プロローグ トクベツな苦しみ
わたしは、この特別すぎる環境が嫌だった。
わたしの周りの全ての人間がわたしのことを特別といった。そして、他の人を見るときとは違う視線でわたしを見ていた。
そんな人々はわたしのことを綺麗だとか知的だとかいう。
決して自分を過大評価しているわけではないけれど確かにわたしは周りの人よりもほんの少しだけ綺麗だとは思う。けれどそれはわたしが望んで手に入れたものじゃない。それとある特定の分野においては知的かもしれない。けれど、それは特別に見てほしいと望んで手に入れたものではない。
わたしはただ、普通、として見てもらいたかった。それなのに――
わたしに告白をしてきた人の数は数え切れないほどいる。おそらく、わたしそのものという存在ではなく。綺麗で知的で特別なわたしという存在を傍に置いておきたいのだと思う。
その証拠に彼らはわたしが嫌がっているのを見てもやめようとはしなかった。いや、わたしが嫌がっているのに気がついていなかった。
だから、わたしは告白してきた人すべてを拒絶した。ふったのではなく、拒絶。しかし、そんなわたしの行動はわたしを更に特別視させるものとしてしまった。
簡単には近づくことができない。綺麗なものにはトゲがある。そういった感じでわたしのことを見るようになっていた。
いや、いた、ではない今でもそう見られている。わたしに近づく人たちは後を絶えない。
そして、知的さの面では、たくさんの人がわたしに寄ってきて様々な質問をしてきた。しかし、あまりにもわたしという存在を特別に見すぎて絶対に答えられないようなことを聞いてきた人や難しいことを聞いてくる人もいた。断れるような雰囲気はなかった。だからどうしてもわたしは答えるのは無理だ、とは言えない。
その代わりにわたしは必死に考える。間違えないように、間違えないようにとても慎重になる。けれど、それでもやっぱりだめなときはだめだ。間違えることなんて何度もあった。
その度に質問をした人とその周りにいた人はわたしのことを強く非難した。普通の人には言わないような非難だった。だから多分、言っている本人たちはそれが非難だとは気がついていない。
どんな言葉かというと、あなたは、特別なんだから間違えるなんてことはないはずでしょとか、特別なんだからこれぐらいできるんじゃないか、とかいう言葉だった。
皆はわたしに完璧さを求めてそんな言葉を言ったのかもしれない。ただ、それはわたしにとっては単なる重石にしかならない。
わたしを特別視するそれらの視線はわたしにとっては何かの化け物のようにさえ思えた。その化け物はわたしを後ろから追いやって追いやって追いやって――――、そして、わたしの心を苦しめている。
わたしを特別視する視線はわたしの心を縛り付けている。わたしは自由に振舞うことなんてできない。
あまりにも人々はわたしに期待を寄せすぎている。特別に、見すぎている。
わたしはお人好し過ぎるのかもしれない。嫌ならやめてしまえばいいのに、と思うのに。
けど、そんなことは一度だってできなかった。もしできていれば、わたしはこんなところにはいないと思う。
わたしは、お人好しであると同時に怖がりなのだから。
特別に見られるのは嫌だ。けれど、もし今の自分を壊してしまえば今度は逆に誰にも見られなくなるんじゃないかって思う。
みんな、特別に見えるわたしを、今は特別に見られるよう振舞っているわたしを見ているのだ。それが、無くなったらわたしを見てくれないと思う。
誰にも見られなくなるというのもすごく辛いものだと思う……。
今、わたしがいる場所はわたしの通っている高校の屋上。放課後のこの時間、こんな場所に来る人など誰一人としていない。
わたしは、屋上の空気を肺一杯に吸う。六月特有の少し湿った空気が肺を満たす。これが最後だ、と思うと少し寂しく思った。
けど、人々の視線から逃げられると思うと寂しさはどこかへと飛んでいった。とても清々しいような気持ちになる。多分、今のわたしはとても嬉しそうに笑っているんだと思う。もう、特別に見られるなんてことは嫌だった。
わたしはゆっくりと屋上の端へと歩いていく。
ここには、誰かが落ちたりしないようにするためのフェンスが張られている。今のわたしにとってはとても邪魔なものに見える。わたしはそのフェンスをゆっくりと登る。
あまり運動の得意でないわたしは、それを登りきるのに少し時間がかかった。それに、もともと、フェンスというのは登るためのものではない。なので、足場などない。
わたしは足で老朽化して少し大きくなった穴を探しそこに足を引っ掛け登っていく。
やっとの思いでフェンスの一番上につくとわたしはそこで一度止まった。このまま飛び降りようとも思ったがやめた。このまま飛び降りた場合、どこかに引っかかって死ねないかもしれないからだ。
心の苦しみは嫌に決まっている。けど体の痛みだって同じように嫌だ。できることなら一瞬のうちに死んでしまいたい。
だから、わたしはゆっくりとフェンスの外側にあるとても狭い足場へと降りる。少しバランスを崩せばそのまま落ちていってしまいそうだった。
少し強い風がわたしの髪をなびかせる。今にも落ちてしまいそうだと言うのに恐怖はまったくない。むしろ心地よさがわたしの心を満たしている。
校庭ではたくさんの人が部活動に励んでいる。下にいる人たちは誰もわたしに気がついていないようだ。そっちのほうがわたしにとって都合がよかった。
いつもはみんな、わたしに注目する。しかし、今は注目などしていない。それはわたしにとってとても嬉しいことだった。
誰にも注目されないままにわたしは苦しみから解放される。
ふと、わたしは、人は死ぬ前に、死ぬときに何かを残す、と聞いたことがあるのを思い出した。だが、今のわたしにとって忌々しい言葉でしかなかった。わたしはこの世に何も残したくない。
ここから落ちた後のわたしの体も、自分の家にあるもの全ても、記憶も存在も全てわたしが死ぬと同時に消えてほしかった。死んだ後までも特別に見られてなんていたくなかった。
誰もこれ以上わたしの事を見ないで欲しかった。特別に見られるなくなら消えてしまっても構わなかった。
わたしには思い残すことは何もない。この世界はわたしにとって窮屈すぎる。身も心も縛り付けられてどうすることもできない。
できるのはこうして逃げることだけ。とても卑怯なことだがそれでも構わない。苦しみなんてもう、嫌だから。
そして、わたしは何の躊躇もなくフェンスを掴んでいる手を、放した。次に襲い掛かる浮遊感と、一瞬だけ感じるはずの衝撃を想像しながら……。