“聖女”という名の……
街中に居たのにいつの間にか森の中の村に居た。
周囲を見れば、村の人達は子供も含めて全員が土下座の体制でピクリとも動かない。
「聖女様、ようこそお越し下さいました」
一人のお爺さんの言葉に首を傾げる。
来たくて来たわけじゃない。
「家に帰して」
「申し訳ございません、我々にはできません」
「どうして?」
さっきの言葉が本当なら、私がここに居る理由をこの人は……この人たちは知っているはずだ。
「ささやかながら、歓迎の宴の用意が出来ております……ささ、どうぞ」
宴なんていらない。
ここは何処なの?
家に帰して。
私がどんなに言葉をかけても、村の人達からは返事が返ってこない。
でも、聞こえてないわけでも意味が分からないわけでもないようだ。
村の人はどこか気まずそうに、それでも私の言葉を無視して宴を始める。
伝統だという楽器が鳴り、女の人が数人踊り始める、手渡された木のコップにワインらしきものが注がれ、私の前には食事が並ぶ。
宴の間、村の人達は笑みを張り付けた表情で私に話しかける。その目の奥には何処となくほっとしたような感情が隠れているような気がして首を傾げる。
「ささ、聖女様のお泊りになる部屋はこちらでございます」
宴のあとは有無を言わせず、川に入れられて布で拭かれた。それが終わると村の集落から森を通り少し離れた一軒家に案内された。
その一軒家の中はワンルームで、一人で寝るにはちょっと大きめのベッドと部屋の真ん中に小さなテーブルがあるだけの部屋だった。テーブルには一本のろうそくが頼りない火を灯しているだけだった。
「どうかごゆっくりお休みくださいませ」
村のお爺さんはそういうとそそくさと一軒家のドアを閉めて去って行ってしまった。
馴れないワインを飲んだせいか、見知らぬ人達に囲まれていた緊張からか私の口からは欠伸が漏れた。
座るところがないので、ベッドに腰かける。
眠くならないようにと、必死に他のことを考えようと頭の中を働かせる。
ここに来る前、何をしていたか……。
どうして自分がここに居るのかも分からず、ここに来る前のことを思い出そうとして冷や汗が出た。
私、ここに来る前、何をしてたんだろう?
自分がいた場所はここじゃない、それは理解できる。
私は日本にいるただのOLだ。特に趣味もなく、特技というものもない。
今日は平日だった。
会社は基本的に残業もなく、今日も定時の17時にタイムカードを切ったのを覚えている。それから着替えて、同僚とご飯に行こうと更衣室で話し合っていた。
一緒に会社を出てそこそこ馴染みのお店に入ろうとしたとき、会社に携帯を忘れたことを思い出した私は、同僚に話して一人会社に戻ろうと歩き出した。
それからの記憶が怪しい……。
会社に着いた記憶がないから、私はその間にこの村に来たんだろうか?
「思い出せない」
「何を、だ?」
自分以外の声が聞こえたことに驚いて動きが止まった。
「だ、ダレ?」
慌てて立ち上がり周囲を見回せば、私の後ろに黒い人が立っていた。
黒い人――その人は本当に真っ黒で、ろうそくの明かりがないとそこにいることさえ見えないくらい黒ずくめの人だった。
光を反射すらさせないであろう闇色の髪と瞳、黒茶の肌、黒色の服は同じく黒の紐や黒の宝石(正確にはわからないけど)等が使われていて凝っているようだけど、この部屋の中ではよく見えない。
「俺は……お前の夫だ」
「――――え?」
聞き間違えの可能性を信じて、再度“ダレ?”と問いかける。
「お前の伴侶だ」
どうやら聞き間違いではなかったようだ。
「伴侶って……」
「知らないのか?夫婦のことだ」
当然のようにそう答えた男の表情はろうそく一本のこの部屋の中ではわからない。けど、言葉の響きに嘘を感じない。
「会いたかった、俺の唯一」
とっても嬉しそうなとろけるような声で会いたかったと言われても、顔がちゃんと見えないし、貴方がだれかもわからないし、ここが何処かも知らないし。
怖くなって後ずさる。
男と私の間にはベッドがあるため、直ぐに間を詰めることはできないと考えて、慌てて方向転換をしてドアに向かって走り出した。
「突然どうかしたのか?」
男の声が私の背に問いかけるけど、振り返ることも答えることもせずに、ドアを開けて村に向かって走り出そうとドアノブに手を掛けた。
ガ チ ャ ッ
無情な音が部屋の中で響く。
ガ チ ャ ッ
ガチャガチャガチャ
「開かない」
何度もドアノブを動かすけど、全然動かない。
ドアを見ても鍵が付いているようには見えないのに……。
「どうかしたのか?」
男の心配そうな声がすぐ後ろで聞こえた。
振り返ると、そこには私の真後ろで立つ男の姿があった。
「ドアが開かないの」
「あぁ、番わなければ開かない」
「番う?」
「そうだ、俺達が番わなければこのドアは開かない」
「どう、して?」
「俺達が夫婦だからだ」
話が、通じない。
男と私は会話をしているはずなのに、意思の疎通が出来ている気がしない。
「番うって……」
どう問いかけていいのかすら分からずにそこで言葉を切れば、男は一人で納得したように数度頷いた。
「幼いお前にも分かるように説明しよう」
立って話すのも疲れるだろうと男は私の腰に手をまわし、そっとベッドにエスコートした。そのままベッドに腰かければ、膝と膝が触れ合うほどの距離で男も座わり、私の両手を男は自分のそれで握りしめた。
距離が近くなったため、男の顔がよく見えるようになった。――何処か冷酷にも見える無表情で、でも男の手はそんな男の表情に反して温かかった
「まず俺は、ニンゲンではない」
突然のカミングアウトにどうしたらいいのかわからない。
人間にしか見えないのに、目の前の人は“ナニ”だというのだ。
「俺は、黒龍という種……この世界の闇を司る」
「こく、りゅう」
「そうだ」
“こくりゅう”ってなんですか?
闇を司るってどういう意味?
「お前は、俺の唯一。」
「ただ、ひとつ?」
「そう、俺の唯一。この世界には俺の……龍の唯一は産まれない」
唯一。
「俺の唯一。この世界で俺と対等なのはお前だけだ」
意味が、わからない。
ただ男が真剣にゆっくりと言葉を選びながら、私に話しかけるのを、じっと聞いて居た。
「この世界の龍は調停者。この世界で生きながら、この世界を外から見る存在」
男は説明の時に切なそうに顔をしかめた。
「龍の番いをニンゲンは“聖人”や“聖女”と呼び、龍は唯一と呼ぶ」
「どうして人間は“聖人”や“聖女”と呼ぶの?」
「龍は世界の調停者。この世界に生きていてなお、この世界と一番係わりが薄い存在。ニンゲンは歴史や物語や噂の中でしか龍を知ることはない。ニンゲンから見れば神のような存在。その存在の番いだからニンゲンは“聖人”や“聖女”と呼ぶ。龍は、常に孤独だ」
「他にも龍は居るんでしょ?他の龍とは一緒にいないの?」
「龍は普段、それぞれが司る自然の中に居て世界を見ている。黒龍の俺が司るのは闇。故に俺は普段は独りで闇の中にいる。龍が自分以外のモノを傍に置けるのは唯一だけだ」
「ずっと、独り」
「そうだ……独りだった。でも、これからはお前がいる。俺の唯一」
唯一と男は私の頬を撫でた男の瞳には安堵の表情が浮かんでいた。
闇の中でずっと独りとはどんなに辛いんだろう。
「俺の力の及ぶ範囲で、なんでもしよう。だから傍に居て欲しい」
その言葉は、私には命ごいのように聞こえた。
見捨てないで、独りにしないで……。そう、聞こえた。
「番うって、どうするの?」
「名を……呼んで欲しい」
「こくりゅう?」
「違う。それは種の名前……俺だけの名を、お前だけが呼ぶ俺だけの名をつけて欲しい」
名前。
今までずっと独りだった男には名前がないらしい。
他の龍たちが呼びあうときは~~の龍(男の場合なら闇の龍)と呼び合うらしい。
そもそも、龍達が自分の司るものから出れるのも稀なことで、男も数百年生きていて3回ほどしか他の龍とあうことがなかったらしい。
「私が名前を付けて、呼んだらいいの?」
「そうだ、それだけだ」
男の期待するような顔に、クロとかヤミとかはつけられないなぁと思いながら男の特徴を探すために、男をゆっくりと見つめる。
あぁ、そうだ。この名前にしよう。この名前が一番似合う。
もっと悩むかと思った名付けは、思いのほかすんなりと決まり、そっと口を開いた。
『 』
「それが、俺の名か……」
「うん。貴方の名前」
口に出せば、 は無表情のまま涙だけを流していた。
「泣かないで」
「泣いて、いるのか……俺が」
「うん、泣いてるよ」
私の言葉に は泣いていることに気付いたらしく、そっと自分の涙を拭った。
「お前は、俺の唯一、俺の世界。大切にする、大事にするからどうか俺の傍にいてほしい。その唇で俺の名を呼んでくれ、そして出来るならお前の名を呼ぶ幸福を俺に与えてくれ」
の言葉に私は の耳に唇を寄せ、そっと自分の名を告げるのだった。