エピローグ トクベツな想い
わたしと和明が出会って今日で二週間と四日目になる。今日は日曜日ということで和明の散策に付き合ってあげている。
本当は和明がどこかに行くといったのでわたしからついて行く、と言ったのだが。
和明は太陽が昇っていても薄暗いどこに続いているかわからない獣道を臆することなく歩いている。対して、わたしは今すぐにでも蛇か熊が出てくるんじゃないかって、ビクビクしている。
「か、和明、ちょっと待ちなさいよ」
わたしは斜め前を歩いている和明を呼び止める。彼はこんな道でも普通の道を歩いているときとあまりかわらない速度で歩いている。なので、彼について行くのには一苦労する。
「ん?ちょっと速いかな?」
和明は立ち止まり振り向きざまにそう言ってきた。実はわざと速く歩いているんじゃないだろうか。
「自分が速いって気づいてるんならもっとゆっくり歩きなさいよ」
わたしは少し強い口調で言う。わたしがこうやって強い口調で話すことができるのは和明だけだ。
「ごめん。歩いてるとつい速く歩いちゃうんだよね。僕が速く歩かないように手、繋いどこうか?」
そう言って和明は手を差し出してきた。
「こ、子ども扱いしないでよ」
そう言いながらもわたしは和明の手を握ってしまった。
口ではああ言ったが本当は彼と手を繋ぐことができるのは嬉しい。それに、彼と手を繋げば不思議と不安も薄れていく。
「子ども扱いしないでって言いながらなんで僕の手を握ってるの?」
手を握られた和明は苦笑しながらそう聞いてくる。わたしは本当のことを喋るのが恥ずかしいはずなのに自然と本当のことを喋ってしまった。
「あんたと、手を繋いでたら、落ち着くのよ……。そういうわけだから別にいいでしょ!」
自分で言っておいて何がそういうわけなのかわからない。それよりも、まともに和明の顔を見ることができない。
「あ、そ、そうなんだ……。えっと、行こうか」
和明もわたしの言葉で恥ずかしがっているか照れているらしい。少し喋り方が不自然になっている。
わたしはそうやって気持ちが一緒になっていることがなんとなく嬉しくなってしまう。自分の中でそんな気持ちを感じながらわたしは和明と再び歩き始めた。
そろそろ、梅雨も明け夏に入ろうとしている。そんな季節に手を繋いでいると暑くなる。
でも、それが、和明の温もりによるものだと思うと不快ではなかった。嬉しい気持ちが先行して暑さなんて気にならない。
獣道を歩いているので手を繋いでも並んで歩くことはできない。わたしよりも少し身長の高い和明の後姿をわたしは見る。
何を考えているんだろうか、とわたしは考えてみる。
和明もわたしと同じように手を繋げて嬉しいと思っていてほしい。逆に不快に思われていたら嫌だ。
けど、それは仕方ないかな、とも思う。これだけ暑いのに手を繋いでいて不快だと思わないほうが異常なのかもしれない。
だから、わたしは彼が手を繋がせてくれたことだけで満足することにした。
それからわたしたちは無言で歩く。今のわたしは歩くので精一杯だ。だから、和明はわたしのことを気遣って話さないのかな、とか思っている。相手にこう思っていてほしいというただの願望だけで思ったことだ。
「茜、ついたよ」
いきなり、和明は立ち止まるとそう言ってきた。微かに水の流れているような音がする。
よく見ると開けた場所に出たのか和明の横に並べそうな空間がある。二歩歩いてわたしはそこに移動した。
わたしの目に映ったのは川のもっとも上流。つまり、川の源泉だった。
和明は水の湧き出ている場所まで行こうとする。わたしはそれに遅れないように和明の横に並んだまま歩く。
「触ってみる?」
わたしは無言で頷いて和明の問いに答える。その直後に和明はわたしの手を放した。手を放されるというのは残念な気もした。けれど、放さなければ触ることもできない。
わたしは、先ほどまで和明に握られていた手を愛しげに数回なでる。それから、わたしはしゃがんで水に触れてみた。
その水は冷たく少し温められた手には気持ちよかった。でも、やっぱり和明の手のほうがいいな、とわたしは思った。
「どうかな?ここは」
いつの間にか和明もわたしの横にしゃがんで水に触れていた。わたしはいつの間にか和明が隣にいたことに驚きながらもそれを表に出さないようにして答えた。
「冷たくて気持ちいいわよ」
わたしの言葉に和明は少し嬉しそうな表情を浮かべる。
「でも、それにしたってよくこんなところを見つけれたわね。普通は見つかんないわよ、こんな場所」
わたしは付け足すようにしてそんなことを言った。和明がこんなにいい場所に連れてきてくれた。それだけで満足なはずだ。
それでも、わたしがこんなことを言うのは和明のことをもっと知りたいからだ。彼は彼だけの持つ特別さをいっぱい持っている。
それは、わたしが和明のことが好きだからそう思っているのかもしれない。でも、だからこそもっともっとわたしは彼のことが知りたい。知り尽くしたい。
「なんとなく、気になってこの獣道を歩いてたら見つけたんだよ」
「なに?全部あんたの気まぐれみたいなもので見付けたってそういうこと?」
「うん、そういわれればそういうことになるよ。なんだか、ときどき無性に気になることがあるんだ。何かの道だったり、本当に何もないところだったりね。それで、僕がそこにいったら大抵こういうふうに綺麗な場所に出てくるんだ」
この前は方位磁針なしで方位がわかるとか言っていたがそれと関係あるのだろうか、とわたしは考える。
そして、やっぱり彼は不思議な人だな、と思ったりする。こんなにも特別なものを持った人は今まで見たことがない。
「やっぱあんたって不思議な人よね。普通、何でもないところを気になったりはしないわよ」
わたしは、自分の思ったことをそのまま和明に言う。わたしは彼の前でなら思ったとおりに話すことができる。さすがに、好き、とかいうことはそう簡単には言えないが。
「不思議か……。自分ではそんなこと思ったことないよ。というか僕ってそんなふうに見られてたんだ」
和明は苦笑気味にそう言っている。なんだか、少し間抜けに見える。そんな和明の顔がおかしくてわたしは和明とは違う笑い方をしてしまった。
「ふふふ……」
「茜、なに笑ってるの?」
口元に手をあてて小さく笑うわたしを和明は不思議そうに見ている。
「なんか、あんたの顔がおもしろかったのよ。ちょっと間抜けだったわよ」
そういえば、最近何かがおかしくて笑ったのは和明の前だけだったというのに気がつく。わたしは和明のおかげで今ここに存在していられる、と実感した。
わたしは何気なく和明に体を寄せてみた。
和明はいきなりのことに少し驚いていたようだったがしっかりとわたしの体を受け止めてくれた。
「い、いきなりどうしたの?茜」
本当は今、この瞬間にでも和明に好き、の一言でも言っておきたかった。わたしが和明のことを好きだということを何回でも伝えたいと思ったからだ。
けど、こういう何でもない時に言おうとするのは今日が初めてだ。いきなり言って和明がわたしにとって嫌な行動を取るとは思わない。だから、言っても大丈夫だとわかっているはずだ。それに、和明がわたしのことを好きだと言う事も一昨日のことでわかっている。
それでも、なんだか好き、という言葉を言うことがひどく恥ずかしく思えてしまう。なので、結局好き、という言葉は伝えられなかった。その代わりに別のことを言った。
「ちょっと、疲れたのよ。だから、ちょっとこうしててもいいわよね」
この言葉もとられ方によっては恥ずかしいが、単刀直入に好き、というよりはましだった。
「別にいいけど、大丈夫なの?」
和明は心配そうにわたしの肩を抱く。わたしはそれが嬉しくて更に体を寄せる。
彼の顔を見てみると彼はとても心配しているような表情を浮かべていた。
「ん、大丈夫よ。だから、そんなに心配しなくてもいいわよ」
和明がわたしのことを心配してくれてるということはわたしをそれだけ想っていてくれてるということだ。それは、嬉しいことだができれば和明の心配した顔は見たくなかった。
疲れている、というのは嘘ではないが、そこまで心配されるようなものでもないわけだから、とても心配そうな表情を浮かべさせることが気の毒のようにも思った。
「そう?だったら、いいけど……」
そう言う和明の表情はまだとても心配そうな感じだった。わたしは、どうしてもその表情が見たくない。
だから、ちょっとわがままを言ってみた。
「和明、心配そうな表情を浮かべないでほしいわ。わたしはあんたに抱かれてる、それだけで嬉しいのよ」
そこまで言って自分がとても恥ずかしいことを言ったことに気がついた。雰囲気に流されて言ってしまったというような感じだ。
恥ずかしくてわたしは和明の顔を見れずに顔をそらす。
それから、しばしの沈黙が流れる。聞こえてくるのは水の流れる音ともうひとつ。それは、わたしの心臓の鼓動。それが聞こえてくることによって自分が恥ずかしがっているのだと実感してしまう。
それによって、わたしは更に恥ずかしいような、そんな感覚に襲われる。
「わかった、しばらくの間こうしててあげるから休んでてよ。もう心配したような顔はしないから」
不意に和明が口を開いた。わたしは、和明の顔を見てみたい、と思った。けれど、直視できないからチラリとのぞき見るように和明の顔を見てみた。
わたしの視界に一瞬だけ入った和明の顔は安心したような、そんな表情だった。そして、少し照れているようだった。
一瞬しか見えていないはずなのに、わたしの頭は和明が浮かべていた表情を細かく覚えていた。
たぶん、和明はわたしがそこまで疲れていないと気がついたのだろう。だから、安心したような表情を浮かべているんだと思う。
そして、照れてるのはわたしの意図に気がついたから、だと、思う。本当にわたしの予想があっていて和明がわたしの意図に気がついていたとしたらとても恥ずかしい。けど、和明が照れている理由はそれしか思い浮かばない。
いや、もしかしたら、わたし自身が気づいていて欲しいという思いがあるからそう思っているだけなのかもしれない。もし、そうだとしたら、和明はどうして照れているのだろうか。
和明の顔をじっと見たら何かわかるような気がした。しかし、少し意識してしまうと更に恥ずかしくなってしまい和明の方を全く見ることができない。
なので、わたしは、このまま抱かれたままでいることにした。
和明に抱かれているわたしの中には和明を見る勇気を持てないわたしを叱咤する自分がいた。そして、それと同時に和明に抱かれていることでとても安らいでいる自分がいた。
抱かれていると手をつなぎあっていたとき以上に暑く熱い。気温とは関係のない熱さがわたしの体を熱していく。
でも、不思議と汗はほとんど出ていないように感じる。わたしは心地よさだけに身をゆだねる。今この周りにはわたしと和明だけしかいないような感覚がわたしの頭の中を埋めつくす。木も水も地面もない本当にわたしと和明だけしかいないような。
どれほどの間わたしたちはそうしていたのかはわからない。いきなり、和明がわたしの肩から手を離してわたしの意識ははっきりとしたものとなる。
「どうしたのよ」
わたしは和明の方を向き不満さを少し声に込めて言った。
「ごめん。でも、そろそろお昼になるから下りたほうがいいかなって思ってね」
和明はすまなさそうな表情を浮かべながらわたしに腕時計を見せる。わたしは目が悪いわけではないが腕時計の方へと顔を近づける。
簡素なデザインの和明の腕時計は十一時をさしている。わたしはそれを見て驚いた。
確か、この道を歩き始めたのが九時だった。そして、いくら遅く見積もってもここまで来るのに一時間と少し。
そう考えると、わたしが和明に抱かれていた時間は一時間ほど。
「その時計、壊れてる……わけじゃないわよね」
和明の腕時計は一秒一秒をしっかりと刻んでいる。
「うん、僕も少しそう思ったよ。でも、じっさいに一時間ぐらいあの状態だったんだろうね」
和明も驚いているようだった。ただ、わたしよりも先に驚いていたようなのでわたしより驚きが薄い。
「まあ、考えてても仕方ないわね。早く戻りましょうか」
「うん、そうだね」
和明が頷くとわたしたちはどちらからともなく手を握り合った。
なんだかなんの合図もなく手が握れたことがとても嬉しかった。だから、わたしの心はとても弾んでいる。
そして、わたしはひとつの揺るぎ無い結論を出した。
わたしにとって和明はとても特別な存在でいなくなってはいけない存在。わたしが二度目の自殺をしようとしたときに和明が言った和明にとってのわたしの存在価値と同じことをわたしは思った。
和明と同じ結論がわたしの中で出たからといってわたしは嬉しいとは思わない。多分、これは偶然でもなんでもなく必然的なことだったと思うから。
何故ならわたしの中でこの結論が出たときというのは何もないところから浮かんできたというような感じとは違った。漠然とした形のものにちゃんとした形が与えられたような感じとも違った。
もとからそこにあったかのように、そこにあるのが当たり前のように結論がわたしの中にあったのだ。何で気がつかなかったのだろうと思うほどわかりやすい場所に。
今、わたしはとても幸せでこの時が終わってほしくないと思っている。そして、それと同時にこの時間は終わらないとも漠然とわたしは思っている。
理由はわからない。けど、終わったらわたしはとても悲しむ。だからわたしは終わってほしくないと、終わらないと、思う。
それがわたしの絶対の特別で彼と共有したい特別な想いだから。
fin
今回の章にて連載終了です。
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