疑心暗鬼を生ず
ベッドルームに吊るされた綾子。見開かれた血走った眼。顎が外れてしまったかの如く開いた口からは、舌がだらしなく垂れて、涎が糸を引いて滴り落ちている。かきむしったのか、首には赤いみみず腫れが幾筋もできていた。
足取りが覚束ない利一は、綾子に近寄ると、だき抱えるようにして身体を支えた。
「綾子、しっかりしろ綾子!」
どこから湧いてきたのか、綾子の身体についていた何匹かのハエが、それに驚いて飛び立つ。
空気が振動して、酸っぱい臭いがつんと鼻を刺激する。
部屋の窓は雨戸が下ろされ、締め切られていた。恐らくはこの暑さと湿気で、すでに腐敗が始まっているのだ。
よく見ると、肌は黄色く変色していた。
どう見てももう死んでいる。それでも綾子を助けようとする利一の行動は、見ていて痛々しいものだった。
「どうしてこんなことに……」
次第に弱々しい声になっていく利一。こんなに彼女に縋るような利一の姿は、優も今まで見たことがなかった。まだ、それだけ綾子を愛していたのだろう。それがわかって、こんな状況にも関わらず、優の中には少しばかりホッとしていた自分がいた。
「おい、どうした。あっ……」
騒ぎを聞きつけた清彦と亜美が階下から駆けつけた。しかし、寝室の様子を見て、その動きは止まった。呆然と立ち尽くすばかりだ。
「綾子さん……死んでるの?」
亜美は寝室に入ったが、すぐに口元を覆って、トイレに駆け込んだ。臭いにやられたか、凄惨な死体にやられたか。
優もその様子を見て、急に気分が悪くなり、胃全体が持ち上げられているような感覚だった。
*
亜美はトイレに入って鍵を掛けると、手で覆った口元を綻ばせた。
こんなにうまく事が運んでいる。おかげで私の取り分も増えているはずだ。
愉快で仕方がなかった。彼らに未だその本性を現していない彼女が、疑われる余地などない。とは言え、気を緩めるわけにはいかない。これからやることもまだまだ沢山ある。
亜美は、昔から自分の素顔を他人に晒したことがなかった。それは勿論この赤屋家の人間にも、結婚相手の清彦にもだ。
亜美が清彦などという貧乏人と結婚したのも、彼が金持ちだと吹聴していたからだ。そこに愛など微塵もない。どこへ行くにも金の羽振りはよかったし、てっきり本物だと思っていたのだが、結婚してからそれが見栄から出た嘘だと発覚し、亜美はすぐさま離婚を考えた。
しかし、そこで銀行強盗の話が持ちかけられた。
亜美は清彦を唆して、計画に参加することとなったのだ。
銀行強盗と言っても、この計画では亜美は逃走車の運転係で、身元がばれたところで、知らぬ存ぜぬで通すことも不可能ではない。捕まる可能性の少ない役柄だった。それに、たったそれだけで大金が手に入るのならば、是非ともやらせてもらいたいところでもあった。
まだしばらく金を使うことができないというのが問題ではあったが、それでも未来は約束されたようなものだ。
だからこそ、今でもこんな家に住んでいるのだ。
私は三億全てを手に入れたい。これではまだ駄目なのだ。油断してはならない。
亜美は深呼吸して、昂ぶる気持ちを落ち着かせると、水を流してトイレから出て、洗面台の鏡で気分の悪そうな顔を作った。
*
「兎に角、降ろそう」
清彦はどうにか理性を保ち、指示を出した。清彦はすっかり動転してしまった兄を綾子から引き剥がして落ち着かせ、俺と一緒に吊された死体を床に降ろした。
身体は既に硬直が始まり、腕や足はまるで金属パイプのように外力に抵抗した。死体を床に寝かせると、清彦は利一を一階の居間に連れて行って、休ませることにした。
戻ってきた清彦に、俺は言った。
「無理もないことだよな。自分の子供が死んで、その上、誰かさんからはその嫌疑までかけられてたんだからな。かなり追い詰められていたみたいだったし……」
あまりにも惨い死体を視界に入れたくなかった。俯いて、ただただ床を見つめる。
「おいおい、俺のせいで自殺したって言うじゃないだろうな? 言っておくが、これは自殺じゃないぞ」
清彦は確信を持って言った。顔を上げて清彦を見ると、彼は死体の首を調べていた。
「どうしてそう言える?」
「まず、この状況だ。吊された死体の足下には台になるものが何もなかった。これじゃ自殺は無理だ。それと、よく見てみろ」清彦は綾子の首に巻きついたロープを解いて指差した。「首にはロープの跡が二カ所に付いている。これは一旦首を絞めて殺した後に、天井から吊したという証拠にならないか?」
確かに、その首に跡がついていた。清彦の言い分にはとても説得力があった。
「それに……このカードだ」
利一は綾子の服のポケットから顔を覗かせていたそれを取り出して、優に見せつけた。例のタロットカードだ。
「これは……」
「恐らく、悟をやったのと同一犯だ」
「もし、そうだったとして、一体誰が?」
「そんなこと、俺に言われても困るよ。俺はやってないからね。俺はずっと居間で本を読んでた」
「何か物音を聞いたりとかは?」
「いや、ヘッドホンで音楽聴いてたからね……気付かなかったよ」
丁度そこへ、亜美がトイレから戻ってきた。幾分顔色はよくなったように見える。
「亜美さんはどうですか? 何か不審な物音とか」
「気が付かなかったわ」
「そう言えばお前、俺が居間で本を読んでる間、どこにいたんだ?」
「やだ、ずっと同じ部屋でテレビ見てたじゃない」
「そうだったか?」
惚けた様子でそう言う清彦を、亜美は睨み付ける。
「誰がやったか、確たる証拠はないですし、進展無しですね」
優がそう結論付けようとしたが、清彦がそれに待ったをかけた。
「そうか? 俺は兄さんが怪しいと思うけどな」
どうしても利一を犯人に仕立て上げたそうな清彦に、優はほとほと呆れ果てた。
「またそうやって……。親父は俺と一緒に墓参りに行った後は、ずっと下で家事をしてた。俺がその姿を見ているし、そんな暇はなかったはずだ」
「死体の腐敗具合から見て、殺されてから七、八時間は経っているだろう。ってことは、お前らが出かける前に、既に綾子さんは死んでいたことになる」
「部屋に入れて貰ったけど、母さんはずっと寝込んでた。俺も見たんだ」
「正確に言えば、布団にくるまっていた綾子さんの姿、だろ? 実際には、その時点で既に死んでいたんだ。そして、たった今綾子さんを吊り下げて、あたかも今死体を発見したように振る舞った。ってのは、どうだ?」
言われてみれば……確かに、母の姿を見たというわけではない。しかしその時点で死んでいるなど、よもや思いもしなかった。
「考えられなくもないけど、あれが演技?」
「兄さんもかなり狡賢い人間だからな。可能性はある」
「でもそれなら、この家にいた全員ができただろ? 俺の場合は親父と同様の理由で。俺たちが家にいなかった間なら、あなたたち二人にも出来たはずだからね」
「そりゃ、まあ、そう言われたら、何とも言えないな」
清彦は頭を掻いて苦笑した。
こうなると、もはや誰も信用することができない。頼れるのは自分だけだ。
綾子の死体は、悟同様に埋めに行くことにはなったが、利一はあの調子なので、人手は実質三人しかいない。夜のうちに事を終えてしまいたいので、夜の十二時には再びあの山へ出かけることになった。