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ベッドルームで首を吊る

 三年前から戻ってくると、既に日は高く昇っていて、大汗をかいていた。寝ている間に剥いだのか、布団はベッドからずり落ちて、ぐちゃぐちゃになっている。べとべとした汗を拭い、枕元の時計を見ると、午前十時を回っていた。


 すっかり眠りこけてしまった。


 目が覚めて、いつもの癖でダイニングに向かう。が、誰もいない。

 いつもならば、朝起きてここへ来れば、綾子が朝食の準備をしているのだが、今日は電気すらついていない。起きるのが遅すぎたせいかと思ったが、テーブルにできた赤黒いしみを見て、ようやく昨日のことを思い出した。


 悟の死。疑惑の向けられた母。そして……。

 そうだ。少なくともしばらくの間はもう、母は俺たちのために食事を作ることはない。


 頭が冴えてきて、急激に空腹を訴えるようになってきた。鳴り止まない腹を抑えながら、冷凍食品を取り出して、電子レンジで温める。

 昨日の今日だから、食器は使う前に念入りに洗った。

 出来上がった料理を、恐る恐る口に運ぶ。味を楽しむことなどできない。食事の大きな楽しみの一つがなくなってしまったようで、もの寂しさを覚えた。

 今は大丈夫だったが、これを毎食のようにしなければならない。

 食事の時も気が安らぐことはないのだ。憂鬱だった。

 一人の寂しい朝食を終えて再び食器を洗うと、居間でテレビを見始めた。

 しばらくそうしていると、徐々に家族が集まり始めたようで、ダイニングが騒がしくなった。優はテレビの音量を下げて聞き耳を立てた。話題は悟の事だった。


「どうにか処分はできたが、学校のほうはどうするんだ?」


 清彦だろう。それに利一が答える。


「盆の間は部活が休みみたいだが、そのあとは骨折しただとか、病気だとかで行けないことにしておけばいいさ」


「でもそのあとは? ずっとそれで騙しとおせるはずないだろ?」


「それは……その時考えるさ」


「なんだよそれ」


 場当たり的な利一の受け答えは、らしくないものだった。疲れが取れていないのか、その声にはいつもの威厳はなく、情けない弱さのようなものを醸し出していた。

 テレビに向き直ると、またもあの強盗事件を取り上げたニュースが放送されていた。関係者と思しき女性が、記者からインタビューを受けている。その声は小刻みに震えていて、時折鼻をすする音も聞こえてきた。


『一刻も早く犯人が捕まってほしいです。あの日が近づくたびに、あの光景が思い出されて、夜も眠れない日々で――』


 まるで遺族のような口振りで彼女は質問に答えている。しかし、あの事件で死者は出ていない。


 恐らくは、腕を撃たれた行員の妻か娘といったところだろう。


 聞いているだけで自分の中の罪悪感が際限なく膨張していくので、優はいてもたってもいられず、テレビの電源を消した。


 さらに翌日になっても、綾子はよく眠れていないのか、目の下の隈は酷く、肌にも張りがない。時が刻まれる毎にやつれていくようで、まるで綾子だけ時の流れが速くなっているようだった。

 追い詰められていた、三年前の銀行強盗をする前の彼女に逆戻りしてしまったようでもある。

 どれだけ時間が経っても、彼女の気分に落ち着きが戻ることはなく、むしろ悪くなる一方だ。時々魂が抜けてしまったように、何もない宙をただぼんやりと眺めていることもある。情緒不安定になり、急に泣き出したり喚いたり怒り出したり。悟の幻覚さえも見ることがあるようだ。

 一日中部屋に閉じこもって出てこないこともある。


 その日、優は気分転換に書店に赴こうと家から出ると、丁度赤屋家に来ようとしていた、間宮美咲とばったり出くわした。


「ああ、優くん」


「どうかしたの?」


「最近、悟くんの姿を見かけないなと思って……。何かあったのかと思って心配しちゃって」


 悟という言葉を美咲の口から聞いて、優は驚いた。


「な、何でもないよ。練習で足をやったみたいでさ……。外に出るのは厳しいんだ」


 咄嗟に口から出た嘘だった。これから先、彼女にも、他の人々にも、嘘を吐き続けていかなければならないのだということを実感して、優は心が痛くなった。


「そうなんだ……」


 丁度そこへ、亜美が現れた。彼女もまた、どこかへ出かけるつもりなのだろう。


「亜美さん。こんにちは」


「ああ、美咲ちゃん」


「じゃ、じゃあ俺はこれで」


 残りのことは二人に任せて、優は逃げるようにその場から立ち去った。少し挙動不審すぎて、怪しまれないだろうかと後から思って、それから先はとても本を読んでいられるような状態ではなかった。


 *


 立ち去っていく優の姿を見送ってから、美咲は亜美にも同じ質問をした。彼は何かを隠しているような素振りだったからだ。


「悟くん。最近見ないけど、どうかしたんですか?」


「あ、ああ、悟くんね。彼、風邪ひいちゃったみたいで、ずっと寝込んでいるのよ」


 先程の優と言っていることが違う。いよいよ美咲は彼らを怪しんだ。何か隠しているに違いない。


「そうなんですか。じゃあ、お見舞いに行ってもいいですか?」


 そう言うと、亜美は落ち着かない様子で、眼を宙に泳がせながら、


「ええっと、それはやめといたほうがいいかも。……ほら、今年の夏風邪はたちが悪いっていうし、移しちゃったらまずいから」


 と、時々言葉をつっかえながら美咲の提案を断った。


「……そうですか、じゃあ、また今度にします」


 美咲はこれ以上無理に言っても無意味だろうと踏んで、間宮家に戻った。

 

 彼らの態度はどうにも怪しい。それにこの間、一家総出で夜中に車でどこかへ出かけた様子だった。朝には何事もなかったように戻ってきていたが、あのことと何か関係があるのだろうか。

 そういえば、悟の姿が見えなくなったのも、その頃からだったような気がする。

 何だろう、この妙な胸騒ぎは……。


 *


 明くる日も綾子は朝から寝室に籠って出てこなかった。

 仕方がないので、優と父で墓参りに向かった。悟のことで、お盆だということをすっかり忘れていた。

 何もこんな時に、とは思ったが、利一も何とかして現実を取り戻したかったのだろう。きっと、いつものようにお盆を過ごすことで、頭を切り替えたいのだ。

 代々の墓に悟の身体はないが、彼の分も祈りを捧げた。



 墓参りからの帰り道、運転席に座って車のハンドルを握る利一は、前を見ながらおもむろに口を開いた。


「なあ、優。誰が悟を殺したと思う?」


「えっ?」


「今は俺とお前の二人きりしかいないんだ。お前の意見が聞きたい。遠慮するな」


「俺には……よくわからない。やろうと思えば誰だってやれた」


「じゃあ、母さんがやったと思うか?」


「いや、そんなことできるような人じゃないよ。それに今もあんな調子だし。親父はそう思ってるのか?」


 利一は苦笑した。


「まさか! 俺だって信じてるさ」


「じゃあ親父は、誰が犯人だと思うわけ?」


 利一は暫く沈思黙考していた。優はそんな利一を隣でじっと見ていた。

 やがて、彼は静かに口を開いた。


「清彦だ」


「どうして?」


「あいつは、母さんのことを疑いすぎているように思う。どうにも、疑いの目を母さんに向けたいらしい。自分が疑われたくないからだろうな。

 あいつは昔からこうなんだ。狡猾で、金にがめつい人間だ。今回だって、金目当てに殺したに決まってる」


「じゃあ、どうするの?」


「こうなった以上、警察は完全に呼べないからな。それに証拠が見つからないと、推測の域を出ないと反論されてしまうだろう。だから、あいつの部屋で、何かないか探してみることにする。もしかしたら、毒薬の瓶でも見つかるかもしれない」


 まさか清彦が、そんな迂闊なミスはしないだろう。既に処分しているはずだ。


「もし、見つけたら、どうする気?」


「その時は……その時だ」


 それから、利一は一言も言葉を発しなかった。

 彼の話を聞いて優は自分の考えが間違っていたことに気付いた。

 今日の墓参りは、気持ちを切り替えるためなどではなく、悟の敵討ちを誓うための行動だったのだ。


 墓地から戻ってきても、綾子はまだ出てきていないようだった。入れ違いで、清彦と亜美がどこかへ出かけた。それからしばらく、優は居間でテレビを見たり、清彦のパソコンでネットをしたりして、暇を潰した。

 今日もまたもの凄い暑さで、墓参りに出かけただけでぐったりしてしまった。おそらくは軽い熱中症にでもなってしまったのだろう。とてもじゃないが、外に遊びにでも行く元気はなかった。

 優が居間でうだっている間、利一は綾子の代わりに家事をやっていた。

 風呂やトイレの掃除。洗濯物の取り込み。

 亭主関白の利一がそんなことをしたことはなく、手際も悪くぎこちないものだった。

 そして、部屋の掃除をすると言う口実で、利一は清彦夫婦の部屋となっている客間に入り込んだ。

 廊下を挟んで居間の反対側にある部屋が客間だ。だから、彼が部屋を出入りするときに、その中がちらりと見えた。清彦らは掃除や整理整頓という事には無頓着なようで、床は彼らの私物で溢れかえって、足の踏み場もないほどだった。

 しかしどうやら、何の証拠も得られなかったようで、がっくりと肩を落として部屋から出てきた。


 今日もまた悟の一件から相変わらず、家族バラバラの夕食だった。綾子はその時間になっても部屋から出てくることはなかった。

 夕食をそそくさと食べ終えると、優は二階の自室に戻って本を読み始めた。

 しかしベッドで寝そべりながら読んでいると、徐々にうつらうつらしてきた。文字がぼやけて、目を擦りながら読んだ。だが、内容は一切頭に入ってこない。文章の意味も理解できない状態だった。

 昼間の疲労がどっと襲ってきたのだ。抗う事の出来ない睡魔に身を任せてしまおうと、身体を机に預けたその時、


 ――うわああああっ。


 悲鳴はまるで世界の端から聞こえてきたようだった。利一の声だ。

 刹那、眠気は吹き飛び、現実に引き戻された優はほとんど無意識で部屋を出た。

 廊下で利一が立ち竦んでいた。

 寝室の扉が開かれている。明かりは点いていない。中は暗闇で、廊下の明かりが差し込んでいた。

 

「親父、大丈夫か? どうかしたのか?」


 駆け寄ろうとすると、利一は寝室に入っていって、見えなくなった。


「親父?」


 そのあとを追うように、寝室に入ろうとしたとき、廊下の明かりに照らされた、綾子の姿が目に飛び込んできた。

 それは、優の知っている母の姿とはおよそかけ離れた、天井から吊り下げられた肉塊だった。

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