名前のない郵便
うだるような暑さだ。
両手には重い買い物袋。
赤屋優はふらふらとした足取りで、喘ぎ声をあげながらスーパーからの帰路に就いていた。
家にいても退屈だし、つい嫌なことばかり考えてしまって気分が滅入る。それで本屋にでも行こうかと思ったのだが、そのついでにと買い物を頼まれてしまったのだ。
彼の母である綾子曰く、夏休みになってから、食料の減るペースが増えたらしい。
弟の悟は部活でかなり運動して帰ってくるし、優自身はこの暑さで、外へ食べに行く気力もない。そもそも、そんな金もない。だからそれも無理のない話だ。
拭っても拭っても、次から次へと汗が吹き出てくる。垂れてきて口に入る塩辛い汗。服が肌に張り付いて気持ちが悪い。アスファルトの路面には、陽炎が立ち上っている。照り返された熱気で眩暈を起こしかけた。
天気予報では今日も四十度近い気温になると言っていたことを思い出して憂鬱になった。八月に入ってからは一層暑くなり、猛暑日の連続。太陽も少しは手加減して貰いたいものである。
姿は見えないが蝉の騒がしい鳴き声が、不快感をより一層際だたせる。
まさしく夏真っ盛りだ。
家の前まで来ると、外にいる間は忘れられていた記憶が嫌でも蘇ってきた。赤屋と書かれた表札が忌々しくさえも思える。
溜息が口をついて出た。
俺は未だにここから逃れられないんだ。そしてしばらくは、このままなんだ。
一度袋を地面に置いて、痛くなった手を振った。鬱血していた指先に、血が巡っていくのを感じる。
そこへ、隣の家から出てきた女性に話しかけられた。
「あ、優くん、買い物? すごい汗だね」
「ああ、これ? 本屋に行くついでに頼まれて、このザマだよ。美咲は、これからどっか行く感じ?」
彼女は優の隣に住んでいる間宮家の一人娘、美咲だ。優より一つ年上の、いわばお姉さん的存在。
「私はこれから大学の友達とカラオケに行くんだ」
美咲は優とは違ってかなり活動的だ。たとえ夏休みでも家には殆どいない。バイトにサークルに恋愛に、大学生活を満喫してるというやつだ。
対して、元来人見知りな優は、サークルには入ったものの話が合わずに結局幽霊部員。バイトも最初のうちはやっていたが、面倒くさくなって辞めてしまった。そんな優に親も口うるさく叱りつけていたが、無視を決め込んでいたら諦めたのか、いつの間にか何も言わなくなった。
そもそも優は、一人暮らしをしたかった。その手始めとして、バイトを始めたのだ。それだというのに、両親は一人暮らしを認めてはくれなかった。
受験当時はそこまで一人暮らしに固執していたわけではなかったので、近場の大学に進学してしまったから、わざわざそうする理由もないのだ。それに金に困っている赤屋家では、仕送りなどできないし、優のほうも、ずっとバイトしているわけにもいかないから、生活費をすべて自分で捻出するのは無理だとわかってはいた。
結局今では休みの日は独りで書店に出かけるか、家に籠もって本を読んだりテレビを見たりといったことばかりしている。
「じゃ、電車の時間あるから、私行くね」
そう言うと、彼女は優のやってきた道を歩き始めた。
美咲が優とも悟とも年が近いので、間宮家は赤屋家とは前々から付き合いがあった。彼らがまだ小さい頃は、一緒に遊んだりはもちろん、よく両家勢ぞろいでバーベキューやスキーにも行っていた。しかし流石に年頃になると、異性だということを意識し始めて、それ以降子供同士で遊びに行くことは少なくなった。それでも親のほうは相変わらず仲が良く、暇があればお互いの家に出向いて、無駄話をしていた。
だが、あんなことがあって、三年前からそれもまためっきりなくなってしまった。
あんなことさえなければ、俺だって家を前にしてこんな感情にはなったりしないはずだ。
嫌な気分を振り払うように頭を振って身体を伸ばす。庭にあった悟の自転車が無くなっていることに気付いた。
部活にでも出かけたのだろうか。
悟は高校三年生だが大学への進学はせず、そのまま就職するため、今も所属している野球部の活動に勤しんでいる。
悟曰く、強豪の高校というわけではないから、大会では早々に敗退してしまうのがオチなのだが、今年は一年生でかなりの強者が入部したらしく、少しは期待ができるらしい。悟自身下手というわけではないのだが、元々気が弱い為に試合となると緊張して、ミスを連発してしまう。そのせいで補欠止まりなのだ。
買い物袋を持って、家の中に入ろうとしたとき、郵便ポストから茶封筒がはみ出ているのに気付いた。取り出して見てみたが、大判の茶封筒には宛先はおろか、差出人も郵便番号も住所も、何も書かれていない。妙だとは思いつつも、それを手に家に入った。
玄関の扉は少し力を入れないと開けられない上に、開閉すると大きな音を立てる。先の大地震で地盤沈下を起こし、立てつけが悪くなってしまったのだ。幸いにも影響があったのは玄関だけで、修理する金もないので今もそのままになっている。
「ただいま」
「おかえり」
どさりと玄関に買い物袋を置くと、奥のほうから声が聞こえてきた。赤屋清彦の声だ。
清彦は、優の叔父にあたる人物で、わけあって三年前から彼の妻である亜美と一緒にうちに居候している。一応親戚ではあるが、それまで付き合いという付き合いは殆どなく、最初のうちは他人が家に居続けているような感覚で、優は正直落ち着かなかった。夕食のときは一緒に食事をするのだが、どうにもぎこちない空気で、飯が不味く感じられた。しかしやってきた二人の方はというと、それほど気にする様子もなく、むしろ我が物顔で家に居座っていた。
結局、優が彼らを家族としても受け入れることができるようになるほど慣れるようになったのは最近のことだ。
清彦の声を聞いて綾子が台所から姿を現した。綾子は誰にでも優しく接する女性だ。基本的に怒ったりはしない。赤屋家において、怒るのは専ら優の父にあたる利一の仕事だ。
亭主関白な家庭だと思われるだろう。実際には、そうした古風な考えというわけではなく、単純に利一が怒りやすい性格で、それを綾子が宥めていると言うだけなのだが。
彼女は今日もいつものように穏やかな笑みを浮かべている。だが、この頃は心労が祟ってか、作り笑いのようなぎこちなさが感じられる。よく見たら眉間の皺や白髪の数も増えて、少しばかり老けた様にも見えた。
逼迫している赤屋家の家計のためにパートをやり始めて、溜息の回数も増えた。毎日のように夜遅くまで家計簿と睨めっこしている。
綾子は、手を布巾で拭きながら、
「ありがとう。暑かったでしょう。麦茶飲む?」
そう言って、重たい買い物袋を台所に運んでいった。優はそのあとに続いていって、茶封筒を台所のテーブルに置いた。
「なんか郵便来てたよ」
「本当? 何かしら」
綾子は麦茶をコップに注いで俺に渡すと、その封筒を手に取って訝しげな顔をした。
「やだ、なんにも書いてないじゃない。変ねえ」
言いながら封を切る。
「悟は部活?」
優は貰った麦茶を一気に飲んだ。からからに乾いた喉にとっては、それはまさに恵みの雨。キンキンに冷えていたから、頭に鋭い痛みが走った。
「そうみたい。練習もこんなに暑いのに大変よねえ。まあ、もうすぐお盆だし、そうしたら少しは休めるんだろうけど。それよりも、あんたもちょっとは運動でもしに行ったら?」
そう言われて、優は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「もう十分やってきたところだろう? 勘弁してくれよ」
「本当に体力ないんだから」
大袈裟に肩を竦めて口を尖らせると、それを見て綾子は笑った。
幼い頃から、運動が苦手だった。走るとすぐに息が切れるし、足ががくがくしてしまう。そんなものだから、小学校の頃から体育だけは最低評価だった。
そんな虚弱体質のせいもあって、家計を助けるために高校を卒業して就職、ということも難しかった。利一もそんな優の事を考えてか、かなり無理をしたものの大学へ進学させた。優自身もそんな父の思いを察して、地元の国立大学に成績優秀者として入学し、奨学金も貰うことができ、思ったよりは、まだ楽に生活できている。
その時、封筒から紙を取り出した綾子が、短い悲鳴を上げた。
全身が脱力してしまったかのように、手から封筒と紙がすり抜け、その場に膝からくずおれた。
落ちたときに、封筒からカードが一枚飛び出した。長方形の、表に絵と文字が描かれたカード。
タロットカードだ。
上にはローマ数字で十八が、下には『THE MOON』と記されている。カードの中央より少し上のあたりには、大きな黄色い月――月とは言ったが、沢山のとげがついていて、太陽のようにも見える――があり、それを犬と狐、そしてザリガニが拝んでいる。
「嘘よ……。嘘よ」
「どうしたの?」
声をかけても上の空と言った様子で、反応してくれない。嘘、嘘とうわ言のように繰り返すばかり。眼は宙を泳いでいる。肩を揺さぶって正気に戻そうとしていると、騒ぎを聞きつけた清彦が台所に現れた。
「おいおい、どうしたんだよ」
床に落ちた白い紙に目を奪われた清彦は、それを拾って読むと、見る間に顔から血の気が失せていった。わなわなと身体を震わせ、紙を握る手に力が入っている。
何が書いてあるのか気になった俺は、一旦母から離れて清彦の手元を覗き込んだ。そしてそのまま固まった。ぞくりと背筋に寒気が走る。瞬時に恐怖を感じた。
紙には雑誌や新聞から切り取られた文字が貼られていた。それぞれフォントや色や大きさのバラバラな文字。片仮名と平仮名が入り混じった、統一性のない文章。無機質で感情が感じられないそれは、気味の悪いものだった。
『お前らがヤったことは知っテいル。悔い改メなケれば誰かが死ヌぞ』