第十三話 トクベツな雨
茜と雄輝、佳織が出会ってから、一週間がたった。その間に僕の腕の包帯も取れ骨折もほとんど治った。
それまでに佳織が茜を教室から連れ出し南棟で昼食を摂る毎日が続いた。昼食を買ってくるのは僕、雄輝、佳織の順番だった。
相変わらず茜から話を聞こうとする人々は後を絶たない。なので、これ以上話題性を上げないために人の多いところで僕と雄輝は茜に近づかないようにしておいた。
男女ペアで歩いている姿、というのはとても注目されてしまう。僕や雄輝自身は気にしないのだが周りの人たちはそうではないようだ。それが、周りから注目されている存在となれば尚更のことだ。
なので、僕はあまり茜の支えになることができなかった。
そのかわり、僕は放課後になり茜が教室にいないことを確認すると電話をかけていた。何故、教室にいないことを確認してからかというと茜がまだ教室にいる、ということはまだホームルームが終わっていないということになるからだ。
そんなときに電話を掛ければ彼女が注目されるということはわかりきっている。それ以前に携帯電話の電源が入っていないと思う。
だから、僕は茜が絶対に携帯電話の電源を入れている状態にあると判断してから電話をかけるようにしている。
僕が電話をしたときに話すことは大抵、その日の天気のことだった。ここ毎日曇りか雨だったのでまだ一度も星を見に行くことができていない。
午前中に晴れていることはあっても午後になると曇っている。そういう日もあった。包帯を取った翌日の今日の天気も曇りのようだ。もしかしたら、そろそろ雨が降るかもしれない。
それを確認して僕は茜が教室にいないことを確かめてから電話をかけた。
だが、コール音がいくら響いても出てこなかった。どうしたのだろうか。
コール音が鳴っているということは向こうとちゃんと繋がっているはずだ。それでも出てこないというのはどういうことなのだろう。
もしかしたら、電話に出られない状態だったのかもしれない。そう思った僕は一度電話を切る。それから、五分ほど待ってまたかけ直してみた。
今度は、圏外または電源が切れている、という音声が聞こえてきた。その瞬間、何かよくない予感が僕の中をよぎった。
胸騒ぎがする。先週の日曜日に訪れた山の奥の崖の上で茜の暗い表情を見たときと同じような感覚だ。
そういえば、ここ最近日が経つごとに茜の表情は暗くなっていたような気がした。僕が心配になって聞いてみみても笑って話をはぐらかされた。
もし、それらが今、電話が繋がらないことと関係があるのならば、今、茜がいるのはあそこのはずだ。
急がなければ手遅れになってしまう。その思いが僕の中で焦りとなり僕の体を突き動かす。
僕は焦りに身を任せて校舎の中を全力疾走で走っていた。
ほとんど速度を緩めることなく走っていたので息がとても荒れている。僕は呼吸を落ち着かせるために深呼吸をする。しかし、いくら深呼吸をしようとも呼吸が落ち着かない。
時間が経つにつれて心臓が脈打つのが速くなっていっているのがわかる。それは、全力で走ったからということだけではないだろう。
僕の予想が正しければ茜はこの扉の向こうにいる。ちなみにここは校舎の南棟の四階の更に上。屋上に出るための扉の前だ。
僕は、一気に扉を開けた。湿った空気が僕の体を包み込むがそんなことは気にしていられない。
何故なら、フェンスの前に立った茜の姿が見えたからだ。
彼女は俯くようにして下を見下ろしている。その姿を見ていると二週間前茜が飛び降りたときのことを思い出した。
「茜っ!」
僕は彼女の名前を半ば叫ぶようにして駆け寄ろうとした。
「来ないでっ!」
しかし、彼女の声によって僕はその場で立ち止まってしまう。彼女との距離は三メートルほど。
茜は僕に背を向けてフェンスを掴んだままだった。彼女からはただならぬ雰囲気が漂っている。また、自殺をする気なのかもしれない。
僕はこんなところで立ち止まっていていいはずがない。早く彼女を止めなければいけない。そう、思うのに僕の体は動いてくれない。
「和明、なんで、あんたは今回もわたしの邪魔をするのよ……」
先程とは違い茜の声は弱々しかった。彼女はフェンスを強く握り締める。ガシャリ、とフェンスの揺れる小さな音がした。
「茜、どうしてこんなところにいるの?雨が降るかもしれないから中に入ってたほうがいいよ」
なんでそんなことを言ったのかは自分自身でもわからなかった。もしかしたら、彼女が自殺をしようとしていることを認めたくなかったのかもしれない。
「わたしは、これから死ぬつもりよ。ここから飛び降りてね」
こちらを振り向いた彼女の顔はとても悲しげなものだった。そして、その顔を見たことによって彼女がこれから自殺をするのだと認めざるを得なくなってしまった。
「どうして……」
それ以上言葉は続かなかった。なぜ彼女は自殺をしようとしているのか、そう聞きたかったのに。
「やっぱりわたしには耐えられないわ。あの異常な期待の眼差しと言葉に……」
けれど、茜はそれだけで僕が何を聞こうとしたのか理解してくれたらしい。今にも消え入りそうな声でそう言ってくれた。
「だからって死ぬ必要はないんじゃないの。それが嫌ならまた学校に来るのをやめればいいんだよ」
僕は言った。学校に行かなければ何も変わらない、意味がない、という自分の言った言葉を打ち消すように。
卑怯だけれどこれで、一時的にでも茜が苦しみから逃げられるんじゃないかと思って。
しかし、茜から返ってきたのは悲痛の叫びだった。
「それじゃあ、だめなのよ!家にいてもわたしに期待を寄せる人たちは家に来るのよ!しかも、わたしにとって意味のない言葉ばかりを添えた手紙をおいて、帰るのよ!どこにいたっておんなじよ!」
茜の叫びが終わると同時に雨が降り始めた。それは土砂降りの雨で僕と茜はすぐに全身が濡れてしまう。
そして、僕はこの雨が茜の心を映し出したもののように感じた。
僕は今まで雨を見てきて雨は心の汚れを洗い流してくれるようなものだと感じていた。けれど、この雨は違う。
この雨では心の汚れは流れ落ちない。ただ、汚れもしない。この雨は涙のように感じた。苦しみに耐える茜の心が悲鳴と同時に流すような涙に、だ。
彼女は退院した後から苦しみと戦っていたのだ。だから、彼女は僕と出かけたとき一瞬暗い表情を見せた。
絶望していたかもしれない。どう足掻いたって苦しみから逃れられないことに。だから、彼女は今、再度自殺をしようとしている。
だったら、そこまで苦しむ前に僕に教えてほしかった。そして、彼女の苦しみを安易に考えていた自分を責めたくなった。
けれど、今はそんなことをしている暇はない。何でもいいから彼女を止めなければいけない。
「そこまで、苦しんでるのに何で僕達にその苦しみを教えてくれなかったの!自分一人で抱え込んでどうにかできるようなものじゃないのに!」
僕は叫んでいた。自分自身でも驚いている。こんなに声を荒げるなんて思わなかった。
茜も同じように驚いていたようだ。けれど、その表情はすぐに歪み彼女の顔は泣きそうなものになる。
「あんたに心配そうな顔をして欲しくなかったのよ。あんたはわたしを普通の人としてみてくれたわ。それは、佳織や雄輝も同じよ。すごく、嬉しかったわ……」
雨の音に消え入りそうなほど小さな声だった。それでも僕の耳にはその声がはっきりと聞こえた。
「だったら、教えてよ!僕だって茜が暗い表情をしているのを見たくなかった!だから、ずっと僕は茜の苦しみが知りたかったんだ!」
僕の心の中で特別な感情が大きく渦巻く。自分では抑えきれないほどに。そして、その感情は茜を救いたいという想いへと変わっていく。
「あんたや佳織や雄輝はわたしの心を救ってくれたわ。だから、わたしは今もこうして生きてるのよ。だからこそ知られたくなかった……。特にあんたには絶対に知られたくなかった……。わたしがあんたの心配する顔なんて見たら絶対……」
そこで茜は一旦言葉を切った。彼女の頬を伝うのは雨かそれとも涙かはわからなかった。けれど、茜の表情は悲痛で塗りつぶされていた。
再度、茜が口を開いたときその声は叫びへと変わっていた。
「絶対、わたしの心が潰れてたわ!あんたの心配する顔なんて絶対に見たくなかったの!あんたがわたしにとって一番の心の支えだったわ!あんたさえ見れていればわたしは満足のはずだった!」
その叫びは僕の中の特別な感情と結びついた。そして、特別な感情が浮き彫りとなり僕でもそれが何の感情かがわかった。これは――。
「でも、やっぱりわたしには耐えられなかったわ。周りの人の声はわたしにとって重すぎたわ。ごめんなさい、和明。短い間だったけれど楽しかった、わ……」
彼女の顔に浮かんでいたのは悲しいまでに完璧な笑みだった。そして、茜は僕に背を向けフェンスと向かい合う。
あのフェンスを乗り越える前に茜を止めなければいけない。彼女を失ってしまうと思うと、僕の特別な感情が叫び始める。失ってはいけない、と。
その特別な感情が何かは僕にはもうわかっている。
だから、僕はフェンスを登ろうとしている彼女のもとへ走り寄ると後ろからその背を抱きしめた。そうすると彼女の体が震えていることがわかった。
僕は彼女の体の向きを変え僕のほうに向かせた。
「茜!僕の前から消えようとしないで!」
僕は自分の感情のままに叫ぶ。
「僕は今になってようやくわかったんだ!茜が、君が僕にとってどういう存在かということが!」
茜は驚いたような表情を浮かべて僕の顔を見つめている。
「君は僕にとって大切な存在なんだ!絶対に失いたくない!手放したくない!そんな存在なんだ!」
僕はそこで言葉を切って大きく息を吸って茜に一番伝えたかったことを叫んだ。
「僕は君のことが好きだ!だから、死ぬなんて考えないで!」
それが僕にとって精一杯の言葉だった。これで、僕の伝えたいことは彼女に伝えた。これ以上僕は彼女に伝えることはない。
僕の言葉を聞いた彼女の表情が少しずつ歪んでいく。涙とも雨ともつかない水の雫が彼女の頬を伝う。
そして、彼女は僕の背中に腕を回して抱きついてきた。
「わ、わたしも……あんたのことが、好き……よ」
嗚咽を漏らすのを堪えながら喋っているのか彼女の声は途切れ途切れだった。
僕はそんな茜の髪をなでる。雨に濡れた彼女の髪はそれでもまだとても綺麗だ。それほど彼女は丁寧に髪の手入れをしているのだろう。
「だったら、死ぬ、なんて考えないで」
先ほどは叫んで言った言葉を今度は優しく茜に言う。
「君がいなくなったら僕はどうすればいいかわからなくなるから」
本当にそうだった。彼女がいなくなったときのことを考えると僕、という存在が壊れてしまいそうだった。
それほどまでに僕にとって茜は大切で愛しい存在だった。いつの間にかそうなっていた。
「わかっ、てるわよ。そんな、こと。あんた、はわたしが……いなくなったら、悲しむ。そう……でしょう?」
涙で潤んだ瞳で茜は僕の顔を見る。そんな瞳でも茜は僕が彼女の問いに対してただ一つの答えしか返してこないと確信しているようだった。
茜の期待にこたえる為ではない。確かに、それは茜の望んだ答えだろうが僕自身の意思で用意した答えだ。
「うん、茜がいなくなったら僕はとても悲しいよ。いや、悲しいなんて言葉では言い表せないぐらいかもしれない。……茜は当然、それはわかってくれるよね?」
僕の問いに茜は頷いただけだった。だが、僕にとってはそれだけで彼女の想いを知るには十分だった。
「だったら、何で死のうとしたの?僕の心配する顔さえ見たくないんでしょ?だから、僕の悲しむ顔はそれ以上に見たくないはずだと思うよ」
「わたしは……ただ、和明の心配する顔が悲しむ顔が見えなければそれでよかったわ。だから、わたしはあんたに黙って死のうと思っていたのよ」
少し落ち着いたのか茜の声は途切れることなく紡がれる。しかし、まだ安心することはできない。
まだ、彼女の苦しみの根源を絶っていないのだから。
「わたしってわがままで自分勝手よね。あんたの悲しい顔さえ見えなければいいと思ってたわ」
自嘲気味に笑いながら茜は言う。
「茜が自分勝手なんていうなら茜は自分の苦しみを包み隠さずに話していたと思うよ。そして、僕達を利用して苦しみをなくそうとしていた筈だよ。でも、茜はそうしなかった。そこに何か理由があるんでしょ?」
僕の言葉に彼女の笑みは消えた。今はただ無表情になっている。
「それ、は……」
そこで、茜は言葉を切る。それは、答えに詰まってしまったとかそういうことではないと思う。意識せずに零れた言葉なのだと思う。
俯いて僕から顔をそらした彼女に言う。
「僕は茜にどんな理由があって僕に君の苦しみを教えてくれなかったかはわからないよ。でもどんな理由であっても僕は教えてほしかった。君がどれだけ苦しんでるのかってことを」
「話せるわけないじゃない。あんたが心配そうにわたしを見てるのにそれ以上に心配させることなんて……」
茜は顔を俯かせたまま言う。そして、その言葉で僕は自分の犯した失敗に気がついた。
僕は、茜が自分の苦しみについて自分から話してくれるまで待っていよう、と思っていた。それが、間違いだったのだ。
彼女はずっと僕に話そうとしていた。けれど、僕の心配する顔が見たくなかったから話さなかった。
僕から聞いていれば話していてくれたのかもしれない。そうすれば、ここまで彼女が苦しむ必要もなかったのかもしれない。
そう思うと、僕の心は茜に対する謝罪の気持ちで埋め尽くされる。
「ごめん、茜。僕が、悪かったんだ。自分からは聞こうとせずに茜から話してくれるまで待ってた僕が」
「なんで、あんたが謝るのよ。一人で抱え込んだわたしが悪いのに……」
茜は顔をあげて僕の顔を見つめる。けれどすぐにまた顔をうつむかせる。次の言葉は悲しく暗く沈んだ声だった。
「それに、怖かったのよ。あんたがわたしの本当に抱えている苦しみの大きさを知ったときに離れていくんじゃないかって。絶対に払いきれないような苦しみの大きさに絶望するんじゃないかって。そう思ってたのよ」
僕にすがるように茜は言う。僕に離れてほしくないと訴えかけるかのように。
僕はそれに応えるようにして茜を抱く手に力を込める。
「大丈夫だよ。僕は絶対に離れたりしないよ。茜の絶望は僕の絶望とおんなじなんだから、逃げたりはしないよ」
茜は無言だ。けれど、心の中では頷いている、そう思った。
「だから、茜の苦しみを消そう。そうすれば、全部、解決できるよ」
「どうやって……どうやって、わたしの、苦しみを、消すつもりなのよ」
搾り出すような弱々しい声だった。絶対に無理だと思っているのかもしれない。僕は、そんな茜を安心させるようにゆっくりと、彼女の頭を撫でる。
「みんなに伝えるんだよ。茜が期待されるのが嫌だっていうことを、やめて欲しいってことを」
僕の言葉に反応してか茜は顔をあげると半ば叫ぶようにして言った。
「そんなの、無理にきまってるわよ!あの人たちがわたしの心を聞いてくれるなんてこと絶対にないわ」
そういう、茜に対して僕は静かに言った。
「茜は、一度も自分の心を見せたことなんてないでしょ?だったら、見せてみればいいんじゃないかな?」
数秒の沈黙が流れる。茜が何を考えているのかはわからない。けれど、僕の問いには答えてくれると確信が持てた。
そして、ゆっくりと彼女の口が開かれた。
「……怖いのよ。わたしが本音を曝け出したときにどんな反応が返ってくるかそれが、とても怖いのよ」
彼女の声はとてもとても小さかった。彼女の体が震えているような気がする。
それは、寒さからではないように思う。きっと、本当に怖いのだろう。自分の本音を言ったとき全ての人に拒絶されるんじゃないか、と。
「大丈夫だよ。安心して。茜は一人じゃないんだから、僕がついてる。みんなに茜の本音を伝える時だって僕は一緒にいてあげるよ?」
「そんな、ことしたら、あんたに、まで危害が、加わるかもしれないわよ」
彼女の声が途切れ途切れになっている。また、感情の波が押し寄せてきたのかもしれない。僕に危害が加わるかもしれないと思って。
「そんなこと、心配しなくても大丈夫だよ。いざとなればその場から一緒に逃げればいいよ。僕はずっと茜と一緒にいるつもりだから」
「……あんたは、何で、ここまで、わたしのことを、想って、くれる、の、よ」
茜の声はほとんど泣きそうだった。そこまで、僕のことを心配してくれているのだろうか。それは、僕にとってとても嬉しかった。
茜のためならば全てを失ってもいいような気がした。茜が僕の傍に残っていてくれるのなら。
そういう、想いを一緒にして茜の問いに答えた。
「それは、茜が僕にとってかけがえのないとても大切な存在だから。僕の全てを失ってでも君が傍に残っていて欲しいって思える存在だからだよ」
「本当に……本当に、その、言葉は、和明の、本音、なの?さっき、わたしに、言った、言葉も、ふくめ、て」
さっき言った言葉、というのは僕が茜に好きだ、と言ったことだと思う。
茜がかけがえのない大切な存在だというのも、何もかもを失ってでも傍に残っていて欲しいというのも、好きだというのも全て僕の本当の気持ちだ。
それを、証明するのに僕がしたのは、茜に向かって微笑みを浮かべて頷くことだった。
その瞬間、茜の瞳に涙が浮かんだ。それは、絶対に雨の雫などではなかった。そして、茜は僕の胸に顔をうずめた。
「ほん、とう、に……ほん、とうの、気持ちよね。それ、は……」
まだ、少し不安が残っているようなくぐもった声が聞こえてきた。僕は、その不安を吹き飛ばすように強く、強く、絶対に離さない、という意思を表すように抱きしめた。
そして、聞こえてきたのは嗚咽の声だった。それは、次第に大きくなっていき大声をあげて彼女は泣いていた。彼女の中にあった感情がこれで全て表に出たのかもしれない。
僕は彼女の髪を撫でる。よかった、と思う。まだ、茜の苦しみの根源を消す、ということが残っているが今はこれでよかった、と思う。
いつの間にか雨は小雨になっていた。今日の夜は晴れるかもしれないな、と僕は理由もなくそう思った。
まだ、彼女は泣いている。それほどまでに、彼女の胸にあった苦しみは大きかったのだろう。だが、それもそろそろ完全に消える。その為に、明日は行動を起こさなければいけない。
多くの人に茜の苦しみを教える、ということを。