バレンタイン短編集
〈魔法使いの世界編〉
小さな台所で、明るい茶髪の少女――ユウカは楽しそうに手を動かしていた。カップに生地を流し込み、オーブンで焼く。焼き上がって甘い香りが広がれば、カップケーキの出来上がりだ。ケーキの香りが小さな小屋を満たしていく。ユウカは満足げにそれを台に運んだ。チョコレートの暗い色に、砂糖とクリームが彩られていく。最後にメッセージカードをつけて、それは完成した。今日は大切な人への想いをお菓子に込めて伝える日。彼は喜んでくれるだろうか。期待と不安で胸がいっぱいになった。
かちゃり、と扉が開く。ただいまの声とともに、彼――ウェールが部屋に入った。金色に輝く彼の髪を見て、ユウカは夢心地に彼を見つめた。ウェールは入ってすぐ、部屋を包む甘い香りに気づいた。何か作ったのかと問うと、秘密、とユウカはいたずらっぽく笑った。
奥に入り、ウェールが席に着くと、ユウカはカップケーキを机に乗せた。
「ウェール、大好きだ。このケーキにおれの想いを込めたから、食べてくれ」
ユウカはぐっと彼に寄った。ウェールは最初こそ驚いて青い瞳を見開いていたものの、すぐに優しく笑った。一つを手に取り、綺麗に飾り付けされたそれを見る。
「もったいなくて食べられないな」
「何言ってんだ、食べてくれない方がもったいないだろ?」
なかなか作ったものを口に運んでくれないウェールに、ユウカは焦れた。そんな彼女に、ウェールは分かっているさと笑いかけた。ウェールはカップケーキにかぶりついてみた。さくり、と小気味よい音がして、とろりとした甘さが口の中に広がる。ケーキの中にはほんのり溶けたチョコレートが入っていた。優しい味に、思わず顔が綻ぶ。
「おいしい?」
「ああ。お前は料理が上手いな」
ウェールが答えると、ユウカは得意げに笑い、彼の隣に座った。
「本当は、うまくできたか心配だったんだ」
ユウカはそう言ってはにかんだ。恥ずかしそうに視線を落とす彼女の髪を、ウェールは優しく撫でた。
「いや、大丈夫だ。お前も食べてみろ」
そう言って、ウェールはもう一口食べた。ユウカも彼に倣い、ケーキを口に運ぶ。正直にいえば、味見をする時間がなかったのだ。ユウカは自分の作ったお菓子を食べてみた。噛む度にチョコの甘さと程よい苦さが広がる。
「ちょっと砂糖が少なかったかな」
ユウカの声が落ちる。ウェールは最後の一口を食べてしまってから、彼女に向き直った。
「私はこのくらいの方が好きだ。」
言いながら、ウェールは彼女の体を引き寄せる。あごに手をかけ、自分を向かせる。青い瞳が真正面に向いたところで、ユウカの口許に彼の唇が重なった。突然のことに、息が止まる。再び彼の瞳が離れたところに現れたとき、ようやく事態を理解した。
「…ッ! ウェールッ!」
「口にチョコがついてたぞ」
抗議の声を上げるが、そう言われてしまえば何も言い返せない。恥ずかしさで顔を真っ赤に染め、まるでそれを隠すようにユウカは彼の胸に顔をうずめた。そのまま服を握りしめる。
「今日は一日離してやらないんだからな」
「…それは困ったな」
言葉とは裏腹に、ウェールの顔は穏やかだった。お互いの鼓動が聞こえる距離で、ウェールは自分よりいくらか小さい彼女を優しく包んだ。
〈歌声レストラン編〉
街道には人があふれていた。人混みの中を、少年――シェランは歩く。買ったものを腕に抱えて、これで全てであることを確認する。賑わう街道を少し逸れ、見慣れた小道に入れば、冷たい風が身に浸みた。思わず体を震わせる。暖かい光を見て、シェランは早く中に入ってしまおうと思った。小さな料理店の裏口に回り、扉を開ける。
「ただいま」
「あ、おかえり、シェラン」
厨房でせわしなく動く少女――アクアが、彼を暖かく迎えた。つられてシェランも微笑む。
「買い物ありがとう。ごめんね、お使いに出しちゃって…」
「いや、大丈夫だよ。ところで、これ」
「いつもの所に置いてくれない?」
「ああ」
シェランは頷くと、2階に上がった。買った日用品をきちんと片付けていく。作業にひと区切りできると、シェランは伸びをして下へ行った。終わったよ、と彼女に伝えれば、カウンター席に座るように言われた。言われた通り、カウンターに座る。
「外、寒かったでしょ」
そう言って、シェランの目の前に湯気を立てたマグカップが置かれた。中に注がれたココアの甘い香りが鼻をくすぐる。口を付けて流し込めば、ミルクの優しい味に包まれる。体の隅々まで暖まっていくように思われた。シェランはほう、と息を吐いた。
「おいしい…」
覚えずそんな風につぶやいていた。それを聞いて、彼女は嬉しさで頬を染める。シェランもまた、微笑んでいた。もう一口、ココアを含む。そのとき、目に見えない何かが囁いた気がした。シェランはマグカップを置き、ご機嫌に鼻歌を歌う。即興のメロディーが自然に流れてくる。
「それ、何の歌?」
いつの間にか、アクアは身を乗り出して彼の歌を聞いていた。その瞳は期待の光に満ちている。
「俺も分からない」
シェランはただそう答えた。彼女は意味が分からなかったようで、首を傾げている。先程の鼻歌はひらめいたメロディーを歌っていただけなのだ。まだ歌詞も、名前すらない出来立てのうた。困ったような顔の彼女に、でも、とシェランは続けた。
「これが、今の俺の気持ち……だと思う」
シェランは手に持ったマグカップをぼんやりと見た。そんな彼を、アクアは興味津々で見つめた。
「また歌ってくれる?」
「喜んで」
シェランは微笑んだ。アクアも彼の隣に座る。
静かな店内に、名前もないうたがゆったりと流れた。
〈狂気の魔導工学者編〉
広いリビングに、甘い香りがあふれる。そこでは一人の男性がお茶とお菓子を準備していた。よし、と意気込んで、2階へ上がる。静まり返った部屋の戸をノックする。が、相変わらず静かなままだった。再びノックするが、やはり返事はない。
「ルビネス?」
恐る恐る戸を開け、彼女の名を呼ぶ。この部屋の主は愛用の椅子にほとんど身を預けていた。腕は力なく下がり、茶髪はとりとめもなく流れている。胸はゆっくりと上下していた。どうやら眠っているらしい。その顔を覗き込んだところで、彼女の深紅の瞳と目が合った。その双眸はまだいくらかまどろんでいた。が、突如きらりと光が灯り、すぐさま体を起こす。そして、ぐっと伸びをした。瞬きする間の行動に、思わず一歩後ずさる。
「悪い、起こしたか?」
「いや、いい」
男性が謝ると、先程まで眠っていた女性――ルビネスはぶっきらぼうに答えた。そのまま散らかった机を整理し始める。
「ところで、サファイ。何か用か?」
思い立ったように、ルビネスが尋ねた。サファイと呼ばれた男性はためらいがちに答える。
「お茶の準備ができたんだ。よければ休憩しないか?」
そうは言ったものの、サファイは少し心配していた。ルビネスは作業を途中で遮られたり、機嫌が悪かったりすると受けてくれないとよく知っていたからだ。ちらと盗み見ると、当の本人は顎に手を当てて何やら思案していた。
「実験データの集計は完了した。せっかくだからもらうとしよう」
承諾の言葉を聞き、サファイの表情は輝いた。そんな彼を、ルビネスは少し眩しそうに見つめていた。
1階に下り、ルビネスはソファーに腰掛ける。サファイが紅茶を注ぐと、リビングに芳香が立った。ルビネスは紅茶を飲み、用意されたお菓子を食べる。甘いミルクティーとチョコレートは疲れた体に心地好い。
「お茶請けにしては豪華だな」
何個目かを手に取ったとき、ルビネスはふとそんなことをつぶやいた。彼女にとっては何とはない言葉だったのかも知れない。しかしサファイは何と答えるべきか分からず、言葉に詰まる。その頬はほんの少し紅潮していた。痛いほどの沈黙に、ルビネスが焼き菓子をかみ砕く音ばかりが響く。と、不意にルビネスは笑い出した。訳が分からず、サファイは何が可笑しいのかと尋ねた。が、ルビネスはすぐには答えなかった。分からない。彼女の心の動きはいつも読めない。風向きのようにころころと変わってしまうのだから。少し落ち着いたのか、ルビネスはサファイに向き直る。
「そうか、今日はバレンタインだったな」
含みのある言い方だった。サファイは少し気に食わなくて、口を尖らせた。
「あ、今俺の事女々しいって思っただろ」
サファイはふて腐れて席から離れた。ルビネスは笑みを浮かべながら彼を見遣る。
「いや、お前らしいと思っただけだ。それに――」
静かにこぼれた言葉は、サファイにはよく聞き取れなかった。聞き返しても、何でもないと誤魔化されるだけ。そんな彼女の言葉が少し悲しくて。サファイは窓の外を見つめた。
彼が離れたその時に。ルビネスは自分にささやくようにつぶやいた。
「――今のままのお前が、好きだ」