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終焉

 静まり返った赤屋家の自室に、優は未だ籠もっていた。

 出て行くタイミングがない。

 さっきまでは、足音や騒がしい格闘でもしているようなドタバタとした動きがあった。だが、今や物音一つしない。耳鳴りがうるさいほどに何の音もしないのだ。


 あの時、突然清彦が何かに気付いて、バタバタと忙しなく階下に行った後、玄関の戸が開く音がした。

 誰かがやってきたようだった。女性の声が聞こえていたが、そのうちにしなくなった。犯人に殺されたに違いない。

 その後、再び玄関のドアが開く音がすると、誰かが階段を上り下りしたり、廊下を歩いていたりするような音が聞こえていた。音が鳴る度に、びくびくと身体を震わせて怯えていた。

 そのうちに部屋の扉をこじ開けて中に入ってくるのではないか。

 そう思えてならなかった。こんなバリケード、やろうと思えばぶち破ることだって不可能ではない。

 急に不安になって、優はさらに頑丈に防塞を固めた。

 清彦はああは言っていたが、優は清彦を最も疑っていた。


 仮に犯人でなかったにしろ、何か企んでいるのは確かなのだ。清彦は頭が切れる。俺を陥れようとしていることも十二分に考えられる。

 亜美とは仲のいい夫婦だ。あの文言は俺を誘いだして、二人で不意打ちをかけるつもりだったのかもしれないのだ。


 それから暫くして、また玄関の戸が開く音。足音は階段を上り、直後、凄まじい落下音が聞こえてきた。それまで静かだった空間に、それはまるで、近くに雷でも落ちたような轟音となって響いた。

 そしてその後を追うように、階段を降りる足音。

 嵐が過ぎ去った静けさが訪れた。

 しかし、平穏ではない。波はなくとも、見えない海面下に、獰猛な捕食者が今か今かと舌なめずりして待っているのだ。

 心臓の鼓動が耳にまで聞こえる気がした。

 布団を被って時が過ぎるのを待とうとした。

 しかし、今は真夏。

 エアコンもない部屋。おまけにバリケードのために完全に閉め切られた部屋だ。じめじめとした、まとわりつくような淀んだ空気が支配している。

 玉のような汗が溢れた。不快指数は既に限界を振り切っている。

 水を予め持ってきておいたのは良かったが、想像以上に体力が消耗される。身体全体が重くなって、動かすのも一苦労だ。

 部屋の空気は全く動いていない。

 風に当たりたい。

 しかし、静かだ。これでは外がどうなっているのか、予想がつかない。

 もしかしたら既に、ここに残っているのは殺人鬼と自分のだけなのかもしれない。

 気味悪いほど静かなので、優には外の様子が気になって仕方なかった。


 出よう。ここにいてもキリがない。

 行くあてなんてない。だが、ここよりは安全だろう。


 優は遂に決心した。

 機動力を確保するために、荷物はなるべく少なくしておこうとは思ったのだが、いざ選ぶとなるとかなり迷った。どれもこれも、今の優には必要なものだ。

 どうにかこうにかバックパック一つに収まる程度までに絞ることができた。

 出て行く前に財布を確認する。


 わかってはいたが、中身は寂しいものだった。福沢諭吉がたったの二人。これでどれだけ持ちこたえられるだろうか。


 自室のドアノブに手をかける。

 耳を澄ました。


 何か、何か聞こえないか。せめて現実に戻る前に、状況を知っておきたい。

 

 しかし、やはり部屋の外からは鼓膜を揺さぶるような波はやってこなかった。

 もう一度、ドアノブを強く握りしめた。

 息を深く吸い込んで、どうにか平静を装うとした。もちろん、どれだけ深呼吸をしたところで、心臓は破裂寸前だったが。

 肺の中の空気を、全て出し切ると遂に優は扉を開けた。

 最初は細く開けて、隙間から外を覗いてみた。

 一見したところ、いつも通りの我が家だ。

 廊下の先に階段があるが、電気がついていないせいで暗くてよく見えない。しかし、少なくとも誰もいないようではある。

 周りに目を配りながら、徐々に扉を大きく開けていって、ようやっと部屋を出た。中のあまりの蒸し風呂状態のせいで、かなり涼しく感じられる。息の詰まる空気とはようやくおさらばできる。

 しかし、ようやく吸うことの出来た新鮮な空気の中に、微量の鉄臭さを感じ取った。

 階段まで近づく度に、その生臭さは更に濃密になっていく。視点を下に移すと、何かが階下の廊下に落ちているのが見えた。黒い物体だ。黒の隙間から、肌色が覗いている。指。手だ。右手だと思うのだが、親指が妙な方向に曲がった状態で固まっている。

 人だ。黒い物体は、倒れた人間なのだ。ただ、俯けに倒れていて顔は見えない。

 黒い染みがその人間から廊下に広がっていて、輪郭は曖昧になって見えた。

 血だ。血を流している。

 よく見ると、階段のそこここにも、黒い染みが飛び散っている。

 優は染みを踏まないよう、注意して階段を下りたが、既に血は乾いていて、心配は無用だった。廊下の血はかなり広範囲に広がっている。


「だ、大丈夫ですか?」


 肩を掴んで揺さぶってみても、何の反応もない。


 既に死んでいるのだろうか。

 

 優は身体を仰向けにさせて、顔にかかっている、乾いた血でごわごわした髪をはらい、その顔を確認した。


「清彦おじさん……」

 

 清彦だった。顔中に打撲の跡があり、腫れた青痣で歪んでいた。歯が折れたのか、内臓が破裂でもしたのか、口から血を吐いた跡がある。

 首元から、黒い何かが不格好に突き出ていた。

 身を屈めて、それを少しばかり抜いてみる。

 

 ――ぐちゃり。


 血液やリンパや脂のような体液が浸み込んだ肉の中でそれが動いて、気色悪い音を立てた。肉の間から汚れた銀色が姿を現すと、ようやくそれが包丁であると理解した。

 胃液が逆流して、内容物が喉にまで上ってきた。それを必死で飲み込むと、酸っぱい味が口の中にも広がって、また気分が悪くなった。

 優にとっては犯人候補の一人だった清彦が、他殺死体となって発見されたのは意外だった。

 

 清彦でないのだとしたら一体誰なのだろうか。

 

 一刻も早く逃げ出したい気持ちもあったが、こうなると誰が犯人なのか気になり始めた。それを突き止めておけば、逃げる時にも役に立つに違いない。こっそり行けば大丈夫だ。

 優はダイニングの方に目を向けた。

 するとその扉の前あたりに、誰かが倒れていた。

 

 服装からして、女だというのはすぐわかった。しかし、これは……。

 

 近寄って屈んでみると、その服に見覚えがあることに気付いた。美咲の服だ。

 整った顔立ちは何かで強く殴られたらしく、潰れて歪んで、そこには原型がなかった。


 何で彼女がここに……。


 彼女は三年前の話にも、三億にも全く関係がない。殺される理由などないはずなのだ。

 となると、さしずめ様子のおかしい赤屋家を心配してやってきたところに、犯人と出くわしたのだろう。


 まだ近くに犯人が潜んでいるはずだ。


 抜き足差し足でダイニングの扉をそろそろと開けて、中を様子見る。

 誰もいない。いや、テーブルの陰に、誰か倒れている。血溜まりが床に広がっているのは見て取れた。

 慌てて近くまで歩み寄る。

 すっかり気が動転していた。清彦の死体といい、この死体といい、これで本当に、殺人鬼と自分と二人きりになってしまったのだ。

 優は死体のそばまで来て、その顔を見た。顔中が赤く染まっていたが、直ぐに誰だかわかった。今まで生まれてからずっと、ほぼ毎日見てきた顔だったのだから。

 利一だ。頭が砕けている。かなり強く殴られたのだろう。やはり酷く変形している。大きく見開かれた眼は血走っていて、まるで鬼のような形相に見えた。

 優は呼吸さえも忘れて、その場に少しばかり立ち尽くし、部屋を見回した。

 血の飛び散ったダイニングルームは、まるで異世界に入り込んでしまったように感じられて、これが本当に現実なのかと頭を抱えてしまいたくなった。


 しかし……。

 しかし、これで犯人は分かった。清彦は正しかった。やはり、犯人は亜美だったのだ。


 怒りが沸々と心の底から湧いて出てきた。


 あの女は、金目当てに俺たちを利用して、そして殺したんだ。そもそもの銀行強盗だって、あいつがそそのかしたのかもしれない。

 逃げるのはやめだ。復讐してやろう。家族を皆殺しにしてくれた、あの女に。存分にいたぶって、生きている間に地獄を見させてやろう。


 優はダイニングを漁り始めた。何か、武器になるものが欲しかった。

 そこで、思い出した。

 包丁。


 清彦の首に刺さっていた包丁だ。あれを使おう。


 ダイニングを出ようとしたその時、顔に何かが飛んできた。咄嗟に避けようと身体が反射的に動いたが、間に合わなかった。

 もろに顔面に攻撃を喰らい、後ろに吹っ飛んだ。頭をテーブルの脚にぶつけて、無様に床に倒れた。

 目を開けようとしたが、額から流れ出た血が入り込んできて、刺すような痛みが走った。

 足が近づいてくる。一歩、また一歩と、足は近づく。

 妙なところをぶつけてしまったのか、首を動かそうとしても、酷い痛みだけが刺激してくるだけだ。

 既に生き残っているのは、優と亜美の二人しかいないのだから、犯人は亜美に間違いはないのだが、自分の目ではっきりと確かめたかった。

 だが、視界に入っているのは下半身だけ。顔は見えない。

 手に持っているのだろう、金属バットの先が視界に入る。そこに着いた血がぽたぽたと床に垂れる。しかしそれも一瞬の事だった。すぐにバットは見えなくなった。

 振りかざしたのだ。

 逃げようにも、身体は緩慢な動きしかしてくれない。とても避けきることなどできそうもなかった。死を覚悟はしていた。

 それでも、ほんの僅かな生への希望に託すため、優は身体を捻って、テーブルの下に逃げ込もうとした。

 しかし、


「くたばれ」


 殺人鬼が放ったその一言で、優の動きはピタリと止まった。


 どういうことだ。これは。


 優にはわけがわからなかった。


 犯人は亜美じゃないのか。誰だ、お前は。


 どこかで聞いたことがある声だった。だが、亜美の声ではない。

 何とかその顔を見ようと、必死で首を動かそうとしたとき、二度目の衝撃が頭に加わった。

 もう何も、考えることができなかった。世界が遠ざかっていく。


 その中で、まるで走馬灯のように、今までの光景が脳裏に蘇った。辛いことはあっても、楽しかった日々が次々に現れては消えた。

 不意に、詐欺に騙されてから、一変した生活も現れた。そして三年前の銀行強盗も。そこから先は、嫌な思い出ばかりがぐるぐると頭に浮かんで消える。

 そして、あの声だ。

 殺人鬼の声。

 やはり一度犯人を見たことがあった。


 あいつが犯人だったんだ。しかし、何故。


 痛みが薄らいでいく。呼吸の間隔はどんどんと長くなり、最後には止まった。

 真っ暗な世界に、優は取り残された。

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