廊下で刺されて
廊下で何かが倒れるような大きな音で、清彦は目が覚めた。
すっかり眠り惚けてしまったようだ。
壁の時計を見ると、時刻は午後九時を回っていた。伸びをして部屋中を見回したが、起きているはずの亜美の姿が見えない。
どうしたのだろうか。
スコップを持って、客間の扉に手をかける。
と、その時、ようやく気付いた。
ほんの僅かに扉が開いているのだ。
恐る恐る扉を開けて、まずは左を見る。その先は台所に繋がっている。しかし、何も異常はない。
次に右を見る。玄関に繋がる廊下だ。
清彦はそこで、ギョッと身を竦ませた。白い壁紙に、赤い大きなシミができている。
血だ。
飛び散った血だ。
視線を下にさげると、廊下に誰かが倒れているのがわかった。うつ伏せに倒れているが、服装や髪型で即座に亜美なのだと理解した。
腰から何か黒い物体が突き出ている。見えにくいが、服にはいくつもの穴が開いている。何度も刺されたのだ。
その腰回りと首のあたりから、暗褐色の液体がじわじわと広がっている。床の木目の隙間に流れ込んで、清彦の足下にまで迫っていた。その血の海には、今までと同様『月』のカードが浮かんでいた。
「亜美! どうしたんだ、おい!」
清彦はすぐに近寄って、肩を揺さぶる。血が手にべっとりとついた。ぬるりとしたそれはまだ生暖かい。しかし脈は既になく、亜美の肌は冷たくなっていた。
亜美は金属バットを手に持ったまま倒れていたが、その金属バットは綺麗なままだった。
状況から察するに、夜更けになるまで待つことに耐えきれず、逃げ出そうとしたところを後ろから包丁で刺され、直後首を斬られ、叫び声すら上げられないまま、だめ押しで背中を滅多差しにされたのだ。
沸々と怒りがこみ上げてきた。
彼女は何も持たずに逃げようとしていたのだ。それなのに……。
凶器が包丁だと言うことは、利一が犯人で決まりだ。さっき二階の廊下で持っているのを見た。この家に包丁は一本しかない。
ぶっ殺してやる。
紛れもない殺意。手にしていたスコップに力が入る。
落ち着け。こういう時こそ冷静にならなければ。
清彦は深く息を吸い込んだ。
怒りに身を任せれば、相手の思うつぼだ。
一人よりも二人の方が何かと有利になるはずだ。まずは、優を味方に付けよう。
この時間だから、恐らくは自分の部屋にいるに違いない。
スコップを構えて、摺り足で音を立てずに歩を進める。手が汗ばんで、何度も滑り落としそうになった。今にも部屋から利一が飛び出してきて、不意打ちをかましてくるかもしれない。そこの角から現れて、襲いかかってくるかもしれない。
激しくなる動悸。
走り出したい衝動に駆られた。それをどうにか抑えて、やっとの思いで階段まで到達した。
止めていた息を一気に吐き出して、階段を見上げる。覚悟を決めて、足を踏み出した。
一段のぼる度に、軋む階段の音に肝を冷やした。
聞こえていないことを願って、ただただ足元に注意して上る。
普段はたった十二段の階段なのに、今はまるで永遠に続く天国への階段のように思えた。
何事もなく上り終えると少しホッとして、そのまま優の部屋に向かう。
「おい、いるのか? ちょっと出てきてくれ」
ノックをしても、反応はない。いないのか。
ドアを開けようと試みたが、鍵がかかっていてびくともしない。利一がつけた扉の裂け目から、中の様子を覗き込んでみるのだが、バリケードのように本棚が置かれていて良く見えない。
しかしこの状態なら、間違いなく中にはいる。
「いるんだろ? 返事してくれ。大事な話があるんだ」
あまり大声では呼びたくない。必死にはなりながらも低く抑えて、中に呼びかける。
*
優は勿論部屋の中にいた。起きてもいた。しかし、突然やって来た清彦の言葉を信じていいものかと考えあぐねていたのだ。
もしかしたら、俺を陥れる為に嘘を吐いているのではないか。わざわざ外へ出て行く必要はない。
「俺はここにいます。ただ、この部屋からは出ません。そこで用件を話してください」
小さく舌打ちが聞こえた。
やはりそうだったのか。
「亜美が殺されたんだ。兄さんの持ってた包丁が刺さってたんだ。あいつがやったんだよ。頼む、あいつを始末するのを手伝ってくれないか? そのほうがお互い安全だろう?」
優は二度も驚かされた。亜美が殺されたということには勿論驚いた。しかしそれよりも驚いたのは、それを口実に優に実の父親を殺してくれと頼んでいるのだ。
「あんた、俺に親父を殺せってのか? できるわけないだろ。第一そんな話信用できない。あんたが殺した可能性もあるし、そもそも亜美さんが死んでるなんて言うのも嘘かもしれない」
「嘘なわけあるか! 俺はこの眼でちゃんと……」
突如、清彦は黙り込んだ。何かぶつぶつと独りで喋っている。
やはり清彦もイカレている。出て行かなくて正解だ。何をされるかわかったもんじゃない。
「あの……清彦さん?」
「優、お前、アガサ・クリスティ知ってるか?」
急に作家の名前が飛び出してきた。優には清彦の意図が分からなかった。
とりあえず、変に刺激しない様に答える。
「ええ、そりゃ勿論」
「じゃあ、『そして誰もいなくなった』読んだことあるか?」
話の先が見えない。ミステリ談義をしている余裕などないはずだが。
「昔読んだことがあるけど、中学生ぐらいの時に」
「まさにそれなんだよ」
「……まさか」
「そのまさかだ。亜美がカギなんだよ」
清彦はそれだけ言うと、慌ただしく部屋の前から離れていった。
*
優に言われて、清彦の頭の中で一つの考えが閃いた。
今まで、亜美と接している時は、彼女がまるで舞台の演者のような違和感を覚えていた。あれは恐らく、俺に本性を隠そうとしていたからではないか。
今思えば、銀行強盗の計画を立てる際に彼女にうまいこと誘導されていたような、そんな気もする。
彼女は綾子が死んだとき、俺と一緒に居間にいたと言っていた。あの時は、俺の勘違いかと思って深く考えなかったが、亜美は嘘を吐いている。やはりあの時彼女はあそこにいなかった。
どうにも、亜美は怪しい。
もしかしたら――
もしかしたら、逃げようといったあの時、俺が金を取りに屋根裏に行くことを読んでいて、そこで殺すつもりだったのかもしれない。利一がやってきたから断念したが、もしそうでなかったら――。
清彦の背筋に悪寒が走った。
ともかく、これはまだ想像の域を出ない。確かめなくては。
清彦は階段を駆け下り、廊下に倒れているはずの亜美を確認しに行った。すると、そこには亜美の姿はなかった。血の跡だけが残され、死体は姿かたちもなく消えていた。
スコップを持ち直して、周りを見回す。その時、玄関でチャイムが鳴った。
誰だ。こんな時に。
まずい。今ここで出るわけにはいかない。
物音をたてないように、玄関に近づく。廊下の血の海に間違って足を踏み込んでしまい、滑りそうになった。どうにか踏ん張って耐える。
その間にも、チャイムは鳴り続ける。その間隔は次第に短くなっていった。
玄関ドアの手前まで来ると、チャイムが不意に止まった。
帰ったのか。
覗き穴に目を近づける。と、その時、
――ガチャリ。ギイイイイイ。
やかましい音を立てて、ドアが開いた。
何故だ。鍵がかかってなかったのか。
思わず清彦は飛び退く。スコップを後ろ手に隠した。
玄関の先には隣家の一人娘、間宮美咲が立っていた。