第十四話 トクベツな感情
茜が泣き止んだときには雨はもう上がっていた。雲の切れ目から太陽の光が差し込んでいる。それが、なんだか幻想的だった。
「茜、落ち着いた?」
僕は茜を抱いたままそう聞いた。茜は顔を俯かせたままこくり、と頷いた。
時々、しゃっくりをする声が聞こえるがそれもすぐに収まるだろう。
もう、大丈夫だ、と思って抱いている茜を離そうと思ったら本人に制止させられた。
「もう少しだけ、こうして、て……」
茜は離そうとした僕の腕を両手で押さえた。大丈夫なのは表面だけで内面はまだまだ落ち着いていないのかもしれない。その証拠にまだ彼女の声はかすんでいた。
だから、力を抜いた手にまた力を入れる。今度は僕に寄り添うようにして茜は僕に体を預ける。
無言のまま数分が流れた。居心地は悪くなかった。むしろ心地よい時間だった。
「ありがとう、もう、いいわ」
先ほどよりも幾分か落ち着いた声で言う。僕はゆっくりと彼女の体を放した。その瞬間に寒気に襲われた。茜も同じなのか小さくくしゃみをした。
そして、気がついた。抱き合ったときにお互いの温もりを感じていたということを。
そうやって、気がつくのが遅れるほど当たり前にお互いの温もりを感じていた。
「服、濡れてるから早く帰って着替えたほうがいいね。風邪を引いたら困るから」
僕は雨に濡れてびしょ濡れになった自分と茜の服を見ながら言った。茜は洟をすすってから言う。
「そうね。……一緒に帰りましょう?」
言ってから彼女は僕に体を寄せて手を握ってきた。断れるような雰囲気ではなかったし断る気もなかった。
「うん、そうしようか」
僕は彼女の手を握り返しながらそう答えた。再度触れる彼女の体はやっぱり温かかった。今度はそう実感することができた。
二人で体を寄せ合いながら歩けば寒さを感じることはなかった。
「ふふ、あんたとこんなことをするなんてちっとも思ってなかったわ」
茜は恥ずかしそうに、けれどもどこか嬉しさにじませて笑う。僕も彼女とこのように寄り添って歩けるようになるとは思っていなかった。
初めて会ったときの彼女からは近寄りがたい雰囲気が滲み出ていた。けれど、今の彼女は自ら僕に近寄ってくる。とても大きな変化だ。
「うん、そうだね。初めて会ったときの茜って僕に対して結構きつかったよね。嫌われてるのかな、とか思ってたよ」
僕達は手を握り合い寄り添ったまま南棟の階段を下りている。離れたほうが歩きやすいかもしれない。
けれど、僕は離れたいとは思わなかった。それはきっと茜も同じだと思っている。
「あ、あの時は心に余裕がなかったのよ。そ、それに他の人たちとおんなじようにわたしを苦しめるような視線で見られてると思ったから。だ、だから、べ、別にあんたが嫌いであんな態度をとってたわけじゃないのよ」
茜は焦ったように僕の言った言葉を弁解するように言う。
「うん、わかってるよ」
僕は彼女の反応が面白かったので少し笑いながら答えた。
「な、なに笑ってるのよ」
「いや、ごめん、ごめん。なんか、茜の焦ってる姿が面白かったからついね」
「なによ、それ。わたしは、本気で言ったのよ。あんたに変な誤解されたくないと思ったから」
茜は少し不機嫌そうに口を尖らせて言った。僕はそんな彼女の横顔を見る。
その顔は不機嫌そうなのにどこか嬉しそうだった。
「なんで、そんなに嬉しそうなの?」
数秒の沈黙。答えを考えているわけではないと思う。けれど、何かを考えている。
僕がそう思っていると茜は更に体を寄せてきた。
「それは、あんたと一緒にいられるからよ」
その声音ははにかむようなものだった。けれど、確かに嬉しそうな響きもあった。
僕は答える代わりに彼女の手を握っている手に少し力を入れて握った。彼女も僕を握る手に少し力を入れた。
そして、今の彼女は不機嫌そうにしているのではなく嬉しそうに微笑んでいる。
本当に、彼女を失わずにすんでよかったと思う。何故なら彼女が僕の隣でこうして微笑んでいてくれるだけで僕はとても嬉しいから。
僕が彼女と出会ったときから抱いていた特別な感情、誰かを好きになる、というのはこういうことなのだと思う。
誰かと一緒に笑って、楽しんで、苦しんで、悲しんで……。
そうすることができるのが僕の抱いた感情だ。僕はこの特別は絶対に薄れないと信じる。それと同時に失いそうになったときは絶対に失わせまいと誓う。
これが、僕の見つけた僕が納得することのできる特別、だから。