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暴走

 夕食を終えた間宮家では、リビングで家族三人でのんびりテレビを見ていた。番組を見ながら、他愛もない世間話で笑いあっていた。

 丁度CMに入ったところで、美咲は両親に尋ねた。


「最近さ、悟くん見ないんだけど、何か知ってる?」


「さあ……、言われてみれば、ここ数日は会ってないわねえ」


 美咲の母、麗香れいかは視線を宙に泳がして、記憶を辿るように答えた。


「お父さんはどう?」


 美咲は父の貴人たかひとに向き直って訊く。


「うーん、俺は何も知らないなあ。赤屋さん、最近ちょっと付き合い悪くなっちゃったし……。美咲、お前なんか気に障る事でもしたんじゃないのか?」


 貴人は意地悪そうに笑った。あまり真剣に考えてくれているわけではないようだ。

 しかし、そんな貴人の様子を見ていると、美咲の気持ちは少し緩んで、口元が思わず綻んだ。彼女は貴人を小突く。


「もう、そんな事するわけないでしょ? 真面目に答えてよ」


 その時、会話を遮るように隣の家から怒声が聞こえてきた。たまたまテレビから音が途絶えたタイミングだったので、その声ははっきりと耳に届いた。家主の利一の声であることはわかったが、普段の威厳ある怒鳴り声とは違って、かなり頓狂なものだった。それから、まるで乱闘でも起こっているように、皿か何かが割れる音が聞こえてきた。


「どうかしたのかしら?」


 麗香が隣家のほうをちらと見た。


「ちょっと私見て来ようか?」


 そう言って立ち上がろうとした美咲を、貴人が制した。


「いや、今はやめといたほうがいいんじゃないか? 何があったか知らないが、他の家庭のいざこざに俺たちが入り込むと余計にこじれるだろうし。もうしばらく様子見てからにしたほうがいいと思うが」


「……それもそうね」


 それで騒ぎが収まってからさらに十分ほど待って、美咲は赤屋家に出向いた。

 

 やはり何かが起こっているんだ。あの家で。


 赤屋家の玄関まで来ると、美咲はまたあの妙な胸騒ぎを感じた。

 呼び鈴を鳴らそうとした指先が震えていた。

 しかし、鳴らしても何の返事もなかった。明かりは点いているから、誰かはいるはずなのだが。

 さらに呼び鈴を鳴らす。応答はない。鳴らす。無言。鳴らす。無言。

 胸騒ぎは余計に酷くなり、限界に達した。

 美咲は無我夢中で、ドアを開けようとした。鍵はかかっていない。立てつけが悪いのか、力を入れてようやく扉が不愉快な音を響かせて開いた。

 目の前に、清彦が立っていた。


 *


 美咲は清彦の顔を見ると、申し訳なさそうに、軽く会釈をした。


「すみません、さっきは何か騒がしかったので、何かあったのかと思って、見に来たんですけど。鍵が開いていたので……その、どうかされたんですか?」


 美咲の視線は、清彦の顔から徐々に下がっていって、腕のところで動きが止まった。眼を見張った彼女の顔が、少し青ざめる。清彦も不思議に思って、その視線を追った。

 亜美の身体を触った時についた血だ。


「あ、ああ、これね。亜美が階段から落っこちて、大怪我しちゃってね。そこも血で大変なことになってるんだ」


 清彦はうまいことスコップを隠しながら、背後の廊下の血だまりを指さした。


「大丈夫なんですか?」


「今その応急手当てをしてるんだけど……そうだ。ちょっとお願いがあるんだけど、彼女を見ててくれないか。俺は救急車を誘導しなくちゃならないから。ほら、この辺、道が入り組んでてよくわからないだろ? ね、頼むよ」


 こういう時はいつも以上に頭の回転が速くなる。根も葉もない大嘘を、さもありげにぺらぺらと捲し立てた。


「ああ、そういうことでしたか。わかりました。任せてください」


 わけがわかると、美咲は安心してホッと胸をなでおろし、納得して家に上がり込んだ。強張っていた顔の緊張が解けている。


「どこにいますか?」


「台所だ。その廊下の奥」


 清彦は指で指し示す。先へ進む美咲の後ろについていく。


「あの? 救急車はいいんですか?」


「あ、ああ、今行くよ」


 清彦はいったん外に出たふりをして、再び彼女の背後に迫る。物音をたてず、忍び足で近づく。

 服で手の汗を拭って、スコップを持ち直す。心臓が早鐘を打つ。

 後頭部に狙いを定めて、スコップを振り上げた。


「すまない」


 本心からの謝罪だった。こんなことに巻き込むつもりはなかったのだ。彼女は運が悪かった。

 返してもよかったが、万が一にも怪しまれたら俺は終わりだ。これは仕方のないことだった。


 清彦は心の中で、自分の行動を必死に正当化した。

 その声を聞いたのか、彼女が振り返ったが、振り下ろす手を止めることはなかった。

 側頭部にスコップが直撃した。頭蓋骨の砕ける鈍い音が、廊下に響いた。

 血が跳ねた。スコップに、顔面に、壁に、天井に、床に。

 彼女は廊下に倒れた。

 しかし彼女はまだ息絶えてはいなかった。

 血まみれになり、骨が砕けて無残に変形した顔で、恨めしそうに清彦を見ると、彼に手を伸ばす。


「ど、どうして……」


 掠れた小さな声で、彼女は清彦に縋ろうとする。

 もう一度振り上げて、勢いよく振り下ろす。

 それが決定打となった。

 再び大量の血を吹き出して辺りを汚し、彼女はついに事切れた。

 やってしまったことを後悔して、スコップを床に落とす。自分の手は血まみれだ。


 しかし、ここで終わるわけにはいかない。まだやるべき事がある。


 清彦は荒ぶる息を整えて、客間に入ると真っ赤に汚れた服を着替え、顔を洗い、スコップを持って家を出た。

 流石に夜九時を過ぎているので、暗くはなっているが、周りが全く見えないと言うこともない。

 見られるわけにいかないので、注意深く観察して隣家に向かう。


 美咲が帰ってこなければ、当然怪しむに決まっている。彼女を殺したのだから、ここに住む彼女の両親も殺さなければならない。


 清彦は比較的冷静だった。少なくとも、さっき美咲を殺す前よりもずっと落ち着いていた。

 既に一人手をかけたのだ。こうなったら、二人も三人も大した差はない。

 覚悟は決まっていた。

 玄関のチャイムを鳴らし、家人が出てくるのを待つ。


「どちら様ですか?」


「すみません、隣の赤屋です。お嬢さんが先ほど見にきてくれたんですけども、話がこじれてましてね。事情をお話ししたいのですが、あまりこう、なんというか、人様に聞かれたくない話ですので、中に入れていただけませんか」


 柔らかい物腰で丁寧に、しかし少し焦った様子で話す。普通の家ならこんな話で中には通したりしないだろう。しかし、一応は付き合いのある隣人だ。


「具体的にはどうしたんですか?」


「あまり言いたくはないのですが、その、DVですよ」


 声を潜めて人目を気にしながら、清彦は玄関の向こうにいるであろう間宮美咲の母、麗香に語りかける。


「ですから、詳しい話は出来れば中でお願いしたいんです」


 するとどうだろう。ドアはすんなりと開いた。


「どうぞ」


「ちなみに今、旦那さんはご在宅ですか? 男手が必要になると思うので」


 麗香は震えるように小刻みに頷く。


「ええ。今呼びましょうか?」


「いや、まずは詳しく事情をお話しします。まず……おや、あれは何ですか?」


 清彦は麗香の死角にある、靴箱の上に置かれていた置物を指差した。陶器製の小さな人形のような、いかにもヨーロッパの伝統工芸品といった風体の可愛らしい置物だ。服には大きくユニオンジャックが描かれている。

 麗香は敏感に振り返ったが、それがただの置物であるとわかると、肩の力を抜いた。


「ああ、これですか。お土産ですよ、娘の。何でも大学の友達と一緒にイギリスに行ってきたらしくて」


 麗香はそれをしげしげと眺めていた。急に話を逸らしたので怪しまれると思ったが、存外彼女は気にしていないようだ。

 大丈夫だ。これならいける。


「そうですか」


 清彦は後ろに隠し持っていたスコップをしっかりと握って、一気に振った。野球のバッターさながらに、フルスイングで麗香の頭を狙った。スコップの先は弧を描いて、彼女の後頭部に直撃した。

 スコップが当たった勢いで、彼女はそのまま前のめりに倒れ込み、靴箱の角に額をぶつけた。麗香の口から、小さな呻き声が漏れる。

 その拍子に麗香の身体は反転して、仰向けになって玄関のたたきに倒れた。

 額からの出血はかなりのもので、顔は真っ赤に染まっていた。顔を押さえた麗香は恐怖を湛えた眼で、そびえ立つ清彦を見上げた。

 助けを呼ぼうとしたのだろう。彼女が口を開けて、流れ込んだ血で赤く染まった歯を見せる。清彦は急いで再びスコップを顔に叩きつけた。

 彼女の身体が、ビクリと大きく動いた。

 もう一度殴る。

 さらにもう一度。

 それで麗香はすっかり動かなくなった。

 もはや原型をとどめていないその顔は、ただの肉塊となり果てていた。輪郭は歪んで、鼻はひしゃげて、目も潰れている。歯は完全に砕け散って、がたがたになっている。

 清彦は二人目に手をかけたという精神的なダメージに、かなり参ってきていた。肩で息をして、変わり果てた麗香を見下ろす。

 しかし清彦には、まだやることが残されている。

 彼は靴を履いたまま上がり込むと、廊下の先に進んだ。


「おい、どうかしたのか?」


 物音を聞きつけて、間宮貴人が既に亡骸となった麗香に聞こうとする声が、奥の方からやってきた。その声は割と近い。

 恐らくはリビングにでもいるのだろう。

 清彦は足音を殺して先へ進む。

 近付くと、テレビの音が聞こえてきた。この時間にやっている人気バラエティー番組のMCの声だ。

 麗香の返事がないのを不審に思ったのか、貴人が何度か呼びかけている。しかしまだ、こちらへは出てこない。

 清彦には好都合だった。

 リビングへ通じる扉の前まで進んだ。清彦は戸をノックして、貴人の気を引く。

 中の方で、ガタガタと椅子を引く音がした。すぐそこにいるのだ。


「おい、どうしたんだ?」


 戸を開けて顔が目の前に現れたと同時に、既に構えていた凶器で貴人を殴りつける。


「うぐっ!」


 後ろに吹っ飛ばされた貴人は、リビングに置かれていた机に後頭部を強打し、そのまま動かなくなった。

 しかし、まだ息がある。僅かだが、胸が上下に動いているのだ。 


 早くとどめを刺さなくては。


 清彦はスコップを再び振りかざして、貴人の首に差し込んだ。肉にスコップの先がめり込んでいく。

 血はだくだくと溢れ出て、玄関を汚した。ぷちぷちと肉の繊維が切れる音がする。骨は流石に固く、手の力だけでは到底断つことはできそうもない。

 その時、痛みで覚醒したのか、貴人が苦悶の表情を浮かべながら、必死に抵抗しようと身体を動かす。

 テレビから流れてきた、この場には不釣り合いな笑い声。清彦はそれにつられて笑みをこぼした。

 貴人にはその顔が、悪魔のようにでも見えたことだろう。

 硬い土を掘り起こすように、足を使って全体重を乗せる。彼がその腕で清彦の足を掴むのと、彼の首が切断されるのと、ほぼ同時だった。

 身体から切り離された頭が、ごろりと清彦に向いた。憎々しげに清彦を見つめている。まるでまだ魂が頭に居残っているようだ。

 清彦は未だに脚にしがみついている腕を解こうとしたが、思いのほか強い力で掴まれていて、振りほどくのも一苦労だった。


 しかし流石にここまでする必要はなかったか。


 やり終えてから、清彦は自分の犯した残虐な行為を客観的に見て、少し冷静になることができた。というより、どっと疲れが溢れ出て、昂ぶっていた感情が薄れていったようだった。

 さっきまでは、場の雰囲気に完全に飲み込まれていた。血の香りに興奮して我を失い、自分でも思いもよらない残虐な行為をしてしまった。

 貴人の血で、白で統一された小奇麗なリビングはどす黒く染まっていた。

 さっきまでこの部屋で、テレビを見ながら家族団欒のひと時が過ごされていたのだろう。しかし今や、この部屋で音を立てているのは、そのテレビだけになった。


 これでもう、邪魔は入らないはずだ。


 手にしているスコップに目をやると、力強く叩きつけていたせいで、かなりぼこぼこに歪んでしまっている。折角だったので、台所から包丁をくすねて、適当に服を借りると着替えて間宮家を出た。


 死体の処分はあとでまとめてやればいい。まずは亜美を殺すのが先だ。


 見られては困るので、玄関には鍵をかけておく。急いで赤屋家に戻ったが、静かなままだった。廊下の奥には美咲が倒れている。やはり亜美の姿はない。


 今もあいつがまだ包丁を持っている可能性が高い。どこかに身を潜めて、俺を殺すチャンスを窺っているのだ。

 もう一度優に説得を試みてみるべきだ。協力関係は築いておくに越したことはない。

 利一はどこへ行ったか知らないが、酩酊状態の彼には何を話したところで無駄だろう。

 

 清彦は二階に上がり、優の部屋に向かおうとした。その時だった。

 階段を上がりきるや否や、陰から誰かがぬっと眼前に姿を現した。

 驚いて仰け反ったところへ、左から包丁が飛んできた。

 バランスを崩して、身体は思うように動かない。避けようにも避けられなかった。

 包丁は清彦の首に突き刺さった。

 そのまま、人影は清彦を胸を小突いた。

 それだけで十分だった。既に不安定な体勢だった清彦の身体は、奈落の階段の下へ転げ落ちていった。刺さった包丁は壁にぶつかる度に更に深く刺さっていく。

 足の骨が折れてあらぬ方向へ曲がり、折れた肋骨は内臓に刺さった。喉元にまで上ってきた血が、口から勝手に吐き出た。

 清彦の身体は一階の廊下の壁にぶつかって、ようやく動きを止めた。

 しかしながら、いつまで経っても清彦は微動だにする事はなかった。

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