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再びその戸が開いたとき、世界は黎明の導きを待ちわび、雄鶏も覚めきらぬ時刻だった。
明かりがあってもよい道ゆきを歩み出す。女は山道を上がっていた。
女は自分が知っている、一番眺めの良い場所を目指していた。
裾の長いゆったりした、だが動きやすい服に厚めの上着を羽織り、そして茶色い頭陀袋を背負っている。一陣の風にもたまらぬように見えるなよやかな足は、実は山に慣れていて軽快である。金糸に似た髪を束ね、やや俯いて歩く女に表情はない。
仕事に集中し黙々と作業する人の顔だった。
小高い丘に辿り着く。
霞みがかった連綿たる山々が遠くまで見渡せた。空の端がようやく白みだし、夜の帳を押し上げようとしている。
遠慮がちな一声がどこからか漂い、余韻があり、そして囁きが始まった。
鳥は夜明けと共に生まれる。
女は首に提げていた種袋を外すと、灰を取り出す。瞬く間に風が掴んで運んでいった。
輝きを強めた光が山の稜線をなぞる。空は濃いまどろみから急速に脱しつつあった。
やがて女は踵を返したが、村に戻ったわけではなかった。
狂った女だ。
女は袋を担ぎ直した。それがふと重くなった気がしたからだった。
「ああ、なんでも川を辿っていけばいいんだと」
途中人に道を尋ね、川に沿って歩いている。苔むした石を洗いつつ進む早瀬を、目を離せば消えてしまうといった風に見つめる。
少し大きな岩が転がり込めば簡単にせき止められてしまいそうなせせらぎ、真冬ともなると途絶えてしまう流れ、だが何よりもこの小さな川が広大な海に注ぎ込むという不思議が、疑念と半々になって同在しているのだ。
川はやがて海になるのか。海とは巨大な川のようなものなのか。川を辿ればというのなら、きっと様々な場所から流れてきた川が一つになって、果ての見えぬ蛇のようなうねりとなるのに違いない。
腰紐で頭陀袋と己とをくくりつけ、袋の口を縛った紐を肩に負う。四歳の痩せた少女の体だというのに、背負えばそれなりの重さがある。
生きた分の重みをひそやかに教えてくるようで、女はそれを噛み締めながら歩く。
少女の固い膝や肩の辺りが袋越しに感じられる。
女は日中ずっと歩き続け、途中一度だけ荷を下ろし、日が暮れるまで川を追った。
身を隠せる場所もないので、少々開いた所に行き着き火をつける。
もしかしたら海は遥か遠くにあるのかもしれない。自分は一体、幾日の夜を過ごすのだろうか。
すぐに着けるとは考えていないが、目眩がするほど遠くとも思わなかった。遠のいて霞んでいく海へ歩いても歩いても追いつけず、いずれ獣に襲われるか、それとも飢えか寒さか。
川はやがて途絶えるのではないだろうか。そもそも海に繋がっていないのかもしれない。
それは一種、選ばれた川とでもいうか、くじ引きの当たりのように、海へと辿り着く川は限られているのではないだろうか。
そうだとしたら、足元を流れるこの川は。
全ては己の中で了承した上での行動のはずだった。すぐに着けても、またそうでないとしても。
もっというなら、着いても着かなくとも。
女は袋を離れたところへ押しやった。もっとも死者の呪い恐ろしさに、このような酔狂な行動に出たわけではない。
今、この火に投じてしまえば。
村を出て、わざわざ物言わぬ少女の身を担いで、山を歩き回る必要があるだろうか。
あの女は狂っている。
女は袋に背を向けてうずくまった。持ってきた僅かばかりの食料に手をつける気にはならなかった。




