判断理解
人は、人を理解することはできない。それは、例えどんな間柄のどんな人間であってもだ。場合によっては己の事さえ理解できていない人間もいるようなのだから、さして不思議な事ではないと思うが。人間は他人を理解することはできない。出来たつもりになるだけだ。
俺のように地の文が読めたとしても、それは変わらない地の文を読んでも視点主が理解できるわけじゃない。ただ、読めないやつよりは判断の精度が上がるというだけだ。
予想が出来る事と理解する事は違う。理解していなくても予想することはできる。法則、経験則、方程式。何にしたって同じ事だ。それはルールを見出しているに過ぎない。言うなればクオリア。判断と理解の間には深い溝がある。それは、その事をわかっていないものには致命的なものだ。
共感も同じこと。アレだって、勘違いの賜物だ。感情そのものに同調しているだけならまだいい方で、相手の境遇から自分のフィルタを通して"理解"して"共感"しているとなると目も当てられない。それはある意味で、理解とは最も程遠い。偶像崇拝みたいなものだ。冒涜的といってもいい。だから俺は安易に同情する人間が嫌いなのだ。
憧れには幻滅がつきものだ。それは、憧れというものが見る者のフィルタに大部分が由来しているからに他ならない。見ているものが幻想であるのなら、それが消える時が来るのもある意味で当然の事だ。寧ろ、さっさと滅ぼしてやる方がお互いの為だろう。
人は理解し合うことはできない。それは理解しようという努力をしても無駄だ、という意味ではない。理解できなくても理解し合おうという努力は必要だし大切だ。それが思いやるということである。理解の放棄とは思考の放棄であり相手を拒絶する事にも等しい。
わからないからこそ、わからないことをわかった上で、わかろうとする事が必要なのだ。それは徒労ではない。ただ、勝手にわかった気になってはいけないということだ。何より、人は嘘をつくものなのだから。表に見せているものが本当に本心かは分からない。地の文でさえ、自己欺瞞かもしれない。同じものを同じように認識していない可能性さえあるのだから、理解とは妖異にできるものではない。
彼女もきっと、人を理解してはいない。理解していないことくらいは理解しているかもしれないが。
神は人ではない。異種族の精神構造が違う事に何の不思議があるだろう。それがわからないのは、余程メルヘンな思考の中で生きているのだろう。素旗も思考も変わらないのであれば、他種族として扱う必要もないだろうに。
他者に理解を求めることも、他者を理解した気になることも、結局は己の思考の押し付けに過ぎない。
勿論、俺がこうして書き綴っていることだって、押し付けるのであれば同じ事だ。俺の言葉のみで俺を理解した気になるものを俺は軽蔑する。成程、言葉を拾っていけば俺と似たものは作れるだろう。けれど、そこに誰かの主観が混じった時点で、それは俺じゃない。そして、人は己の主観というフィルタなしに何も判断することはできない。それはどうしようもないことだ。
どうしようもない事だから、せめてそれに気付いていなければならない。知っていてやるのと、知らないでやるのとでは結果は変わってくるはずだ。そうであってほしいという俺の願望にすぎないかもしれないけれど。
普段の俺と、彼女に都合の良い俺は別の筈だ。彼女が俺を理解しているのといないんとに関わらず、俺の都合でなく決まっている時点で違っている。何故なら、俺の望みと彼女の思惑は必ずではないにしろ違っているからだ。
この物語には望まぬものばかりが多くある。彼女の性格が悪いのだとか、そういうことではないのだと思う。きっと、そもそも世界がそういうものなのだ。
己の幸せを望まぬものなど不健全だ。だけど、全ての幸福は両立しないから、望みを曲げるものも生まれる。それは不幸な事だろうか?幸せは、究極的には感じ方の問題だ。であるなら、己が幸福だと思っているのなら、傍から見れば不幸でも、そいつは幸せなんじゃあないか。寧ろそれは、とても幸福な事なんじゃないだろうか。誰かの幸福と引き換えに得た不幸というのは。
君テラ面倒くさい