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菜摘 1  作者: 吉川博
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書類

 つい瞬間的に一樹が怒鳴ると、菜摘は受話器の持つ手も重く、鈴木の実家へ電話をかけた。泣き顔で向こうの電話が出るのを待っている菜摘の表情が少しかわいそうな気もする。

「おじいちゃん、菜摘だけど」

 おじいちゃんと言っても娘や孫の歳が歳だから、まだ五十歳を少しばかり出たような現役会社員。自殺未遂とか、家を出て行ったこととか事の全てを菜摘が全部話しても向こうには適当に受け流されているようだった。話を全然聞かれていないようで、「だから」とか「そうじゃなくて」とか菜摘が何度も言っている。菜摘は情けなく泣きながら話しているのに、なんだか事務的に事細かに何かを指示されているような声が受話器から漏れ出している。

「そうだよ! 相沢さんの家だよ! だから何だってんだよ!」

 突然菜摘は切れて怒り出した。本性が現れると途端に涙が止まる。急に強気になって汚い言葉を吐き出した。こんな言葉使いだったら、家族にうっとうしがられても仕方がないな、と言うような言葉の羅列。菜摘がまくし立てていると受話器の向こうからも汚い言葉が漏れ出てくる。話に終着点がない。

「あの、あまり長電話していると電話代が・・・・・・」

 一樹がそう言うと、菜摘は一樹をちらりと見て話を終わらせようとした。慌てて話を収束へ向かわせようとするが、それでも話は終わらない。なにやら雲行きの怪しい会話が流れてきた。

「ああ、ああ、そうそう。おじいちゃん、そうだよ、それでいいんだよ。・・・・・・分かったよ、分かったからもういいってんだよ。うるせえ!」

 思い切り電話を切った菜摘は、しゅるしゅると急にしゅんとなって受話器を持ったまましばらく動かず、呆然と考え込み、手に持った受話器から発信音が狭い部屋に響いている。やがて一樹に向かって見つめ上げる申し訳なさそうな顔で、両手のひらをつかみ合い、腕を細く一組に束ねてさらに猫背になりぼそっと言った。

「鈴木家から、書類一束送りつけられるから、どうもすいません」

「何? 書類って?」一樹はことの意味が分からなかった。

「自殺とは全然関係ないんだけど、関係ないこともないんだけど、つまるところ、書類が全部出来ていて、後はオッサンがどんなボケでもハンコ押すだけでいいようにしてあるからって」

「ハンコ?」

「うん、そうしたらあたしはここの家の子どもになるの」

「この家の子どもになる?」

 日本国において人間がそんなに簡単に他人の家の子どもになりえるのか、家庭裁判所とかで話し合ったり、戸籍がどうの、住民票がどうの、一樹がこの部屋へやってきたときもずいぶんと書類を書いたから、ましてや人間ひとりを他人の籍に入れるにはかなりの手間がかかるのではないか。

 その手間を一樹の了承も得ず、鈴木家では全てやってしまっていた。実の孫に向かって書類一式と言う紙の束で、この相沢の家に捨てるような感覚が鈴木家にはあるのか。鈴木泉美も相当変な奴だったけど、その一家もずいぶんとおかしな一族のようだった。大体菜摘を一樹に預けるならこの部屋へ一度は来て手土産を持って挨拶するべきじゃないだろうか。

「お前ってそんなに疎んじられてるの? まるで人間扱いもされていないみたいだな」

「ごめん、家中の家具とか全部壊すほど荒れていたものなので、一日も早くあたしがいなくなってくれることを家族は願っている」

 菜摘はすっかりしおれてうつむいていた。弁解の仕様もなく、哀れがましく何度もすいません、ご迷惑をおかけいたしますと、呟きだした。俺の部屋でも荒れたりはしないだろうか、と一樹は不安がよぎった。声音をやさしく諭してみた。

「まあでもさあ、書類が出来るまで一度家に帰ってみろよ。そしたら事情も変わるかもしれないし」

「事情は絶対に変わらないと分かりきってる。書類は速達にしてもうまとめて送ったって」

「うちの住所知ってるの?」

「はい」

 全部手が回されている、卑怯だ。何も知らないうちに鈴木家は一樹の身辺を全部調べていて、菜摘が夜のどぶ川で自殺未遂をしても、保護者として両親の呵責を感じることもなく、そしてハンコ押すだけで思春期の小娘をひとり捨てる手はずにしていたんだ。どういう人間立ちなんだ? はっきり言ってその感覚が信じられない。

「あの、泉美さんと話がしたいのですけど」

 納得がいかないので今度は一樹が電話をかけて、その菜摘のおじいちゃんとやらに頼んでみた。

「泉美と話がしたいやて? なんやお前は? どこのボンクラな男や? 入江孝明か? 相葉文也か? 丹野耕太か? 富山・・・・・・」

 男の名前がズラズラと並べ立てられてくる。およそまともな相手に電話している状態ではない。関西弁でまくし立てているこのおじいちゃんとやら、このままでは頭の血管が切れてポックリ逝ってしまう。

 一樹は観念した。泉美とはまた日を改めて冷静にコンタクトを取ろう。そういえば泉美も血管切れそうな女だったからなあ。もしかしたら、すでに泉美はあの世の人間となって残された菜摘をこのように鈴木家では処分しようとしているのかもしれない。

 鈴木泉美はいたい女だった。日本のよい子の勉学の象徴であるHBの鉛筆を針のようにとがるまで削って、その鉛筆を思い切り腕に刺されたような、あの恐怖の痛み。そして肌に刺青のように残る黒い跡。泉美に連絡をとるのは怖い。六歳も年下の女に憎まれるなんて、当時十八、九の頃の一樹が中学生の泉美に憎まれるなんてどれ程恐ろしいことだったか。あの頃、一樹も人間として出来上がってなかったし、その上に純粋に人間を憎むことの出来る泉美のような子どもの一直線の神経回路。あの思い出をまざまざと思い出したら、今ここでちゃらっと泉美と連絡を取ることが怖くなってきた。

 しかし、鈴木菜摘。この少女の正体をどうしたものか。・・・・・・頭がくらくらしてきた。狂は体調が悪い。イライラしている。もういいや、明日考えよう。床にばったり横になった一樹は、すっかり世間様の時間感覚とずれて、週休二日、九時間拘束の会社勤めとか、一日六時間の学校生活などと言うものをとても出来ないスローなペースで、まあ、一ヵ月くらい休みを取って、それからゆっくり菜摘を送り返せばいいかと、考えた。

 ところがその夕方、本当に速達で送られてきた書類に目を通し、ぎょっとした。一樹はためらうことさえ許されず、書類の束を持つ手が震えた。これで本当にこの国は民主主義国家とか法治国家とか言えるのだろうか。裁判もすでに終わっている、裏技と言う裏技を使い尽くしたような手法で、菜摘が一樹の娘になるべく、菜摘の扶養について手続きの方法がフローチャートで指令されていた。これを少しでも拒否すると五十万円の損害賠償金を払わされる手続きまで整っている。聞いてないぞー! 一樹はブツブツ呟きながら片っ端からハンコを押し始めた。字を書く手間さえほとんどいらない。一枚一枚に実印や認印を押していく。その単純作業を横から覗き込みながら菜摘が尋ねる。

「あたし、養子になるの? 実子になるの?」

「信じられるか? 実子だよ。お前はすでに俺の子どもなんだよ!」

 また怒鳴ってしまった。いかんなあ。しかし菜摘はほわっと笑った。

「お前がいると少し生活保護費が上がるんだって。それに養子だと民生委員がうるさいってここに書いてある。だから実子でもどうでもいいけどさ」

「ふーん、結構いい加減なものなんだね」

「お前の家では俺は初めからお前の父親と言うことで全てが回っていた。見ろよこの書類」

「わかんない」

「いちいち俺の名前が父親として書いてある。この十四年間の書類の束、ほんとに手間が省けていーですよ」

「ふーん、なるほどね、そうみたいだね」

「そうみたいじゃないよ、これから本当の親子になっちゃうんだぞ? お前本当に俺の子どもなの?」

「本当にこれからふたりで生活できるの?」

「一応、俺がお前を預かってやるけどな、真実が分かり次第放り出すからな。お前のおじいちゃんとは話にならないから泉美のケータイの番号教えといて」

「お母さんとはたぶんまともに話できないと思うよ?」

 一瞬、フリーズした。確かにまともに話が出来ない女、鉛筆がグサグサ突き刺さる。

「まあ、この部屋では二人暮らしは難しいから、取り合えずもう少し広いところへ引っ越そう」

「らっきー。学校は?」

「転校しいたほうがいい。かなり問題になっているらしな、学校では。この通知表は難ですか? この学校からの指導書は何ですか? 学校でお前いったい何やっていたんだ?」

 そりゃまあ、学校ではずいぶんと荒れていました、と菜摘は神妙な顔で言った。

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