいるエレペーターホール(ではなくて、人が3人もいれば満杯の狭小スペース)から店へ上がりました。エレベーターが開くと、狭い通路越しにいきなりガラス格子のドア。ほの暗い店が窺える。客はいない様子。意を決してドアを開ける。


「いらっしゃいませ」


 ノーネクタイでしたが、バーテンのシンボルであるベストを着こなしたマスターがひとり。寡黙な「シャイな人だ」という印象でした。またまたひと安心。どうも僕は、不特定多数の人間を相手している「含羞の人」に弱いようです(いきなり「らっしゃい!」なんて威勢良く客を迎えるバーなんかありませんけどね)。逆L字型のカウンターの端、いつも店を眺めていた窓際に座りました。なるほど、そこからは事務所のベランダがよく見える。2階低いところならではの、大通りのクルマの流れ。終わりのないヘッドライト、テールランプの光跡が艶かしくて、つい見惚れてしまいます。


 マスターは、酒がなくなりかけるとさりげなく近寄ってきて注文を聞く。放ったらかしてくれる感じが気持ちよくて、ついつい呑んでしまう。あげく、酔った勢いでつい話かけてしまった。


「あのベランダからいつも見てたんです」


「あぁ、あちらでよくタバコを吸ってらっしゃる方でしたか」


(わぉッ、見ていたけれど、見られてもいたのか!)


 これで通わないわけにはいきませんよね。四谷三丁目(東京都新宿区)のバー「ランバリヨン(*)」との出会いでした。通い詰めるというわけではないのですが、折にふれてランバリヨンの、大通りが見渡せる席にいました。ほかに客がいないときは、お互い訥々と話すようになる。


 マスターは野球好き。(埼玉西武)ライオンズのファン。プリンスホテルで修業した。なるほど! でもそれ以上のことは知らない。マスターも僕の苗字以外は、横浜ベイスターズファンの酔っぱらいとしか認識していないと思います。そんなこんなで10年以上。初夏のある夜に、同級生と行きました(ご無沙汰、というほどの間がありました)。で翌月、前の会社の後輩と行きました。いつものように呑んで、いつものように軽く言葉を交わして勘定をすませる。


(そんじゃ、また)と手を挙げようとしたとき……声をかけられた。あらたまった態度に、厭な予感がした。


「8月で店を閉めることになりました。長い間ありがとうございました」


(……えぇッ、やっぱり)


「あッ、そうなんだ」


 聴きたくなかった事実にトンマな返答しかできない自分が情けない。なんか、恋人にいきなり別れを告げられたかのような気分。いごこちのいい、自分の場所が、またひとつなくなる。でもまぁ、生きていれば避けられない出会いと別れです。何日かを経て、現実に折り合いをつけるしかないことを、自分に納得させました。

ランバリヨン、こちらこそ、長い間ありがとうございました。マスター=ID・MNRさん、お元気で。


 好きな店との関係って、恋愛感情に似ているんですね。あらためて思いました。なんて感慨にひたりつつ……話は前章の続き、三鷹の「我善坊」に戻ります。戦略なんてはなからない。軽はずみそのものの、初戦の敗退をカバーするべき戦術すら見出せない。ええぃ、こうなったら、ままよッ!


 クラシックラガーを喉に流し込みつつ、奉書紙のメニューを読み直しました。


(まずはお造りからはじめるか)


「かしこまりました」


 注文すると瞬時、穏やかに目を合わせてオーダーに応じてくれるマスター。パキパキの奥さんらしき女性は、まだ目を合わせてくれない。長い夜になりそうだ。


 顛末を語るなら、供される食い物はすばらしく旨かった。ここ(三鷹)で、この料金設定(安くはないが、けっして高いというわけでもない)だけれども、旨いものを出すんだ! という心意気を感じました。ビールはいつの間にか「ぬる燗」にかわり、お銚子が重なっていく。器と盛りつけがまた美しかった。青磁、白磁、染付、赤絵、志野、備前と、料理に合わせた、さりげなくて趣味の良い合せ技にほれぼれ。


 旨そうなもの前にして(箸を付けるのが躊躇われる……)なんて、気取ったことは1ミリも思わない僕ですが、料理が出されるたびに一瞬目を見開いていたような気がします。ヨーロッパ磁器の皿に刺身が盛られてきたのには、感心したというか、その発想にやられました。違和感なし。カッコよくて、当然旨かった(いまはけっこう見られるやり方かもしれませんが)。日本酒を頼むと選ばせてくれる酒盃。ちょっとした居酒屋ではありがちなサービス。ぐい呑みもいいですが、僕は薄くて小ぶりな盃が好きです。そんな希望にぴったりの盃がいくつも揃っていた。これも嬉しかった。


(この店は〈ぶたご〉なところがひとつもない)


 なぜか〈ぶたご〉という、懐かしい言葉が浮かんだ。


「ありゃあ〈ぶたご〉じゃなぁ」(あれは〈ぶたご〉だわね)


 なんか〈カッコわるい〉ものを見ると母がよく言っていました。〈ぶたご〉=豚児? 意味なくいままでそう解釈していました。いつか母にその意味を聞こうと思っていて果たせなかった。本当にそんな言葉があるのか!? 辞書に載っているわけもないし、ネットでも引っかからない。ためしにもう一度、ワードをいくつか追加して検索してみたら、こんな話にぶつかりました。


 Yahoo!ブログ『気ままにのんびり』から引用します。( )は筆者追記です。


 ──「えれぇ、ぶたごななぁ」

   (とんでもなく、ぶたごだねぇ)


 備前焼体験教室で、先生のおっしゃった一言です。


 備前焼は、釉薬を使わず、数千度もの温度になる登り窯で、

 何日もかけて焼き上げる、

 まさに土と炎の芸術。

 備前に行ったからには、体験してみなくては・・・

 と、やってはみたものの。

 まったくの素人に電動ろくろなんて扱えるはずもなく、

 手回しろくろで、まさしく粘土細工のように、ちまちまと作品作り。

 完成まであとわずか・・・というところで、冒頭の一言。


 「ぶたご」???

 私が作っていたのは、湯飲みであって、ぶたの置物ではない!!

 確かに、小学生の方がはるかに上手いであろう

 出来であることは、否定しないが、

 断じてぶたではない!!

 確かに、湯飲みにしては、かなり分厚い作りではあるが・・・


 ・・・分厚い?

 !?!!


 そう、「ぶたご」とは「分厚い」こと。

 厚みがあり、ぼったりしていることをいうのだそうです。


 後日、焼きあがってきた湯飲みは、

 それはそれは「ぶたご」なものでありました。


(引用終わり)──


「〈ぶたご〉=分厚い」。よかった! 僕の独りよがりではなかった。そういう言い回しが岡山=備前にはあったのです。もっとも母は、その語意を超えた〈不格好なもの・事象〉の総体として使っていたような気もします。便利な言葉ではあると思います。なにより母・TM子は、人も物も「きれい」なものが好きでした。


 押し付けがましいところが微塵もない、非〈ぶたご〉な店。我善坊の夜は、はじまったばかりです。


* (Wikipediaより引用)rumbullion。ラム酒(rum)とは、サトウキビを原料として作られる、西インド諸島原産の蒸留酒。サトウキビに含まれる糖を醗酵・蒸留して作られる。スペイン語ではロン (ron) と呼ぶ。また、ブラジルのピンガ、日本の黒糖焼酎など、同じサトウキビを原料とする同類系統の蒸留酒が他にも存在することでも知られる。なお、ラム酒は単にラムと呼ばれることもある。本稿では以降、ラム酒をラムと表記する。発祥はバルバドス島とされる。島の住民たちがこの酒を飲んで騒いでいる様子を、イギリス人が rumbullion (デボンシャー方言で「興奮」の意)と表現したのが名の由来だとされる。発祥はプエルトリコ島とする説もあるが、いずれにしても、カリブ海の島が原産ではあるようだ(カリブ海の海賊たちの物語の中に登場するお酒と言えば、ラムである)。その後、サトウキビ栽培地域の拡大に伴いラムも広まっていき、南北アメリカやアフリカでも作られるようになった。また、他の地域でも、ラムの原酒を輸入して熟成を行った上で出荷するということも行われるようになった。


………………………………………………

■其の3〈天敵との、ひとときの停戦〉

………………………………………………


「我善坊」のいこごちがよかったのは、常連であれ一見であれ「通を気取る」人間がいなかったことです。旨いものと旨い酒が、そこにはあった。ただそれだけ。うんちくとか、得意げな無益な講釈とは無縁の空間でした。ご亭主はISAM・TS行さん。パキパキの女将さんはISAM・TS子さん。ご亭主は限定された条件ギリギリで、旨いものをつくることに専心する人でした。すべてのメニューに、彼独自の「わぉッ!」と思わされる〈手〉が、さりげなく加えられていた。しかも、客に問われればレシピは全公開。細かいところまで、丁寧に教えてくれました。


「創作料理」なんていう〈べんり?〉な言葉が横行しています。なんかおかしな言葉ですよね。食材に厚化粧を施したあげく破綻しかねない。そんな浮ついた考えは一切ない人でした。シャイという範疇では括れない。言葉は悪いけれども、旨いものにとり憑かれた「おたく」でした。ほぼ同年代。穏やかなくせに、食い物となると妥協しない。


(この人と一緒に歳をとっていける!)


 そう思っていました。知りあえたことが嬉しかった。


 一方の女将さんは、実は徹底した「人見知り」でした。シャイの極地。知らない人間との距離感を一気に詰めるのが苦手なのです。だから初手はつっけんどんにならざるを得ない。気持ちとは裏腹に、表面無感情なパキパキ応対になってしまう。すごみのあるハスキーボイスが、その印象を増幅していました。時を経て、おバカな食い意地の権化でしかない僕も、いつの間にか、そのハスキーボイスと普通にシンクロできるようになった。でも、カウンターを挟んだ店と客との、一定の距離感は変わらなかった。それがまた気持ちよかった。


 僕はここで、天敵とひとときの停戦を得ました。納豆。


(あぁ、またまた話が横道に……)


「あんな臭せぇもんは食わんでえぇ!」


 父から叩き込まれた、数少ない人生の〈道しるべ〉のひとつです。


「美味しいもんはなんぼ(いくら)でもあるじゃろうに、あの子はなんであんなもんを……!」


 大学を卒業後、そのまま東京で就職した兄が納豆を常食していることを知ったときの母の慨嘆です。東京でひとり暮らしをはじめたばかりのころ。福島県出身の同級生・O津が僕の下宿に泊まった。昼前にうだうだと起き出す不良学生が思うのはただひとつ。「腹へった!」。ふたりして近所の定食屋に行きました。忘れもしない、僕はハムエッグ定食を注文した。O津も定食を頼んだはずですが、それが何だったのかはまったく覚えていない。ヤツのひと言があまりにも衝撃的だったからです。


「おばちゃん、あと、納豆ちょうだい!」


 納豆。生まれて初めての遭遇です。信じられないでしょ? でもホントです。全巻実家に揃っていた『サザエさん』で見知っていた、藁で包まれた謎のアレが出でくるのかと、怖いもの見たさで待っていたら、小鉢が運ばれてきて再度衝撃。


(なにこれ!? 地味だな)


「納豆……初めて見た」


「何言ってんだ(↑)、バカじゃないの(↑)お前?」(福島県人も、茨城県人同様語尾上げ語族です)


 僕の衝撃を知る由もなく、O津は丼飯に納豆を載せ、目を細め旨そうにかき込んでいました。


(東京、これが東京なんだ。思えば遠くに来たもんだ)


 嘘偽りはありません。極論ですが、かつて京・大阪以西に「納豆」という食材は存在しなかった(仮にあったにせよ、その存在はまったく無視されていた)。東日本と西日本では、いろいろな局面で決定的な違いがあったのです、間違いなく。それがまた、実におもしろかった。でもいつの間にか、のっぺりと平準化されてしまった。僕だってわかっています。栄養価満点でしかも安価。美味しいかどうかは個人の嗜好にまかせるとして、「納豆」はいまや岡山のどこでも手に入る、というより好んで食される食材になっていると思います。


 実は、岡山県北・美作みまさかの国にルーツをもつ中学以来の同級生が、子どものころから納豆を常食していたという話を聴かされて愕然とした覚えもあります。県南の吉備文化とは異なる、雪深い出雲に連なる文化圏、北前船が多様な物資をもたらした地域ならではの、悠久の歴史を感じたりして……。


(でもなぁ)とこころのなかで抵抗してみる。居酒屋のメニューによくある「ばくだん」っていうやつ? 胡瓜と沢庵、烏賊や蛸や鮪のブツなんかを賽の目に切って、納豆と海苔に山葵醤油を混ぜ合わせて食うのがありますよね(卵の黄身を加えるケースもあります)。あれは食えます。美味しいと思います。しかぁし、もっともシンプルと思われる食い方は、いまだにダメです。


 O津もやっていました。納豆好きにもいろいろと好き嫌いがあるようですが、ネギ、辛子、醤油、卵黄なんかを加えて行われる儀式。納豆好きの皆さんには申し訳ないけれど、あの、あたかも産土神に捧げる神事のような〈箸でひたすらグリグリ〉が生み出す結果は、NGです。ホカホカのご飯に〈グリグリの果てのゲル状物体〉が混ぜ込まれたときに漂う匂い。堪えられません。やめてくれ! と真剣に思います。


 父のダメだし。「あんな臭せぇもんは食わんでえぇ!」に異論はありません。ただしその父には、いろいろとツッコミを入れたい。あなたは「くさや」が大好きだったじゃないか!? ついでにその薫陶(?)を受けた僕も「くさや」は大好物です。あの、大半の人を辟易させる「匂い」がたまりません。父は学生時代、東京で禁断の香り・味に魅了された。母も、東京帝大に進学した実兄が持ち帰ったそれを経験していたからか、抵抗感は少なかった……いや、暴君たる父に抗うことができず馴れさせられてしまった、と言った方が正しいかもしれません(いきさつはともかくとして、彼女の好物であったことも、事実です)。


 東京から取り寄せた「くさや」を、母はガスコンロの焼網で焼いてくれました。換気扇から煙とともに、ものすごい匂いが近隣に漂います。いまなら訴訟にもなりかねない暴挙でしょう。チリチリと音を立てる熱々の「くさや」を母が手でほぐす。父はそれを箸で口に運び、旨そうに酒を呑みます。僕はそれをおかずにしてご飯をかっ込む。残った「くさや」は醤油を回しかけ、瓶に保存する。この香ばしい物体は、お茶漬けの最高の友でした。わずかな切れ端と、香りをまとった醤油が残る瓶にご飯を入れてすするのが、最後の楽しみ。旨かった!


「納豆」も「くさや」も同じ発酵食品です。臭いけれども旨い。いや臭いからこそ旨いのかもしれません。ワインやブランデーを吹きかけて熟成させる「ウォッシュ」というチーズがあります。沢庵が腐ったような強烈な匂いがするやつ。最初は見るのもおぞましかったのが、いつの間にか馴れて、いまや大好物になってしまった。なんでしょうね。許容できる匂いとそうでない匂いがある。個々人のDNAにインプットされた好みの問題なのでしょうか?


 ツッコミどころ満載の、父の「刺激性食物+匂い番付」を整理するとこうなります。


 ◆ 横 綱【大好物】山 葵 《天敵》生 姜

 ◆ 大 関【大好物】黄にら 《天敵》大 蒜

 ◆ 関 脇【大好物】くさや 《天敵》納 豆


 癇性で異様にセンシティブな男でした。香り付けにほんのわずでも生姜のフレーバーが加えられたものは敏感に嗅ぎ分け、一切口にしませんでした。大蒜嫌いは、昔の人には多かったと思います。父も母も同様で、納豆以上に忌み嫌っていました。なので、大蒜系の食い物はわが家にはまったく存在していませんでした。


「今夜は、焼き肉なんじゃ!」


 同級生が浮き浮きと話しかけてきます。高校時代の思い出。


「ふぅ〜ん」(肉を焼くんじゃろ、それがどうしたん?)


 岡山語の「肉」は「牛肉」を意味します。しかし、まったくかみ合っていない会話。僕は当時、あの、大蒜の香りが食欲をそそる甘辛ダレの、鉄板でジュウジュウ焼かれる音がたまらない、いわゆる「焼き肉」を食ったことがなかったのです。わが家の「焼き肉」とは、塩胡椒で、薄いヤツはバター、厚目のヤツは牛脂もしくはオイルに焼かれて供されるものでした。それしか知らなかった。笑うしかないですよね。


 それはいいとして、納豆との停戦話に戻りましょう。


 我善坊は、料理はもちろんですが、締めの「食事」が旨かった。最初にやられたのは「牡蠣とベーコンの炒飯」でした。牡蠣の風味とベーコンの塩っけが絡み合ったご飯の美味しいこと! 酔っぱらいの「あと一口ほしい……」というスケベ心を、カンペキに満足させるポーション(一人前)も絶妙でした。「チキンカレー」をメニューに見つけた夜は、こころの中で(やった!)と叫びました。スパイシーでさらさらした印度スタイルなのに、あれほどご飯に合うカレーにはそうそう巡り会えません。鶏肉はハラハラほどけて、なおジューシー。旨かったなぁ!


 てなことを楽しみに、カウンターにいました。ある夜、そいつがいきなり現れた。「納豆炒飯」。隣の客が注文した。湯気を立てながらさっくりと皿に盛られたそいつは、たまらなく旨そうな匂いがしていました。


(納豆だよな、でも……なんで!?)


 どうでもいい葛藤ってやつです。お笑いください。


(注文するのはいいけど「やっぱ無理」なんて残すのはみっともない。どうしよう!?)


(えぇいッ、ままよ!)おバカな食い意地の権化・僕はその誘惑に抗えませんでした。


「納豆炒飯ください」


「承知しました」


 納豆嫌いを公言していた僕の注文に、女将さんが(えっ、大丈夫なの!?)って顔をした。そしてご亭主は、嬉しそうに軽く微笑んだような気がした。小ぶりなフライパンで、ご飯と微塵切りのベーコンが炒められはじめれる。後戻りはできません。ずっと厨房を見ていました。塩胡椒で軽く味を付け、醤油をわずかに加える。そして納豆の登場。平たい発泡スチロールのパック。(えッ、ホントに?)などいう僕の雑念なんか関係ない。1パックすべての納豆が、そのままフライパンに投入された。納豆はフライパンで丁寧に優しくあおられ、ご飯たちと混ぜ合わされ、皿に盛られます。


「お待たせしました」


手もとに置かれたそれを、あれこれ説明する必要はないですね。大げさな、と言われても甘んじて受けます。死ぬほど旨かった! あっという間にそれは僕の胃の腑に納まっていました。後年、80歳を超えた母を我善坊に連れて行きました。いたずら心もあったのですが、「納豆が入っとるけど、だまされた(と)思うて食べてみん(みない)?」と、彼女に薦めました。おずおずと、漆の匙でひとくち、ふたくち。


「おいしい」


 旨いものは、うまいんですね。ほかの店では多分失望すると思うので注文しません。あの「納豆炒飯」は、二度と味わえないものだと思っています。


………………………………………

■其の4〈三鷹うまいもん案内〉

………………………………………


 出不精の僕は、休日よほどのことがない限り、三鷹&吉祥寺エリアの外には出ません。いくつかある自分ルートを毎回なぞって、近場をうろちょろしている。かつては、その狭いエリアを自転車もしくはバス・JRを使って動いていました。天候が悪くない限り、いま往路は基本歩きです。甚だしい場合は(お大尽でもあるまいに)タクシーを使っていたルートを、ある日ふと「歩いてみるか」と思いました。


 直線のJR三鷹駅・吉祥寺駅間は2キロ弱。歩きの場合、最短ルート、迂回ルートとコースはさまざまです。たらたら歩いて、行きつけのスポットに寄り道して、だいたい4〜6キロ程度。最初は後悔しました(タクシー拾いたい!、バス停はないの!?)。しかし慣れというのはおそろしいもので、いまはまったく苦になりません。わが家からあっという間に吉祥寺にたどり着く感じです。


 楽しみは休日のランチでした。あらゆるジャンルの店が蝟集する吉祥寺で、あれこれ楽しもう! そんな「軽はずみ」な妄想は、あっさり捨てました。吉祥寺はつねに動いている街。とある大型連休の中日、いつにもまして閑散としている三鷹から吉祥寺に出たら、あまりの人出にあきれかえったこともあります。ランチどきは戦争。人気店には行列。並んで待って、ぎゅうぎゅう詰めにされて、あたふたと食事を流し込む。人も店も果てしなく闘っています。


(この生存競争に打ち勝つ自信は、まったくない)


 全面降伏です。


 なのでいまは、地元でランチを摂ってから歩きルートを辿ることにしています。でも「捨てる神あれば……なんとやら」。嬉しいことに、三鷹には得がたい店が何軒かあったのです。


【四川料理の「FYSK」】


 行列はできないけれども、タイミングを逸すると満席で入れない人気店です。熱々、葉大蒜入りの、中国山椒の刺戟がやみつきになる麻婆豆腐。食うたびに「皿を舐めたい!」という衝動にかられます。さすがに舐めはしませんが、ご飯を残ったソースに絡めていただきます。陶然たる思いです。旨い! 担担麺もたまらない。流行りの、こってりぼってりとした厚化粧の芝麻醤が載っているヤツとは違います(それもまた旨いとは思いますが)。淡げな芝麻醤と肉味噌の下には、透明な滋味深い「上湯シャンタン」が鎮座しています。辛い! 旨い! やめられない! 細麺がまたいいんだよなぁ! あげく、器の底に残った肉味噌を意地汚くスープと一緒にひたすら掻い出す。完食っていうやつです。


 まだまだあります。ランチメニューがすごいんです。こんな中華料理店を僕はほかに知りません。メニューは3種類。定番は〈A〉麻婆豆腐のみ。〈B〉は肉・卵・野菜をアレンジ、そして〈C〉は魚介と野菜です。この店がおもしろいのは、四川料理の代表とされる乾焼蝦仁(カンシャオシャーレン=エビチリ)・回鍋肉ホイコーローがメニューにないこと。みなさん大好きな(もちろんボクも好きです)青椒肉絲チンジャオロウスーも酢豚もありません。


 月2〜3回行くとして年間30数回程度。あきれたのは〈B〉〈C〉でした。一周(1年間)以上通っても、同じメニューに遭遇しませんでした。いまも初めてのメニューに出会います。変幻自在な豚肉・牛肉・鶏肉・海老・烏賊・小柱・牡蠣や卵と野菜たち。それらと、オイスターソース、中国風バーベキューソース、胡麻ソースや大蒜ソース、クミンシードなどのスパイス、豆板醤、甜麺醤、豆鼓、辣油などを魔法のように組み合わせたひと皿の旨いことといったら!!


 うまくお伝えできないのがくやしい。牡蠣などの季節限定食材はもちろんですが、肉・海老・烏賊・卵・野菜の味わい深さに脱帽します。酒の香りをほのかに感じる海老、丁寧な隠し包丁を施された烏賊。「プリブリッ!」なんて言い回しではとうてい伝わらない豊かな味わいです。おまけに「なぜ!?」と思わざるをえないジューシーな肉、ふわふわの卵、シャキシャキの野菜。そいつらをソースと絡めて口に運ぶ。ご飯がウソのように進みます。僕より年配と思われるご夫婦と手伝いの女性たちで切り盛りしている、見た目はふつうの店です。くどいですが、こんな中華料理店はほかに知りません。


 通いはじめてしばらくしてから遭遇した〈C〉ランチで忘れられない一品があります。「アイナメの中国醤油煮」。税込み1050円(*1)のランチに旬の魚がラインナップされていた(ちなみに〈A〉〈B〉は税込み840円です)。都心の高級中華料理店ならあるかもしれないメニュー。迷うことなく注文しました。見た目は日本人のDNAに染みついている「煮魚」……でも……箸でほぐして口に入れたそれは、魚の旨味と八角などのスパイスが入り乱れてなお一体感を醸す、カンペキな中華料理でした。それはそれは、旨かったです。ものぐさのへたれ野郎なので、店の人に取材するとか、親しく感想を伝えることができません。「あのアイナメをもう一度」と、こころの中では思っているのですが果たせない。


 そして、ランチのスープ。懐かしい、よくある醤油味のラーメンスープみたいなヤツとは違う、透明な上湯に岩のり、干海老、折々の野菜。淡いやさしい旨みが、恒常的二日酔いの僕の胃の腑を癒してくれます。ときおり出されるコーンスープも、こっくりしているのに、あくまでやさしい。さらに、止めの一撃。「やっぱり美味いよなぁ、この店は!」なんて、舌に残る味の残像を意地汚く楽しんでいるところへ供される、ガラス小鉢のデザートにやられます。杏仁豆腐(古典的なヤツ。それがまたいいんです!)、果物・花・茶などの香りをまとったゼリー、タピオカ・ミルク等々が、名残惜しい味をカンペキにリセットする。


 声にならないため息とともに、午餐が幕を閉じる、現実に戻る。なんちゃって、ほのかな甘みと微かにミントをまとったさっぱりとしたシロップの仕業なのですが、見事としか言いようがないです。あぁ、書いているだけでよだれが出てきた(笑っちゃってください)。


【パスタ&イタリア料理の「LV」】


 シャイで控えな若い夫婦でやっている店。コクのある独特のトマトソースが旨い。サラダのドレッシングにも感心します。タマネギをすりおろしてるのはわかるのですが、その先が謎です。野菜がなくなった後も、意地汚く、フォークですくって、それを舐めまくります。


 ランチメニューは、トマトソースと塩味のパスタ2種類に、肉もしくは魚介のアレンジパスタが2種類ピッツァもあります。ここはテーブル席ではなく、カウンターで注文したパスタが丁寧に仕上げられるのを見ているのが愉しい。目を合わせて軽く会釈するだけだった、穏やかで物静かなシェフと一度だけメニューについて言葉を交わした。


「オレンジ……クリームソース……ですか?」


「はい。美味しいですよ、ぜひ召し上がってみてください」


 ホタテのオレンジクリームソース・パスタ。シェフを信じてよかった。ホタテの旨味をオレンジの風味が際立たせる逸品でした。また食いたいです。


【蕎麦の「TKFK」】


 三鷹の蕎麦といえば、老舗の「KTR庵」と、10年ほど前に開店した人気店「KBや」が有名です。そこへ最近加わったのが「TKFK」です。ここも感じのいい若い夫婦でやっている。イラストレーターでもある奥さん作のメニューが愉しくて、注文した後もついつい眺めてしまいます。ここは具がたっぷりのつけ蕎麦(*2)が人気ですが、最近は「もり」と「かけ」に凝っています。


「エッジが効いた、とにかく旨い蕎麦なんッすよ!」


「エッジねぇ……」


 蕎麦喰いの大先達・S野さんに説明したら苦笑いされました。でも本当です。店の隅のテーブルから厨房が見える。ご亭主が湯気の立つ大釜に注文分の蕎麦を投入する。ゆであがりを笊で掬い、水に一旦さらして氷水で一気に締める。きびきびとしたその動作に期待が高まります。


「もり」には辛めの付汁。まずは付け汁にはなにも入れず、さっと浸した蕎麦を一気にすする。のどごしと蕎麦の香りが堪りません。背筋がピンと伸びる思いです。次はよく効く山葵を蕎麦にのっけてひとすすり。今度は細く薄く切り揃えられた葱をのっけてひとすすり。これをしばし繰り返します。蕎麦が三分の一程度になったら、残った山葵と葱を蕎麦猪口に投入。劇的に味が変わります。「江戸っ子を気取る」なんてこたぁありませんが、旨い蕎麦をキリっとした付け汁にどっぷり浸すのは、どうも「残念!」な気がします。若い人も中年も、なんかお上品ってぇか、パスタみたいに音を立てずに食べる人が増えたように感じるのは、気の迷いでしょうか。僕の蕎麦をすする派手な音が目立ってしゃあない! ってな感じです。そして、最後の蕎麦湯がまた美味い。器に添えられた木の匙でまぜると、とろっとした重湯のようになる。甘い蕎麦の旨味が溶け込んで、じつに幸せな気分にしてくれます。


 一方の「かけ」は、サーブされた瞬間出汁の香りに包みこまれます。良い香りです。出汁をすする。ため息が出る。蕎麦をすする。蕎麦と出汁の両面攻撃に降参! こちらは珍しい青小葱と白葱が添えられます。さらにオプションで「とろろ」を注文。食い意地の権化=僕の真骨頂(!?)。出汁+蕎麦と、暖かい蕎麦+冷たいとろろを交互に楽しみます。さっぱりとして味わい深い「とろろ」がまた美味いんだよなぁ。


 3店とも、味も値段も、なによりゆったりと食事できることに大満足です。そんな良い店が、「我善坊」があった場所からすぐのところにあるのです。その芯にあった「我善坊」はすでにありません。


*1 税込1050円:消費税改訂後も料金は据え置かれています。


*2 本稿執筆からほどなくして、「カレーつけ蕎麦」にはまってしまいました。スパイシーなカレーと出汁のみごとなコラボレーション。残ったスープにごはんを投入してかき込む至福感が堪りません!


……………………………………

■其の5〈最初のさよなら編〉

……………………………………


 僕は我善坊と2回、別れを経験しています。


「一旦店を閉じようと思ってるんです」


(ウソッ! なんで!?)


 いつも通りの、ご亭主の穏やかなもの言い。「雷に撃たれた」っていうやつ。ショックでした。言葉も出ませんでした。「TSYKくんがね(女将さんは、ご亭主をそう呼んでいた)、一度違う場所で受け入れられるかどうか、試したいって言ってるの」


(なるほど! いやいや、すなおに納得していいのか!?)


「どうなるかは、まったくわかりません。許していただけるかどうか、歳をとったら……また三鷹に戻ってくるつもりです」


 そっかぁ、だよなぁ、旨いもんなぁ。ここ(三鷹)に留め置く理由、ないもんなぁ。「鄙=三鷹」で一定以上の評価は得た。それは間違いない。ただ、「よし、拡大路線だ。一丁勝負してやる!」的な野望とは違います。山っけなんか微塵もないストイックな人でした。


(この人はどこで店を開こうとも、スタイル、スタンスは崩さないだろう)


 2〜3カ月に1回、旨い食い物と旨い酒に魂を抜かれていた僕なんかとは違う、毎日のように通い続ける、この店を育てた(=愛した)古くからの客たちが事実を受け入れたのは、そんなご亭主の心情を忖度したからだと思います。我善坊閉店! 店を失った痛手が、足掻き続ける日常に埋没しそうになったころ、葉書が届きました。新しい場所は、神楽坂でした。東京を代表する花街のひとつ。


 都心(新宿区)にあって、いまも多くの料亭と芸者衆を擁するおとなの街。近年はそのおとなの世界に、フレンチやイタリアン、和食・中華をはじめとする野心的ないまどきの店が軒を競う、狭くて熱い激戦地です。JR中央緩行線(各停総武線)飯田橋駅の西口を出て右、JRと(江戸城)外堀を跨ぐだらだら坂を下ると神楽坂下交差点。交差点正面が、街路樹で頂が見通せない、けっこうな勾配の神楽坂です。かつてこの交差点の向かって右側に、佳作座という名画座がありました。いろいろ観た記憶はあるのですが、鮮烈なのは『セーラー服と機関銃(*)』です。NHK朝の連ドラ『あまちゃん』で大復活を遂げた天才少女(当時)薬師丸ひろ子にヤラれました。


 クライマックス。事の経緯は省くとして……ヤクザの組長にされてしまったヒロイン=セーラー服の女子高生が、アメリカ軍のM3サブマシンガンをぶっ放す。背景は白ホリゾント。スローモーションで、放射線状にヒロインは撃ちまくります。


 バースト──閃光、硝煙、飛び散る赤い薔薇の花。


「カ・イ・カ・ン!」


 弾を撃ちつくしたヒロインが、両足を踏みしばり、顔にかかる前髪を振り切って、焦点の定まらない瞳を泳がせながら放つ決め科白。あり得ない設定。あり得ない感覚。うち震えました。こころのスタンディングオベイションです(立ち上がることも考えられないふぬけ状態)。要は「萌え」ちまった! 思い出すに堪らない美しいシーンです。異論はあるでしょうが、日本映画を代表する名場面だと思っています。


 話がまたよれてしまいました。構想なくだらだらと書いていますので、話がどこに飛ぶか自分でもわからない。しかし因果なもので、我善坊が居を定めた神楽坂は、僕にとって忘れられない土地でした。1980年代初頭、僕はこの街にあったある会社に拾われて、〈学生 → 学生のようなもの → 学生でもなんでもないもの〉への変態を余儀なくされた、自分が招いた蟻地獄から社会復帰するきっかけを与えてもらったのです。いまも続けている生業の、基本・基礎はすべてその会社とこの街で学びました。仕事はもちろんですが、酒の呑み方、店とのつきあい方、なにより人との関わりの機微・作法を教わった。要は、僕はそのころようやく「人間」になったということです。


 感謝してもしきれない思い出の場所。よりにもよって、我善坊はそこを選んだ。


*セーラー服と機関銃:1981年(昭和56)12月公開の角川映画(全国東映系で配給)。監督:相米慎二/脚本:田中陽造/原作:赤川次郎/制作:角川春樹/音楽:星勝/出演:薬師丸ひろ子、渡瀬恒彦、風祭ゆき、大門正明、林家しん平、柳沢慎吾、光石研、柄本明、寺田農、北村和夫、佐藤允、三國連太郎、藤原釜足、円広志、斉藤洋介。製作スタッフがすごい。出演者も、大御所から当時まだ無名だった売れっ子役者たちが並びます。配給収入23億円で1982年度の邦画1位となった大ヒット映画です。(Wikipediaから引用編集)


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■其の6〈さよならのはじまり、そして別れ編〉

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 我善坊が居を定めた神楽坂は、午前中は「坂上 → 坂下」、午後は「坂下 → 坂上」の一方通行という、クルマの走行が規制される珍しい通りです。『神楽坂界隈』というサイトから引用します。1880年(明治13)の新聞報道です。


 ──神楽坂はすこぶる急峻な長坂にて

 車馬荷車並びに人民の往復も不便をきわめ、

 時として危険なることも度々なれば、

 坂上を堀下げんと官史が測量されたし──


 直線距離は450メートルほどなのですが、坂上まで登るとなれば、かなりつらい急坂です。正式名称は「早稲田通り」。えっちらおっちら登った坂上交差点正面先のだらだら坂を降った先が、早稲田大学です。その坂の両面にぎっしり店が並んでいます。通りから枝分かれする路地路地にも店が蝟集する、実に奥深い街。坂の中腹から坂上近くの路地を辿ると料亭街に出くわします。花柳界っていうやつ。手入れの行き届いた植栽・庭園をかいま見せる、広く巡らされた〈乙な〉塀の中は窺いしれない。善くも悪くも別世界。僕には縁遠い一角です。


 それはまぁそれとして、東京、とくに都心は坂の街です。至近距離なのに高低差が半端ないケースに驚くことがある。なにせ、四谷、渋谷、千駄ヶ谷、鴬谷、入谷など、谷のつく地名が数多い。逆に駿河台、麻布台、白金台などの台地を表す地名もあまたあります。確かに渋谷は、アジア初の地下鉄(現・東京メトロ銀座線)が交差点の上を走っている。僕が長年仕事場所にしている四谷もその典型。


 四谷・荒木町。かつて花街として栄えた呑み屋街です。大通りから一歩入るとそこは複雑な路地と抜け道が絡み合う迷路。呑兵衛にはたまらない居心地の良い街なのですが、日中ゆるやかな、曲がりくねった石段を辿って最奥部の弁天様(津の守弁財天)に行き着くと、そこがまったくの谷底であることがよくわかります。四谷の鎮守である須賀神社。同じ大通りから長い坂を下った先の小高い石段の上に鎮座する。しかし町家はさらに坂下へと続きます。降った果ての上り坂。その先の台地には、学習院初等科、ベルサイユ宮殿を模したといわれる壮麗な元赤坂迎賓館(かつての東宮御所)などが広がっています。この谷のことは、山田風太郎が傑作小説『ラスプーチンが来た』の主舞台として描いています。地形と街の成り立ちについては『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)と『ブラタモリ』(NHK)に譲りますが、いろいろと興味は尽きません。


 で、神楽坂です。


 自宅の最寄り駅から、東京メトロ・東西線で直通30分弱。都心に移ってしまったけれど、我善坊には電車一本で行ける安心感がありました。神楽坂上交差点から一本降って左に入った、ひっそりとした路地奥。新しい店は、4席のカウンターと4つのテーブル席。三鷹当時の3倍以上の客をゆったりと収容できる広さでした。濃茶を基調にしたシブい内装のそこで、夫婦ふたりだけで切り盛りするスタイルはまったく変わっていませんでした。


 まずはヒマそうでした。顔を出すと、ほかに客のいないことが多かった。もの静かなご亭主とパキパキ女将さんの様子は以前と同じ。よけいなお世話ですが、心配でした。頼りない僕の人脈ではありますが、旨いもの好きで伝播力ありと思われる人に宣伝しました。幸いなことに、その人たちは店が気に入り、リピーター&クチコミ元になってくれました。ただし、そんな思いは杞憂でした。近くにある老舗出版社の編集者たちが我善坊を発見。隠れ家的な良い店を発掘しては、こころの中にしまっておけず、ついつい周囲に喧伝・拡散してしまう。そういう習性(?)をもつ彼らは、つぎつぎに新しい客を呼び込みました。客の途絶えない店。まずは、目出たしめでたし、でした。


 そんなある日、予約しようと電話しました。


「実は……(厭な予感)……しばらくお休みさせていただくことになりまして」


「えッ、どうしたんですか?」


「癌なんです」


 絶句する僕。


「心配なさらないでください。入院してきっちり直して、また戻ってきますから」


 電話口のご亭主は、いつも通りの穏やかな口調で話します。その閑かできっぱりとした物言いにどう応えたのか、記憶にありません。「待ってますよ」と返すのが精一杯だったように思います。何カ月かがすぎ、店再開の葉書が届きました。勇んで出かけて、いつもと変わらない料理、酒、そして店の空気を満喫しました。我善坊復活。でもそれは〈さよならのはじまり〉でした。


 店と客との気持ちいい距離を感じる数少ない〈居場所〉。〈常連〉という店との接し方が、僕はどうも苦手です。思えば僕は、我善坊夫妻のことはほとんど知りません。手のすいた頃合いを見計らい、ご亭主・女将さんととりとめない言葉を交わす。それ以上のことはお互い詮索しない、立入らない。それでよかったのだと思っています。〈居場所〉をつねに用意してくれた我善坊に感謝します。店は次第に休む間隔が長くなっていきました。そして「もう一度席をご用意したい」と連絡が入りました。客は僕を含めて4人だけでした。


 旨い料理、旨い酒。とっておきのワインに食後のグラッパまで呑んで、豆を挽き糸を引くようなきれいなドリップで淹れてくれる、これまた旨いコーヒーで締めました。楽しい夜でした。そして躊躇っていました。


(ここでこんなことを口走っていいのか?)


 非礼極まりない。でも思いきってご亭主に尋ねました。


「器を売ってもらえませんか」


 壁一面のガラス棚に並べられていた、夫妻ご自慢の趣味のいい食器が激減していた。残っていたのは(それにしてもいい器だよなぁ)なんて、行くたびに感心していた、巡り会うことが稀な食器たち。整理できる(売り払える)ものを除いた愛着あるであろう食器でした。


「どうぞ、お好きなものを選んでください」


 ご亭主はこころよく承諾してくれた。その厚意に甘えようと思った。なかなか手に入らないだろう器を4客選びました。(そんな安くていいの?)と思いながら、言われるままに1000円払いました。


「ごちそうさま、今日も美味しかった!」


 丁寧に包んでくれた器を抱えて店を出ると、ご亭主と女将さんが見送りに出てきてくれました。それが我善坊との〈さよなら〉になりました。


「ありがとうございました」


 互いに会釈して目を上げたあとの、ご亭主との別れは僕のなかに深く刻まれています。


「お疲れさまでした」


(いつまでも続けばいいのに!)という夢想を打ち砕く現実。


 ご亭主=ISAM・TSYKさんの細く薄くなってしまった肩を両腕に感じながら、僕はその言葉しか選べませんでした。


〈三鷹うまいもん物語 了〉

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