第七話 トクベツな場所
「あ、結構いい所だね」
獣道のような道に入ってから三十分ほど歩いてここについた。
ここは、先ほどまで歩いていた場所と違いとても開けていて一番端は崖となっている。多分ここから落ちたらただではすまないだろう。
僕は深呼吸をして少し湿った、しかし森の中とは違う性質の六月の空気を吸った。肺の中の空気が入れ替わるのを感じた。
いい感じに照った太陽のおかげで予想よりも空気は乾いていた。
それから、改めて僕は周りを見回す。
ここからは僕達の住む街の全体を見ることができる。素直にいい景色だな、と思えた。
下を見てみるとムラサキツユクサ、アヤメ、ドクダミなどのおとなしめの色の花が咲いている。これらの花はどこからか種が飛んできてここに自生したのかもしれない。
けれど、やっぱり僕の満足のいく特別さはない。
「や、やっと休めそうね」
少し遅れて茜がやってきた。気がつかないうちに僕は彼女をおいて行っていたらしい。
「あんた、先に進むの早すぎよ」
そう言いながら彼女はその場に座り込んだ。だいぶ、疲れているようだ。
「ごめん。それとお疲れ様、はい、これ」
僕はリュックサックを右腕だけを使って地面に下ろす。それから中を探り何本かある水筒の内の一本を取り出し茜に手渡した。
「あ、ありがと……」
何故か恥ずかしそうに茜は僕の水筒を受け取った。僕はもう一本、中から水筒を取り出してコップをはずし水筒の中身を注ぐ。
水筒の中身は普通のお茶だ。本当はスポーツ飲料水を入れたかったのだがあれは砂糖が入っているため洗うのが面倒くさくなる。
僕はコップの中のお茶を飲み干す。少し動いて水分が少なくなっていたので全身に水分が行き渡ったようなそんな感覚がした。本当はまだ行き渡ってなどいないのだが。
と、僕はまだ茜がお茶を飲んでいないのに気がついた。コップをはずしてさえいない。
「どうしたの?あれだけ歩いた後だから水分は取っておいたほうがいいよ」
「わ、わかってるわよ」
そう言うと茜はゆっくりと水筒を開けてコップの中にお茶を注いだ。お茶を飲むときもゆっくりとした動作だった。
何だか茜らしくない。
「どうしたの?なんかいつもの茜らしくないよ」
そんな僕の言葉に彼女はコップを持ったまま上目遣いに答えた。
「……ちょっと疲れたのよ。わたし、あんまり運動は好きじゃないのよ」
茜の様子がおかしいのは疲れたせいらしい。
「へえ、そうなんだ。まあ、確かに見た感じが運動好きそうじゃないからね」
茜を見ながら僕は言った。
彼女の背中まで伸ばされた黒い髪はどう見たって運動向きではなかった。もし、運動が好きなのであれば適度な長さに切っているだろう。
「わたし、そんな感じするかしら?」
茜はお茶を飲み干して水筒を閉めてから聞いてきた。
「うん。髪が長くて運動が好きっていう人はいないと思うよ。漫画や小説の世界とかじゃない限りね」
「確かにそうよね。でも、わたしこの髪、自分でも結構気に入ってるのよ」
どこか嬉しそうに笑いながら茜は自分の髪を撫でている。
「そうみたいだね。ちゃんと手入れがされてるみたいだし」
茜の髪はとてもサラサラそうで真っ直ぐで綺麗だ。手入れだけでも相当の時間がかかっているのだろう。それだけ、彼女は自分の髪を大切にしているということなのだろう。
「そうよ、毎日手入れするのも大変なのよ。でも、わたしは自分のこの髪がすごく気に入ってるから全然苦にはならないわ」
「じゃあ、今日は悪いことしたかな。さっきみたいな場所歩いてたら髪、汚れたでしょ?」
僕は茜に謝る。僕に大切なものはないが、それが汚されるというのがとても嫌だ、ということはわかる。大切、というのは言いかえれば特別、になるのだから。
「別にいいわよ。わたしがあんたについてきただけなんだから」
怒ってはいないようだった。しかし、
「で、わたしの髪を汚させてまで来たここに対する感想は?」
そんな皮肉をこめて聞いてきた。怒っていないと思ったのは思い違いだったようだ。
茜の顔は笑っているのに目は笑っていない。少し怖い。だからと言って僕は嘘をつくようなことはしない。
嘘はできるだけつかない、というのが僕の信条だからだ。
「いい場所だけど、僕の求める特別さを持ってる場所じゃないね」
茜がこれを聞いて怒ると思った。しかし、予想に反して彼女は怒らなかった。
「そうなの。わたしは結構いい場所だと思うわよ。自然にこれだけの花が咲いてる場所ってはじめて見たからわたしにとってここは特別な場所、よ」
茜は一面に広がる花を見ている。僕もこれだけの花が自然に咲いているのを見るのは初めてだった。
もしかしたら、季節ごとにその季節の花が咲いているのかもしれない、と思った。もしそうならば、季節が変わるごとに来てみるのも悪くないと思った。
「あんたの求める特別ってとっても敷居が高いのね……」
「ここまで、敷居が高くなったのは最近のことだよ。毎日見ても触れても感じても常に特別であり続ける特別。決して日常なんかに変わりはしない永遠の特別。それが僕の求める特別なんだ」
気がつくと茜がじっと僕のことを見つめていた。
「僕の顔を見つめてどうしたの?何か顔についてる?」
「ちょっと、ね。特別のことについて話してるあんたの顔ってなんか輝いて見えるなって」
僕の顔を見つめたまま茜はそう言った。茜の表情は真剣だった。
人の前でこうやって特別について話すことはほとんどなかった。別に話したくないとかそういうわけではなく聞いてくれる人がいなかったのだ。
そういえば、何度か友達にもそう言われたことがある。しかし、今の茜のように真剣な顔ではなく笑顔だった。だけどそれは、悪い意味での笑顔ではなくいい意味での笑顔だった。
人の顔を真剣にさせるほど、人を笑顔にさせるほど僕の顔はそんなに輝いているのだろうか。人にそんなことを言われるまで一度もそう思ったことがなかった。
だから、聞いてみた。
「何で、そんなふうに見えるの?」
それは友達には一度も聞かなかったことだ。その理由は自分でもよくわからない。もしかしたら、その時はそれほど興味がなかったのかもしれない。けれど、茜に輝いているといわれて興味を持ってしまった。
そして茜は僕の問いに対して呆れたように返してきた。
「わたしが知ってるわけないじゃない。まあ、でも多分あんたがそれだけ本気で特別を探してるってことじゃないかしら?」
何だかそう見られていることを知ると嬉しいような気がした。
「そんなふうに見えるんだ」
「わたしはあんたが羨ましいわ。特に苦しめられるような何かがあるようじゃないから……」
さっきとは違い少し暗いような表情で呟くように言う。顔が下に向いているから実際に呟いたのだろう。僕に聞かせるつもりもなかったのだろう。しかし静かなこの場所で彼女の呟きは僕の耳まで届いてしまった。
「いきなりどうしたの?茜の表情暗いよ」
僕の声に反応し茜ははっとしたように顔をあげる。
「だ、大丈夫よ。なんでもないわ」
言って彼女は立ち上がると水筒を僕の方へと差し出した。
「お茶、ありがと。おいしかったわよ」
僕は茜に差し出された水筒を受け取る。僕は声をかけようとしたが茜はもう僕の方は見ておらず街の景色を見ていた。
「なんか今更みたいな感じになるけどここって綺麗な景色よね」
僕は先ほどとは打って変わって明るい表情になっている茜の顔を見る。しかし、先ほどの暗い表情が僕の頭の中に残っており本心からの表情ではないような気がした。それで、この山に来る前、茜と出会ったときに彼女が暗い表情を浮かべていたことを思い出した。
そして、ふと暗い予感がよぎった。
それは茜がどこか高い場所に立ち、そこから飛び降りる瞬間。それは、五日前に彼女が学校の屋上から飛び降りたときと同じような光景だ。
僕は、もう茜は自殺などしない、と思っていた。でも、多分それは間違っていると今の僕は思う。
まだ、彼女が自殺しようとした理由を解消していない。それを解消しなければ彼女が自殺をやめることはないように思える。自殺するほどの苦しみを抱えたままの人はその苦しみがなくなるまで生き続けることができないと思うから。
口を開いて彼女が自殺をしようとした理由を聞こうとした。しかし、思うように口が動いてくれない。もし、これを聞いたことによって彼女がそこの崖から飛び降りたらどうしようかという不安があるからだ。
初めて会ったときは今すぐにでも自殺をしそう、という雰囲気があったから単刀直入に聞けた。自殺の理由を掘り返しても問題ないだろう、と思って。
しかし、今の茜にそのような雰囲気はない。今は抑えているというか抑えられているというかそんな感じだ。
そこに、自殺の話を持ち出したらその抑えられているものが溢れ出そうな気がした。だから、口が開かない。開いてはいけない、と自分が自分を縛り付ける。
そのまま、僕が口を開けずにしていると不意に茜がこちらに振り向いた。その瞬間に不安が大きくなった。まさか、という思いが広がっていく。
「和明、そろそろお昼になるから戻りましょ」
だが、予想に反して茜の口から出たのはここから戻ろうという提案の言葉だった。僕の不安が的中しなかったことに僕はほっとした。
「うん、そうだね。戻ろうか」
僕は不安を隠すようにできる限りの笑顔で答えた。うまく笑顔を浮かべられていたみたいだ。茜は特に不審がった様子もなく僕の前に立った。
「じゃあ、帰りはわたしが前を歩くわ。ちゃんとついてくるのよ」
「迷ったりしないよね」
僕は胸の中の不安を今だけは抑えたかった。だから、茜に軽い冗談を言った。
「わたしを信用できないのかしら?」
茜は少し不満そうにそう言い返してきた。
「そういうわけじゃないよ。ただ、聞いてみただけ。でも、道に迷ったって思ったら早めに言ってね。場合によってはどうにかなるかもしれないから」
「何だかいまいち信じてないみたいな言葉ね。ま、いいわ。わたしが自分の力で戻れればいいのよね」
そう言うと茜は先に歩いていってしまった。僕は小さくくすり、と笑った。何故だか彼女と接しているといつも感じることのない不思議な気分になる。
それがなんなのかはわからない。けれど、僕なりに特別さを感じるし心地よいような感じもする。
その特別さを失わないためにも僕は彼女の苦しみを和らげてあげようと思った。苦しみを消すのは彼女自身の仕事だ。
茜の苦しみを和らげるためにまずは彼女の苦しみを知らなければならないと僕は思った。その為に僕は明日学校で茜のことについて聞いて周ろうと思った。そうすればおぼろげながらでも彼女の苦しみを知ることができるような気がしたから。
「か、和明、早く来ないとおいていくわよ」
強気な、しかし少し震えた茜の声が聞こえてきた。一人で歩くのが怖いのだと僕は思った。
「わかった。怖がってるみたいだからいますぐ行ってあげるよ」
「こ、怖がってなんかいないわよ。早く来ないと本当においてくわよ」
彼女の反応が可笑しくて僕は小さく笑った。それから、僕は茜のいるほうへと歩いて行った。少しして僕は茜に追いつく。
「やっと追いついてきたわね」
そう言った彼女の声は安心したようなものだった。
「な、なに笑ってるのよ」
そう言われて自分の顔が綻んでいるのに気がついた。理由は茜の反応を見ていて面白かったからだとすぐにわかった。
「なんでもないよ」
茜にはあえて笑っている理由を教えなかった。
「言いなさいよ。気になるでしょ!」
「秘密だよ」
はぐらかすように僕はそう言って茜の前方に木の枝があることに気がついた。結構太めでぶつかったら痛そうな感じがした。
「茜、ちゃんと前を見て歩かないと危ないよ」
僕がそう言って彼女は素直に前を向いた。僕は何かを言い返してくるのかな、と思っていた。だから、茜が素直に前を向いて少し驚いた。
まあ、そこまではよかったのだが少し前を向くのが遅かったようだ。茜はそのまま額を木の枝にぶつけてしまった。
茜のぶつかった枝は見かけ同様に中身もしっかりしていたらしい。彼女が枝にぶつかったときにゴンッ、といういい音がした。
茜が後ろに倒れそうになったので僕は慌てて彼女の体を支えた。
「あいたた……。あんた気づいてたんならもっと早く言いなさいよ」
茜は自分の額をおさえながら非難がましくそう言う。目が少し涙で滲んでいるような気がする。意外と痛かったようだ。
「ごめん、僕もさっき気がついたばっかりだからさ。それよりも大丈夫?ちょっと見せて」
僕は茜の手をゆっくりとどけてぶつけた場所に顔を近づけた。
飛び降りたときにできた傷は開いていないようだった。しかし、ぶつけた場所は腫れていた。
「結構、腫れてるね。……どうしたの?何か顔が赤いけど。そんなに痛かったの?」
僕は彼女の額から少し顔を離して彼女の顔が赤いことに気がついた。
「ち、違うわよ。たぶん、気のせいよ、気のせい」
茜はばっ、と僕から離れた。確かに痛がって赤くなっているのとは違うような気がした。
「まあ、いいか。ちょっと待ってね。今から氷出すから」
リュックサックを地面に置くと三本目の水筒と何も入っていないビニール袋を出す。そして、水筒のコップとフタをはずす。それからの作業は僕一人ではできないので茜にビニール袋を渡しビニール袋の口を広げてもらう。
ビニール袋を両手で広げる茜は痛みを堪えているような状態だった。あまり待たせては悪いと思い僕はビニール袋へと水筒の中のものを注いだ。
水筒から出てきたのは無色透明の液体と固体だ。一言で言い表すと氷水である。
「それで、冷やしておいたほうがいいよ」
僕は水筒のフタを閉めコップをつけながら言う。茜は僕の言葉に従うように額にゆっくりと氷水の入ったビニール袋を近づけた。
「ひあっ!」
おそらく冷たかったのだろう。そんな声を漏らしながら驚いたようにビニール袋を離した。
そこで、僕はひとつやり忘れていたことを思い出した。
「そうだ、直接皮膚には当てないほうがいいからタオルでまかないといけないんだった。……はい、タオル」
タオルを渡そうとして気がついた。茜の顔が真っ赤になっていることに。
何故か茜は僕のことをとても恨めしそうに見ている。僕は彼女に何かしたのだろうか。
茜は無言で僕からタオルを受け取るとビニールの口を縛りタオルで覆った。そして、それを額につける。
「もっと、早く出しなさいよ。そのせいで――――じゃない」
とても小さい声で茜は何かを呟いた。前半はどうにか聞き取れたのだが後半は肝心の部分が聞き取れなかった。
「僕がタオルを出すのを遅れたせいでどうしたの?」
多分、教えてくれないだろうな、と思いながらも僕は聞いてみた。
「え?え、えっとあんたがタオルを出すのが遅れたせいで無駄な時間を使ったじゃない、って言ったのよ」
あからさまに、嘘だとわかるような嘘を彼女はついた。喋ってくれないとは思っていたのでそれ以上は何も言わないでおいた。
けれど、そうやって嘘をつかれる、というのは何故か僕を寂しくさせた。どうしてだろう、と考えてみるがわかるはずがない。単純に信頼されていない感じがするから、というのとは少し違うというのはなんとなくわかったけど。
「さ、早く戻りましょ」
ビニール袋に氷水を入れたものをタオルで巻いたもので額をおさえたまま彼女は言った。
「うん、そうだね。蛇とか出てこられたら困るからね」
「そ、その話はしないで……」
とても小さな弱々しい声で彼女がそう言ったのが聞こえた。
「だったら、早くここから抜けるしかないよね。茜、ちゃんと歩ける?」
「え?も、もしかしてさっきわたしが言ったこと聞こえてた?」
驚いているような恥ずかしがっているような表情で聞いてきた。
「うん、聞こえてたよ。僕に聞かせるつもりで言ったんじゃないの?」
「ま、まあ、いいわ。早く行きましょ」
茜は僕を引っ張るように歩いていく。本当に彼女は怖がりなようだ。今まで見てきた彼女からは想像がつきにくかった。
思い出してみればいままでも何度か茜が想像しにくい行動をとっていたことを思い出した。確か、病院のエレベーターの中で話をしてからが始まりだったような気がする。そのときから彼女は時折始めて会ったときの彼女の姿からは想像ができないような言動をしていた。
エレベーターの中で話したことの中に彼女の求めていた何かがあったのかもしれない。けど、それは考えてもわからなかった。
そう考えながら歩いているといつの間にかもとのきちんと整備された道のところまで戻れていた。茜は道に迷わなかったようだ。
その後僕達は近くのレストランで昼食を摂った後、また、僕の特別探しをした。しかし、今回の収穫は今日見つけたあの崖の上だけだ。後は特に何も見つからなかった。
僕は、彼女との別れ際、また明日学校で、と言おうと思ったがやめておいた。あのような行動をした彼女に学校は行きにくいだろうと思ったからだ。
そのかわりにお互いの携帯電話の番号を交換しておいた。僕ではなく彼女の提案だった。
家との連絡にしか使うことの無かった携帯電話に新しい番号が、家以外の番号が登録された。
僕はそれを確認すると別れの言葉を告げた。茜もそれに答えてくれた。そして、僕と茜はそれぞれの家へと帰った。