第三話 トクベツな朝
僕が目を覚ましたのは午前五時半だった。当然辺りは静まり返っている、と思ったが外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
鳥の朝というのは早いようだ。僕は普段このような時間に起きたりしないので今まで気がつかなかった。
僕はゆっくりと上体を起こす。昨日より、胸の痛みは引いていた。
そのまま僕はベッドに座るような状態になり足を床につける。下を見てみると足のすぐ横にスリッパが置いてあった。
スリッパが置いてあるということは別に出歩くな、というわけではないようだ。それとも、ただ単に置きっぱなしにしているだけなのだろうか。
このままここでずっと座っていても暇なだけだ。なので、僕は外に出ようと思った。
僕は床におかれているスリッパをはく。それから、ベッドから下りてその場に立った。折れていないだけで足にも少し損傷があったらしい。立ち上がった途端に僕の足へと想像していなかった痛みが走った。
いきなりの痛みに少しバランスを崩し倒れかける。
けれど、そこまでひどくはなかった。少し我慢をすれば大丈夫な程度だ。それを確認すると僕はゆっくりとした足取りで部屋を出た。
朝の病院はとても静かだった。周りが白いせいか無の空間のように感じてしまう。
そんな空間の中に僕の足音だけが聞こえる。部屋の中では聞こえていたはずの鳥の鳴き声も聞こえない。怖いとは思わない。しかし、この空間を歩くのに一人は寂しかった。
一度だけ誰もいなくなった学校というのを歩いてみたがその時も同じような感じだった。しかし、ここまで寂しくはなかった。
おそらくそれは、学校には様々な色があるからだろうと思う。それに、息を吸えば色々なにおいがした。壁を見てみれば様々な汚れがあり確かに何かがいた、ということを伝えていた。
誰もいなくなった校舎というのは時間の止まった場所のように感じた。
その時の僕はその特別さに惹かれていた。しかし、今ではそんなことは思わない。所詮僕の求めていた特別、ではないということだった。
逆にこの病棟はどうだろうか。息を吸えばにおってくるのは消毒液のにおいだけだ。壁を見れば汚れ一つなくとても綺麗だ。それは、何もいない。今までも、これからも誰もいないということを伝えているような気がした。しかも、朝の涼しさがそれを更に引き立てていた。
誰もいない校舎は時間の止まった場所、と僕は例えた。この白い病棟は時間が止まり空間から切り離され存在し始めたときから何もないような、そんな真っ白な世界。僕がさっき例えたような無の世界。そんなふうに感じた。
何の考えもなく僕は待合室を目指した。たぶん、この病棟よりは寂しさが少なくなるだろうと思ったからだ。けれど、本当にこちらの道に待合室があるのかはわからなかった。
だから、何分か歩いて待合室につくと少し安心した。よく見てみると待合室には誰かがいた。その人は待合室にある椅子の内のひとつに座っている。こんな時間にも僕以外に起きている人がいるんだな、と思った。
と、その人をよく見てみると桜崎さんだった。
昨日の感じから声をかけるべきか悩んだが先に彼女が僕に気がついたようで僕に話しかけてきた。
「あら、あんた。どうしたのよ、こんな早くに」
彼女の声は少し震えていた。多分、寒いので声が震えているのだろうと僕は思った。
けれど、そんな震えた声にも昨日と同じように憎しみが込められていた。
「僕は少し早く起きたから病院内を歩いているだけですよ。桜崎さんはどうしたんですか?」
「わたし?わたしは、ちょっと……ここで、時間を潰してたのよ」
嘘を考えるためなのか、ちょっと、のあとで間が空いていた。何故わざわざ嘘をつく必要があるのだろうか。
もしかしたら、知られたくなかったような理由でここにいるのかもしれない。
「そうですか……。けど、今の時期、寒いですからあまりこんな所にいないほうがいいですよ」
「それはあんただって同じじゃないっ!それに、わたしは寒さに強い―――」
おそらく、寒さに強いわよ、と言おうとしたんだと思う。けど、それは彼女の小さなくしゃみによって遮られた。
「やっぱり寒いんじゃないですか。部屋に戻ったほうがいいですよ。今の季節に引いた風邪は治りにくいっていいますから」
そう言って僕は彼女に右手でハンカチを差し出した。しかし、それは桜崎さんの手によってはたかれた。
手の甲と右腕全体に痛みを感じた。予想以上の痛みに僕はハンカチを落としてしまった。腕も足と同様に損傷を負っていたようだ。自分が思っている以上に僕の体は傷ついているのかもしれないなと思った。
桜崎さんは僕がそんなことを考えているは微塵も思っていないようだ。僕を突き放すような言葉をぶつけてきた。
「わたしに優しくしようとしてどうする気なのよ。男の考えてることなんてどうせみんな一緒だわ」
今にも叫びそうな雰囲気だが一応病院にいる人のことを考えているのか叫びはしなかった。けれど、その声の中にはあからさまな恐怖と拒絶が入り混じっていた。
「……まあ、そう思うのは桜崎さんの勝手だけどね」
本当はそうは思っていない。ただ、もっとも無難な言葉を選んだだけだった。
「あら、そう。だったらわたしの好きなように思わせてもらうわ」
そう言い残して彼女は待合室から立ち去って行った。
学校でアイドルと呼ばれた彼女だからこその悩みがあるのかもしれない。その悩みが彼女に自殺、という行動をとらせたのかもしれない。
ただ、そう思うと同時に僕は桜崎さんに嫌われてるんじゃないかな、という思いもあった。
しかし、そんなことを考えてもわかるわけがないのでそこで考えることを破棄した。そして、僕は桜崎さんの立ち去った方を一瞥してから自分の部屋を目指し待合室から出た。
僕が間違いを犯してしまったことに気がついたのは待合室から出て十分ほど経ってからだった。
部屋から出たときに自分の病室が何号室か見るのを忘れてしまっていた。考え事をしながら歩いていたので道順などまったくといっていいほど覚えていなかった。
唯一覚えていたのは階段を下ってはいない、ということだけだ。なので、今いるこの階のどこかに自分の部屋があるのだろう。
僕は扉の隣にある表札を見てみる。以前はそこに部屋にいる患者の名前が書いてあったのだろう痕跡が残っている。しかし、今は個人情報保護法などというものが出てしまったせいで部屋の横の表札に名前など書かれていない。
よって、僕には自分の部屋を見つける方法は皆無だった。僕は部屋を出たあとの自分を責めた。そうしながら、僕はこの階を適当にうろつく。けれど、それこそが最も意味のない行動だということに僕は気がついた。
仕方がないので待合室まで戻り看護師が来るまで待つことにした。というよりも、それしか方法がないだろう。
うんざりとするほど長く白く何もない廊下を僕は戻っていく。ほとんど何も置かれていないせいで永遠に続いているような錯覚に襲われる。
この廊下は一人で歩くには寂しすぎる。これは先ほども思っていたことだ。
この廊下に特別さを感じるが、好きにはなれそうになかった。そういえば、桜崎さんはこのような廊下を一人で歩いていて平気なのだろうか。
先ほど話していたときの感じでは平気そうな感じがした。しかし、彼女が飛び降りる直前に浮かべていた嬉しさの裏側の孤独感。それが、実は桜崎さんは怖がっているのではないだろうか、と思わせる。
そんなことを考えながら、僕は待合室へと戻った。
待合室へと戻ると一人の看護師をみつけた。たしか、その人は昨日僕に説明をしてくれた藤原さんだったと思う。今、藤原さんは手元の書類を見ているようで僕に気が付いていないようだ。
少し悪いな、と思いながらも藤原さんへと話しかけた。
「あの、ちょっと、いいですか?」
藤原さんは僕の声に反応して顔をあげた。彼は少し驚いたような表情を浮かべているように見えた。こんな朝早くから僕が起きていると思っていなかったからかもしれない。
「はい?……秋野さんですか。どうなさいました?」
「自分の部屋がどこかわからなくなったんです。教えて下さいますか?」
意識していないのに僕の声は困ったようなものになっていた。実際に困っているのだから仕方ないのだろうけど。
「一〇九号室ですよ。それと、朝から出歩くのもいいですがあまり無理はなさならないでくださいよ。折れてはいませんが足のほうも少し損傷しているんですよ。なんともないですか?」
看護師は昨日僕に教えてくれなかったことを言った。おそらく、こんなにも早く出歩くとは思わなかったのだろう。僕は内心で苦笑してしまう。
足の損傷については立ち上がったときに気がついていたし今はなんともない。察するにひびも入ってないのだろう。
「はい、立ち上がるときに気がつきました。立ち上がったときは痛かったですが今はなんとも感じませんよ」
「そうですか、でしたら大丈夫でしょう。……と、そろそろ他の患者の所を回ってこなければいけませんね。それでは、そろそろ朝食が運ばれると思いますので自分の部屋で静かにしていてくださいね」
そう言うと看護師は病棟の方へと向かって歩いていった。僕は自分の部屋がどこにあるのかわかってほっとしながら自分の部屋へと向かって歩いた。