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食卓では血を吐いて

 それから数日経って、遂にお盆休みの前日になったが、あの脅迫状の後は何の音沙汰もなかった。

 結局あれは悪戯だったのだ。

 その事を話題にはしないが、誰もがそう思っていた。


 その日の夕方は、気温は下がって昼間より過ごしやすくなったものの、湿度は相変わらず高く、じめじめとして不快だった。

 綾子に呼ばれて、優がダイニングにやってくると、既に食事の準備が整っていた。何も動いていないにもかかわらず、かなり空腹を感じていたので、優は全員が揃う前にそそくさと食べ始めた。


「もう、そんなにがっついて。さっきだってお菓子食べたんでしょう? 食べ過ぎじゃない?」


 食卓に座って、行儀正しく他のみんなを待っている綾子に注意されたが、菓子の件は身に覚えのないことだった。


「知らないよ。昼から何も食べてないから、俺は。悟じゃないの」


 丁度ダイニングにやってきた悟に振る。


「いや、何のこと? 俺じゃないから。人のせいにしないでよ」


「はいはい、わかったから喧嘩しない。この話はこれで終わりでいいから。ご飯が不味くなるわ」


 結局、言い出しっぺの綾子が仲裁に入って、それで終わった。


「明日からお盆で、暫くは悟の部活も休みみたいだし、お父さんも仕事はないでしょう? 久しぶりに家族でどこか旅行にでも行ってみないかなって思うんだけど、どう?」


 全員が揃うと突然、綾子がそう切り出した。


 思えば家族旅行なんて、ここ何年かは一度も行ってないのではないか。それも悪くないだろう。いい気分転換になる。


 優は出来ることならこの家から離れて、少しでも嫌なことを忘れたかった。


「いいね、俺は賛成だな」


 おかずを頬張りながら、優はそう言った。そこから食卓はどこへ行くかの議論になり始め、最早殆ど行くことは決まりかけていた。しかし場が盛り上がりを見せる前に、それまで黙って見守っていた利一が牽制を入れた。


「そう話しているのはいいが、まだ行くと決まった訳じゃないからな。金だってないんだから。出来ればこの家を留守にはしたくないし。かと言って、誰かを留守番にすることもしたくはない。それに……あんな事もあった後だしな」


 利一の言わんとしていることは皆わかっている。それでいつもこの話はこれでご破算になってきていた。その上、未だに何事も起こっていないとはいえ、脅迫状の件も見逃すわけにはいかない。しかし、今日の綾子は折れなかった。


「あなたの言いたいことはわかるけど、あんな事があったからこそ行きたいの。なんだか息が詰まるのよ、この家にいると。常に見張られているような気分だし……。少しくらい良いじゃない」


「兄さんは慎重過ぎなんだよな。それが悟にも遺伝しちまったんだな。まあ、泊まりならまだしも、日帰りくらいなら良いじゃねえかよ、なあ?」


 そう言って清彦は隣に座った亜美に目をやる。彼女は口に入ったものを飲み込むと頷いた。


「そうそう。せっかくの休みなんだし、有意義に使わないと勿体ないですよ」


 悟は元来こういう議論の場はあまり得意ではないようで、俯き気味に食事をするだけ。先日のこともあり、父親の機嫌を損ねかねない行為をしたくはないのだ。

 悟は利一のことをどこか恐れているようである。

 優にはそんな風に見えた。それは、表立っては出さないが、優もまたそんな畏怖に似た感情を利一に抱いているからかもしれない。


「親父、ちょっとくらい良いだろ? 悟だって行きたいよな?」


 優が無理やり会話に加わらせようとすると、悟は


「出来れば」


 と小声で答える。

 利一以外の全員が旅行に賛成だったので、彼は暫く考え込んでいたが、やがて諦めたように溜息を吐いた。


「しょうがないな。でも、泊りはなしだぞ。流石にそんな金はないからな」


 渋々でも了承が得られると、今度こそ旅行先の話し合いが本格的に始まった。


「日帰りで行くとなると、なるべく近場がいいな。温泉とか、ディズニーランドとかか?」


 何だかんだ言っていた利一も、結構乗り気で予定を立てている。


「でも金はあんまりかけたくないからなあ。後で調べておくかな。清彦、パソコン貸してくれ」


 赤屋家にあったデスクトップは既に売り払われ、今は清彦の持っているノートパソコンだけしかない。そのために優はネットを使うのに彼に借りるか、大学のパソコンを使うしかないのだ。

 流石に狡い清彦も、パソコンを使うのに使用料まで徴収したりはしないが、時間を厳しく決めてくるのでなかなか自由には使えない。

 優にとっては不便なことこの上なかった。


「ああ、わかったよ」


 清彦は適当に返事をする。


「お前らはどうだ? どっか行きたいとこあるか?」


 利一は優と悟に話を振る。とは言っても、咄嗟に訊かれて思いつくような場所もなかった。


「俺は行けるんならどこでもいいけど」言って、優はご飯をかきこむ。「悟は?」


「ううん、いきなり言われても……」


 悟は考えあぐねている様子だ。おかずとご飯を食べながら、うんうん唸っている――と、唸り声は徐々に大きくなり始め、もがき苦しむように喉を掻きむしり出した。

 喉に詰まった息が鮮血と共に吐き出され、咳き込んだのちに、食卓に突っ伏した。

 実際には、ものの数秒の出来事だったのだが、優には白目を剥いて悶絶していた悟の身体が倒れこむ様は、まるでスローモーションのように、やけにゆっくりとした動きに見えた。

 テーブルの上のおかずが飛び跳ねる。箸は落下し、皿が割れた。コップが倒れて、麦茶が流れ出す。口から吐き出された真っ赤な血が、白いご飯の上に飛び散った。

 倒れこんだ悟は、微動だにしない。

 突如として訪れた非日常に、誰もがただ呆然と眺めていることしかできなかった。叫び声すらあげられない。

 さっきまで賑やかだったダイニングは、時計の動く音だけが支配している。


 ――カチッ、カチッ、カチッ。


 一番最初に声を取り戻したのは、利一だった。


「おい、大丈夫か?」


 無論、大丈夫なはずはない。血を吐いて倒れたのだ。全く動かないのだ。しかし、あまりにも突飛なことが起きると、頭が回転しないのだろう。

 隣にいた優は、利一の言葉でようやく身体の硬直が解けた。

 悟の腕を取って、脈を図った。熱が感じられない。既にその顔からは血の気が失せて、真っ青になっている。

 掴んだ手首はいくら時間が経っても、ピクリともしない。


「駄目だ、脈がない」


「どういうことなの? 悪い冗談か何かでしょう?」


 状況が呑み込めない綾子は、現実逃避をしようとしている。


「兎に角、救急車と警察に連絡しないと」


 優が電話に向かおうとするのを、清彦が腕を掴んで制した。


「おい、何考えてんだ。警察なんか呼んでみろ。家を調べられて、俺たちは話を聞かれるんだぞ? それでもいいのか?」


「じゃあどうしろってんだ? 救急車は?」


「どう見ても必要ないだろ。手遅れだ。もう死んでるよ。殺されたんだ」


 清彦は冷たい目で悟の亡骸を見下ろした。「死んでる」という言葉で、ようやく事態を把握した亜美が叫ぼうとしたのを、清彦が口を押えてなんとか黙らせた。


「ここで騒いだら一巻の終わりだぞ。せっかくここまで来たっていうのに、こんなことで終わってたまるかよ」


「一体誰が、誰がやったのよ」


 清彦の手を口からどかした亜美が言う。


「それは知らないが……あの脅迫状の通りになったな。悪戯なんかじゃなかったんだ」


「脅迫状は、この中の誰かが書いたんでしょう? だったらその人が犯人じゃない。誰なのよ」


 清彦と亜美は、優と彼の両親を交互に見ながら、彼らを問い詰めるように言った。自分たちは犯人でないとアピールしたいのか、彼らを犯人に仕立て上げたいのか、その目つきには疑惑の念がこもっているように見える。

 利一はまだ呆然として悟の死体を見つめたままでいる。綾子のほうは眼を宙に泳がせて、あたふたとその場を右往左往していて、とても彼らに答える余裕はない。

 仕方なく優が言った。


「まだそうと決まったわけじゃないだろ。家族を疑うのはやめてくれよ」


 優は利一の肩を掴んで揺さぶった。するとようやく、我に返ったようにはっとした表情で優を見返した。幾分か、その顔色は良くなっているようだ。


「親父、警察呼ぶんだよな?」


 清彦が何と言おうと、優にとってはここでは父がリーダーだ。彼は利一の指示に従うつもりだった。

 その利一は先ほどよりはだいぶ落ち着いたようで、息を整えるとしかしゆっくりと首を振った。


「駄目だ。警察は呼べない」


 その言葉に、清彦はそれ見たことかと優を見下すような視線で一瞥した。しかしそんな清彦に構わず、優は利一に詰め寄る。


「そんな……。じゃあ、悟はどうするんだよ」


「いいか、みんなよく聞いてくれ。大事な話だ。

 まず、ここを片付けろ。悟の使っていた食器は、洗ってから捨てろ。食べかけのものも処分だ。それから、死体を捨てに行く」


「捨てにって、どこへ?」


「近くの人気のない山とか、とにかくばれない場所だ。庭だと臭いで気付かれる可能性があるからな。抜け駆けはされたくないから、全員で埋めに行く。人目に付かない様に、夜が更けるのを待って出かける。準備が整ったら、時間まで各自待機だ」


 既に利一はいつもの顔つきに戻っていた。疑り深く慎重でありながら、テキパキとした指示を下す。殺人を隠蔽しようとしているにもかかわらず、異を唱える者はいない。

 冷静な父の姿を見ていると、優も次第に荒くなっていた息や、早鐘を打っていた心臓が、いつもの状態に戻ってきた。火照った頭が徐々に冷まされているのを感じる。

 そうしてようやく優も、まともな思考回路を取り戻した。

 身近な人間――とりわけ、生まれてから今の今まで、ずっとそばで共に暮らしていた人間――の死というものを目の当たりにして、優の脳は思考を停止してしまった。

 どうしていいかわからず、ただ人が倒れたから警察を呼ぼうと考えたが、清彦に止められて手持ち無沙汰になってしまっていた。

 利一が再び場の支配権を得ると、何も考えずに、言われた通りにことを進めた。それが今できる、最善の方法だったからだ。

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