死の王に愛された王女は、二度目の人生を生き直す
「あなた……だれ?」
目の前に立っているのは、真っ黒な服を着た男だった。
顔はよく見えない。深い闇の中にいるようなのに、その人の姿だけは、なぜかはっきりと見えていた。
「お前は――――」
男が何かを言いかけたところで、突然、声が遠のいていく。
「お嬢さま! そろそろ起きませんと!」
「ん……」
聞き慣れた声に、私はゆっくりと目を開けた。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
「お嬢さま、起きてください!」
「あと少しだけ……」
「もう! またですか!」
メリルが呆れたようにため息をつきながら、私の掛け布団を剥ぎ取った。
「寒い……」
「寒いではありません! 本日は王妃教育があるのですよ。もうすぐご結婚なさるのですから、少しは自覚を持ってくださいませ!」
「結婚……」
その言葉に、私はようやく目を覚ました。
そうだった。
私はもうすぐ、結婚する。
私はエルディア王国の国王の娘、アリア・エルディア。
この国で生まれ、この国で育った王女だ。
そして、私が嫁ぐことになっているのは、遠く離れたセレネア王国。
相手はセレネア王国王太子、ルシアン・セレネア。
エルディア王国とセレネア王国は、ほんの数年前まで戦争をしていた。
長く続いた争いによって、多くの人が命を落とした。
その戦争を終わらせ、二つの国の間に二度と争いを起こさないために決められたのが、私とルシアン王太子の婚姻だった。
王女として生まれた以上、国のために結婚することは私の役目だと思っている。
私がセレネア王国へ嫁ぐことで、二つの国が平和になるのなら、それは決して悪いことではない。
むしろ、私にしかできない大切な役目なのだと思っていた。
……だけど。
「王妃教育、嫌だなぁ……」
「お嬢さま!」
「だって、今日こんなに天気がいいのよ?」
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。
庭には色とりどりの花が咲き、木々の葉が風に揺れていた。
こんな日に机に向かって、王妃としての礼儀作法や政治の勉強をするなんてもったいない。
「少しくらいならいいでしょう?」
「少しくらい、がいつも長いのです!」
「……ばれた?」
「ばれます!」
メリルは呆れたように私を見る。
私は笑って誤魔化すと、急いで身支度を整えた。
もちろん、王妃教育へ向かうためではない。
メリルが目を離した隙を見計らって、私は部屋を抜け出した。
向かった先は、庭の大きな木だった。
小さい頃から、私は木登りが好きだった。
王女らしくないと何度叱られても、やめられなかった。
ドレスの裾を持ち上げ、慣れた手つきで枝を登っていく。
「ここなら、誰にも見つからないわ」
お気に入りの枝に腰を下ろす。
木の葉の隙間から見える空はどこまでも青く、頬を撫でる風は心地よかった。
この場所にいると、王女であることを忘れられる。
私はしばらくぼんやりと空を眺めていた。
やがて心地よい眠気に襲われ、そのまま眠りに落ちた。
次に目を覚ましたとき、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
「えっ……もうこんな時間!?」
慌てて立ち上がった拍子に、足を滑らせた。
「きゃっ――!」
身体が枝から離れる。
地面がどんどん近づいてくる。
次の瞬間、身体に強い衝撃が走った。
そこで、意識が途切れた。
――気がつくと、私は真っ暗な場所に立っていた。
何もない。
上も下も分からない。
ただ、目の前には、あの男が立っていた。
夢の中で見た、黒い服の男。
「……あなた、だれ?」
男は答えない。
「ここは……どこ?」
返事はない。
不思議な静けさの中で、私は自分の身体を見下ろした。
痛くない。
何も感じない。
「……もしかして、私、死んだの?」
男がこちらを見る。
「そう思うのなら、そうなのかもしれないな」
「やっぱり死神!?」
思わず後ずさる。
けれど男は、ほんの少し眉を動かしただけだった。
「違う」
「じゃあ、何なの?」
「妖精だ」
「……妖精?」
どう見ても妖精には見えない。
黒い服を着て、こんな真っ暗な場所にいるのだから、私にはどう考えても死神にしか思えなかった。
「お前に一つ、選択肢を与える」
「選択肢?」
「生きたいか?」
私はすぐに頷いた。
「生きたい」
死ぬなんて嫌だった。
まだやりたいことがたくさんある。
家族と過ごしたいし、メリルとももっと話したい。
庭の花も、まだ全部見ていない。
すると男は、静かに言った。
「ならば、生きろ」
「本当!?」
「ただし――セレネア王国へ嫁ぐことをやめろ」
「……え?」
思ってもいなかった言葉に、私は目を瞬かせた。
「その結婚は、お前を不幸にする」
「どうして?」
「それはお前が知る必要はない」
「でも……」
私は首を横に振った。
「それはできないわ」
「なぜだ?」
「私が結婚しなかったら、また戦争になるかもしれないもの」
私がセレネア王国へ嫁ぐことで、二つの国は和平を結ぶ。
それが決まっている。
「私一人のせいで、たくさんの人が傷つくなんて嫌よ」
「お前一人が犠牲になれば、それでいいと?」
「犠牲なんかじゃないわ」
私は胸を張った。
「私は王女だもの。国のためにできることがあるなら、私はそれをしたい」
男はしばらく何も言わず、私を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……そうか」
「うん」
「ならば、好きにするといい」
その声は、どこか諦めたように聞こえた。
「ただし、私は警告した」
「……?」
「アリア」
「どうして……私の名前を?」
その瞬間、目の前が真っ白になった。
「お嬢さま!」
遠くから、メリルの声が聞こえた。
目を開けると、私は自分の寝室のベッドに横たわっていた。
「お嬢さま……!」
メリルが泣きながら私を見ている。
「よかった……本当によかったです……!」
「メリル……?」
どうやら私は生きていたらしい。
木から落ちて、しばらく意識を失っていたようだった。
あの男との出来事は、夢だったのだろうか。
そう思った。
けれど、それから私は何度も同じ夢を見るようになった。
燃え盛る街。
逃げ惑う人々。
剣を持った騎士たち。
赤く染まっていく地面。
そして、誰かの声。
――アリア。
目を覚ますたびに、胸の奥に嫌な感覚が残った。
それでも、結婚の日は少しずつ近づいていった。
*******
そして、とうとうエルディア王国を出る日がやってきた。
朝から城の中は慌ただしかった。
荷物はすべて馬車に積み込まれ、私の嫁入り道具も一つずつ確認されていく。
いつも見慣れていた城が、今日はどこか違って見えた。
「本当に、行ってしまうのですね……」
メリルが寂しそうに呟く。
「うん」
私は笑って答えた。
「でも、ずっと遠くに行くわけじゃないでしょう?」
「セレネア王国は、とても遠いですよ」
「手紙を書くわ」
「毎日ですよ」
「毎日は無理かも」
「お嬢さま!」
メリルが頬を膨らませる。
その顔がおかしくて、私は笑った。
けれど、笑っているうちに胸の奥が苦しくなってきた。
本当は、寂しい。
今日まで当たり前だったものが、全部遠くなってしまう気がする。
庭も。
この城も。
私を叱ってくれるメリルも。
そして――お父さまとお母さまも。
出発の時間になり、私は両親の前に立った。
「お父さま、お母さま」
「アリア」
父はいつもより少しだけ厳しい顔をしていた。
けれど、その目には隠しきれない寂しさが浮かんでいる。
「セレネア王国へ行けば、辛いこともあるかもしれない」
「……はい」
「それでも、お前はこの国の王女だ。自分の役目を忘れるな」
「分かっています」
私は笑った。
「大丈夫です。私、頑張ります」
母が私を抱きしめる。
「無理をしてはいけませんよ」
「お母さま……」
「辛いときは、辛いと言っていいのです」
「……はい」
母の胸に顔を埋める。
涙が出そうになった。
でも、私は泣かなかった。
今日泣いてしまったら、きっとこの場から離れられなくなる。
「お父さま、お母さま。行ってきます」
「ああ」
「いってらっしゃい、アリア」
最後に振り返る。
両親とメリルが並んで立っている。
メリルはもう、涙を隠そうともしていなかった。
私は笑顔で手を振った。
「いってきます!」
馬車が動き出す。
城が少しずつ遠ざかっていく。
窓から身を乗り出すようにして、私は最後まで手を振った。
見えなくなるまで、ずっと。
やがて城が見えなくなった。
私はゆっくりと座席に戻る。
「……行っちゃった」
胸の奥が、ぽっかりと空いたようだった。
それでも、私は前を向いた。
私は王女だ。
これからセレネア王国へ行って、ルシアン王太子と結婚する。
それが二つの国の平和につながるのだから。
私はそのために、ここを出たのだ。
馬車は長い旅を経て、セレネア王国へ入った。
国境を越えた瞬間、景色が変わった。
白い建物が並んでいる。
城壁も、街道も、目に入るものの多くが雪のように白かった。
セレネア王国では、月白石という白い石が採れるらしい。
昼の光の下では真っ白に見えるのに、月の光を浴びると淡く銀色に輝くという。
「綺麗……」
思わず窓の外に見入ってしまう。
初めて見る景色だった。
ここが、これから私が暮らす国。
ここで私は、ルシアン王太子と夫婦になる。
少しだけ緊張しながら城へ向かった。
けれど、城に到着して最初に私を出迎えたのは――たった一人の侍女だった。
「……お待ちしておりました」
それだけだった。
私は少し戸惑いながら、馬車を降りる。
本来なら、王女が嫁いでくるのだから、それなりの出迎えがあるものだと思っていた。
けれど、城の前に並ぶ人影はない。
ざわめきもない。
私を歓迎するような笑顔もない。
「初めまして。エルディア王国のアリア・エルディアです。これからよろしくお願いします」
私はできるだけ明るく笑って頭を下げた。
侍女は私を一瞥しただけだった。
「……」
返事はない。
「……あの、ルシアン王太子は?」
「現在、国外へ視察に出ております」
「そうなんですか」
「婚礼までには戻られる予定です」
「そう……」
少し残念だった。
これから夫になる人なのだから、できれば最初にきちんと挨拶をしたかった。
けれど、仕方がない。
私は気を取り直した。
「では、皆さんにもご挨拶を――」
そう言って城の中へ入った。
廊下ですれ違う使用人たちに、私は笑顔で声をかけた。
「こんにちは」
けれど、誰も返事をしない。
こちらを見ても、すぐに目を逸らされる。
中には、私が近づくとあからさまに道の端へ寄る者までいた。
「……」
私は足を止めた。
気のせいだと思いたかった。
けれど、違う。
誰も私を見ようとしない。
まるで、そこにいないものとして扱われているようだった。
部屋へ案内されても、必要なこと以外は何も説明されなかった。
与えられた部屋は、とても綺麗だった。
大きな窓からは城下町が見え、家具も寝台も、私がこれまで使っていたものに負けないくらい上等だった。
けれど、部屋の美しさとは反対に、そこには人の気配がなかった。
「……寂しいな」
ぽつりと呟く。
そのとき、案内をしてくれた侍女が初めて口を開いた。
「セレネア王国の者たちが、あなたを歓迎するとは思わないほうがよろしいかと」
「え?」
「エルディア王国との戦争で、家族を失った者もおります」
胸が詰まった。
「……」
「あなたが王女であることは、ここでは祝福されることではありません」
その言葉を聞いて、ようやく分かった。
私がエルディア王国で大切にされていたこと。
王女として愛されていたこと。
それは、ここでは何の意味も持たない。
この国の人たちにとって私は――敵国の王の娘なのだ。
「……そう、ですよね」
私は小さく呟いた。
分かっていたつもりだった。
二つの国は戦争をしていた。
たくさんの人が傷ついた。
私がその国の王女だからといって、簡単に受け入れてもらえるわけではない。
それでも、想像していたよりずっと苦しかった。
翌日から、私はできるだけ明るく振る舞った。
「おはようございます!」
返事がなくても、挨拶をする。
「今日もいい天気ですね」
無視されても、笑ってみせる。
最初は辛かった。
けれど、私まで暗い顔をしていたら、本当に誰も笑わなくなってしまう気がした。
そんなある日、部屋の窓から庭を眺めていると、色とりどりの花が咲いているのが見えた。
私は自然と足を向けていた。
庭の奥では、一人の老人が黙々と作業をしていた。
「こんにちは!」
老人が顔を上げる。
「……おや」
「何をしているんですか?」
「庭の手入れじゃよ」
「私もやってみたい!」
老人は目を丸くした。
「姫様が?」
「うん!」
「これは姫様がするような仕事ではありませんぞ」
「でも、私、こういうの好きなの」
しばらく私を見ていた老人は、やがて小さく息を吐いた。
「……仕方ありませんな」
「本当!?」
「怪我だけはしないように」
「分かった!」
それが、ガルドとの出会いだった。
土に触れるのは楽しかった。
花の手入れをして、雑草を抜いて、野菜の様子を見ていると、時間を忘れてしまう。
庭にいる間だけは、私は王女ではなかった。
敵国の姫でもない。
ただのアリアでいられた。
「アリア様、実はこの庭、王太子様が好まれているお花ばかりを植えているのです。少しでも心が安らぐようにと願いを込めて」
「そうだったの! じゃあもっと綺麗にして、帰ってきた時に喜ばせないとだわ!」
「……アリア様。本当にお優しい方なのですね。王太子もきっと喜ばれますよ」
「私の夫になる人……どんな方かしら。早くお会いしてみたいわ!」
この城で今、私と話をしてくれるのはガルドだけ。
冷たく歓迎されていないことは分かっている。
でも、ガルドみたいにちゃんと話せば、きっと王太子も……。
そう期待しながら、アリアは王太子の帰還を待つことにした。
*******
慣れない環境で張りつめていたものが、少しずつ私の身体を蝕んでいた。
ある日、急に身体が重くなった。
「……なんだろう」
頭がぼんやりする。
熱い。
立っているのも辛くなり、私は寝台へ倒れ込んだ。
きっと熱があるのだろう。
そう思ったが、部屋には誰もいない。
「……メリル」
思わず名前を呼んだ。
返事はない。当たり前だ。
メリルはここにはいない。
私は一人で、熱にうなされていた。
そして、またあの夢を見た。
暗闇の中に、黒い服を着た男が立っている。
「……あなた」
あのときの、不思議な人。
「妖精さん……」
「……ああ、そうだ。妖精だ」
絶対に妖精ではないことくらい、アリアにもわかっていた。
けれど、今はそれを追及する気力もない。
「もう国へ帰ったらどうだ」
「それは……ないわね!」
「なぜだ? なぜ、そんなに辛い思いをしてまで残ろうとする?」
「だって、私はエルディア国のお姫様だもの! それに、まだこの国のことを何も知らないわ!」
アリアは熱に浮かされながらも、嬉しそうに笑った。
「きっと、この国には素敵なものがたくさんあるはずよ。街並みだけで、こんなに素敵なんだもの!」
「……だが、この国の人間は、お前を素敵なお姫様だとは思ってくれていないようだが」
「それでもいいの!」
迷いのない声だった。
「これからはエルディアの姫としてじゃなくて、一人のアリアという人間を知ってもらえるように、私が頑張るわ!」
「そうか……」
ノアは小さく息を吐いた。
「お前は、いつもそうやって……」
「え……? いつもって――」
言葉を遮るように、ノアの指先がそっとアリアの頬に触れた。
熱を確かめるような、壊れものに触れるような、あまりにも優しい手つきだった。
「……」
アリアは息を呑む。
ノアは何も言わず、ただじっとアリアを見つめていた。
その瞳には、どこか寂しげな色が浮かんでいる。
けれど、それ以上に――大切なものを慈しむような、深い優しさが滲んでいた。
まるで、アリアのことを誰よりも大切に思っていると、その瞳だけが語っているようで。
アリアは、その目から離れられなかった。
「……そうか」
やがて、ノアは静かに微笑んだ。
「ならば、もう止めない」
その声は、やっぱりどこか寂しそうだった。
けれど、その手だけは最後まで、アリアの頬から離れなかった。
――そこで、私は目を覚ました。
熱はまだあった。
けれど、不思議と胸の奥は、少しだけ軽くなっていた。
そして数日後。
国外へ視察に出ていたルシアン王太子が、ようやく城へ戻ってきた。
私は緊張しながら、彼の前に立った。
「初めてお目にかかります。エルディア王国から参りました、アリア・エルディアです」
深く頭を下げる。
これから私の夫になる人。
いったい、どんな人なのだろう。
そんな期待が、ほんの少しだけあった。
けれど、顔を上げた私を待っていたのは、冷たい瞳だった。
「……あなたが、エルディアの王女か」
「はい」
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
「これから夫婦になるのですから……その、お話だけでも……」
私がそう言うと、ルシアンはわずかに眉を寄せた。
「この婚姻は、国同士の和平のためのものだ」
「……はい」
「私は、お前を愛するつもりはない。勘違いするなよ。誰も、この結婚を望んでなどいないのだ」
淡々と告げられる言葉が、胸に突き刺さる。
「お前は大人しくしていろ。いいな」
今まで向けられたことのない、鋭く冷たい視線にさらされ、体の奥から熱が引いていくのを感じた。
「……分かりました」
そう答えるのが、やっとだった。
けれど、一国の姫として、ここで引き下がるわけにはいかない。
私はゆっくりと顔を上げ、できる限り穏やかな笑みを浮かべた。
「このたびは、私との婚姻をお受けくださったこと、心より感謝いたします」
そう言って、深く頭を下げる。
本当は、少しだけ悲しかった。
私はこれから、味方のいないこの国で、孤独に耐えながら生きていかなければならない。
その現実を、今、改めて思い知らされたのだ。
*******
そして、婚礼の日がやってきた。
鏡の前に立つと、そこには美しい純白のドレスを纏う自分の姿があった。
純白のドレスは、胸元から腰にかけて身体の線に沿うよう仕立てられ、裾へ向かうにつれて幾重もの布が柔らかく広がっている。薄絹を重ねたスカートには、銀糸で細やかな蔓草と花の刺繍が施され、その一つひとつに小さな真珠が縫い込まれていた。
光を受けるたび、真珠が淡く煌めく。
長く伸びたヴェールは、髪をまとめた頭から肩へと流れ、床にまで届くほどだった。縁には小さな花の刺繍が連なり、動くたびにかすかな光を散らしている。
髪にも白い花が飾られていた。
鏡の中の私は、誰が見ても美しい花嫁だった。
――今日から私は、セレネア王国の王太子の妻になる。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、私は小さく呟いた。
唇の端を、ゆっくりと持ち上げる。
鏡の中の私は笑っている。
ちゃんと、花嫁らしく。
幸せそうに。
けれど、その笑顔を作るだけで、胸の奥がひどく痛んだ。
本当は、泣きたい。
逃げ出したい。
こんなにも綺麗に着飾られているのに、心だけが置き去りにされてしまったようだった。
それでも、私はもう一度笑った。
一国の姫として、今日だけは泣いてはいけない。
どれほど心が壊れそうでも、誰にも悟られてはいけない。
「……綺麗」
鏡の中の自分に向かって、そう言ってみる。
けれど、声はわずかに震えていた。
その瞬間、頬を一筋の涙が伝った。
慌てて指先で拭う。
白い手袋に隠された指先が、かすかに震えていた。
「……泣いちゃ、だめ」
もう一度、笑う。
今度は先ほどよりも綺麗に笑えた。
――まるで、本当に幸せな花嫁のように。
今日私は、セレネア王国の王太子の妻になる。
これで二つの国は、きっと平和になる。
そう信じて一歩を踏み出した。
――そのときだった。
遠くから、轟音が響いた。
「……何?」
窓の外を見る。
空が赤く染まっていた。
「火……?」
次の瞬間、城内に悲鳴が響き渡った。
「エルディア軍が攻めてきたぞ!」
「敵襲だ!」
「どうして……? 私がいるのに……」
信じられない光景に唖然としていると、エルディア軍がセレネア王国を攻めている。
私がここへ嫁いだことで、セレネア王国は警戒を緩めていた。そこを狙われたのだと叫ぶ騎士たちの声がする。
白かった街並みが、炎に包まれていく。
月白石の建物が赤く染まり、煙が空を覆っていく。
人々の悲鳴が聞こえる。
私は逃げ惑う人々を落ち着かせるため城の外へ出た。
そこで、見覚えのある紋章が目に入った。
エルディア王国の騎士たち。
「アリア様!」
「あなたたち、何を考えているの……!?」
私は叫んだ。
「この国を攻めるなんて……よくもそんなことが!」
けれど、誰も私の言葉に聞く耳を持たない。
そして、その場にルシアンが現れた。
「……やはり貴様か」
その瞳には、怒りと憎しみが浮かんでいた。
「違うの! 私は本当に何も知らない!」
「では、なぜ敵軍と一緒にいる?」
「違う! 私は……!」
必死に首を振る。
「信じて……」
私は手を伸ばした。
「私はこの国を裏切ってなんか――」
その瞬間、身体が熱く燃える感覚があった。
私の胸を剣が、貫いていた。
「……っ」
身体から力が抜けていく。
倒れながら、私はルシアンを見上げた。
どうして。
私は、この国でエルディアの姫として……。
ああ、私は最後までエルディアのお人形だったのね。
お父さまもお母さまが泣きながら送り出してくれていたのは、あの時すでにこの作戦が実行されていたから……?
視界が霞んでいく。
意識が飛びかけたその時、私の頭の中に流れ込んできたのは、遠い過去、幼い頃の記憶……?
――――――――――
* 過去
――――――――――
「あなた……だれ?」
幼い少女が、目の前に立つ黒い影を見上げた。
「お前……我が見えるのか?」
「見えるよ!」
迷いのない返事だった。
「どうやってここに入ったの?」
「どうしてそんなにまっくろくろなの?」
「ねえ、どうして? どうして、どうして?」
答えを待つこともなく、次から次へと疑問を投げかけてくる。
深く輝く赤い瞳は、零れ落ちそうなほど大きく見開かれていた。
そこには恐怖など微塵もなく、ただ目の前の不思議な存在から、たくさんの答えをもらえることを期待する好奇心だけが輝いていた。
「我は……」
「わかった! 妖精さんね!」
「……は?」
「だって、ここはこの国の王宮なのよ? 簡単に入れるはずないわ! 飛んできたのね!」
「だからといって、なぜ妖精になる……」
「だって……!」
少女は嬉しそうに目を輝かせた。
「教会の壁に描かれていた妖精さんは、とっても綺麗だったんだもの!」
「綺麗だと……? この俺がか?」
「うん!」
少女は迷いなく頷いた。
「あなたの目はとっても優しそうで綺麗!」
「……」
多くの人間から避けられ、恐れられ、死の王と呼ばれてきた男は、しばらく言葉を失った。
自分を見て、そんなことを言う者など、今まで一人もいなかった。
「そうか……」
やがて、妖精さんは小さく笑った。
そして、目の前で無邪気に笑う少女を見つめる。
「ならば――私を恐れない勇敢なお前を、私が守ってやろう」
「守る……?」
「降り注ぐ、すべての危険から」
赤い瞳が、静かに少女を捉える。
「この死の王の加護を、お前に捧げる」
「死の王……? なあに、それ?」
少女は首を傾げる。
その姿を見つめながら、妖精さんはただ静かに笑っていた。
――――――――――
「ああ……そうだったのね」
私は、すべてを思い出していた。
幼い頃に出会った、不思議な人。
私が「妖精さん」と呼んだ、優しい人。
ずっと昔から、私を守ってくれていた人。
「あなたは、ずっと私のことを――」
そこで、私は気づいた。
あの日からずっと。
妖精さんは、私を守り続けてくれていたのだ。
「それに……こうなることが、わかっていたのでしょう?」
男が、静かに目を伏せる。
「思い出したか」
その声は、どこか寂しげだった。
「お前を助けると、誓ってしまったからな」
ノアは、私をまっすぐに見つめる。
「だが……今の我にできるのは、お前の命をやり直させることだけだ」
一度、言葉を切る。
「ここまで深い傷では……もう、お前を助けることはできない」
「……ふふ」
私は小さく笑った。
「妖精さん……あなたって、とっても優しいのね」
男がわずかに目を見開く。
「私が辛い思いをしないように……ずっと結婚させないようにしてくれていたのね」
「……」
男は何も答えなかった。
けれど、その沈黙が何よりも雄弁だった。
私が知らないところで。
私が忘れてしまっていた時間の中で。
この人はずっと、私を守ってくれていた。
「もう気が済んだだろう」
ノアは静かに告げる。
「さあ、諦めろ。死んで我と共に来るがいい」
「そうねえ……」
私は少しだけ考えるように目を細めた。
「それも、楽しそうね」
その瞬間。
ノアの瞳に、ほんの一瞬だけ光が宿った。
アリアが自分と共に逝くことを、望んでいるのかと。
「でも……」
私はゆっくりと首を振った。
「できることなら、もう一度生きたい」
「……」
「生きて……あなたと、たくさん話がしてみたいわ」
ノアの表情が、わずかに揺らぐ。
「だって……ようやく、あなたのことを思い出したのだもの」
死の王が、息を呑んだ。
長い沈黙のあと――
「……そうか」
その声は、ひどく優しかった。
「では、もう一度だけだ」
ノアは、そっと私の頬に触れる。
「これで最後だ」
赤い瞳が、愛おしむように私を見つめる。
「生きて、お前の人生をやり直してみるがいい」
そして最後に。
幼いあの日と変わらない、優しい声で――
「おやすみ」
そっと微笑んだ。
「愛おしい、我が姫」
*******
「お嬢さま……!」
「目を開けてください、お嬢さま!」
「はっ」
勢いよく起き上がり、辺りを見渡すと、メリルが泣きながら私を見ている。
「よかった……本当によかったです……!」
「メリル……?」
「ああご無事で...!お嬢様もう木登りなんて絶対にさせませんからね!」
ああ、私、本当に戻ってきたのね。
今度は全部覚えている。
妖精さん、あなたとの約束必ず守るわ。
今世は必ずあなたとーーーー。




