七来池には気を付けよ
七来池には気を付けろ。昔から噂だけは聞く。度胸試しに1回行ったことがあるけれども、底が黒々と見えないただの池にしか見えなかった。
「え?底が見えないなんて嘘だろ」
なんて言われたから黙ってるけれども。昔からの腐れ縁の彩希曰く、昔から人が落ちてしまう事件が相次いだらしい。柵で囲むなり、埋め立てるなりなんかできるはずなのに、全く触られてないジメジメした池だ。
「なんか工事しようとしたら事故が多発するらしいよー。噂だけどさ」
僕は鼻で笑った。そんな非現実的な話なんてあるもんか。親だって言ってた。危ないのにねぇなんていいつつ、近づかなければ大丈夫だって、言ってた。
卒業式の前日。天気予報では快晴。なのに、外は急に暗い雲の支配下となり、地面へ身を叩きつけるような雨が降っている。
僕は小さくあくびを噛み殺した。
家に帰ったら本を読もう。今日も明日もゆっくりできるし。彩希と遊んだっていいけど、今、読み始めた本があったな。確か、芥川賞をとっとかの・・・・・・。
とりとめもないことを考えながら、放課後の教室のドアを開けようとした。トンッと肩をたたかれ振り向く。
「よっ!」
教室の横で彩希が一人立っていた。弾けるような笑顔に僕もつられて口を緩める。手にたくさんのプリントを抱えて、にっこり笑っていた。
「手伝おうか? 」
「いいよ。そんな重くないし。それより、図書館で待っててな。私、これ以外にもセンセーにちょっと用があるんよ」
彩希へ頷き返すと、嬉しげにスキップしながら廊下の先へ消えていった。僕はクスリと笑って、反対へ向いて図書館へ向かった。
もう一時間以上はたった。彩希の姿は見えない。空は鉄が錆びたような色に染まっていた。空に浮かぶ雲がどんよりとした濃灰でぞわりと身震いするようだ。
部活動以外の生徒は帰るよう知らせる鐘の音に僕はやっと重い腰をあげる。
「帰ろ」
いくら待っても来る気配がないのだから。本を棚へ戻して鞄を持ってくつ箱へ向かった。
闇が訪れそうで訪れない道へ走り出そうとしたときだった。
「待った?」
音もなく側にいた。ぎょっと心臓が飛び出そうになった。表情が影に隠れて、怒っているのか笑ってるのかわからない。だから僕は曖昧な笑みを浮かべた。
「ごめん。帰ろうとしちゃった。おわったの?」
「・・・・・・うん」
彼女がスッと僕の前に立つ。振り向きもせずに、行こう、と言って歩き出した。
待ってと言いながら彼女の後ろを追いかける。僕は後ろをついていくのに必死だ。普段から走り回る彼女の足は、インドアな生活の僕が叶わぬほど早い。必死に走る僕の耳に、なぜか水滴の音だけが聞こえてきた。
ポト。ポトリ。
雨は止んだはず。だけども、水滴の音が近づいては遠ざかる。まるで追いかけっこをしてるように。ヒヤリとした冷気が足から沸き立ってきてる気がする。
パシャ、ポト。パタ、ポト、バッシャリ。
「待って! 待ってってば」
いつもは僕にいたずらっぽく笑いながら待ってくれる彼女の足が止まらない。異様に静かで水滴の音しかしない。道に時折水溜りができている。今日、雨降ったっけ。頭の片隅によぎった言葉はするりと忘れていった。
息切れをしながらようやく追い付く。彼女の立ち止まった所で顔を上げる。いつもの帰り道、いつも彼女と別れる四つ辻にいるはずだった。
「ねえ」
「何?・・・・・・えっ 」
顔をあげた。彼女は逆行の光に包まれている。その後ろに広がるのは、七来池。
いつの間に来たのだろう。絶対に踏み入れちゃいけないところなのに。
ポトリ。
「帰らなきゃ」
「なぁんでぇ?」
その甘ったるい声は彼女のものじゃなくて、僕は目を見はった。鳥肌をゾワッと冷たく濡れた空気で取り囲まれる。気持ち悪くて腕を抱えた。
「さ、彩希? だよね」
思ったより声がかすれた。彼女はニンマリ口角を上げた。彼女の口許だけがやけに赤々とぎらめいている。大きな弧を描いているのに、目元は影で暗がりのなかにいる。
赤黒く染められた雲が不気味に辺りを包んでいった。
ポト。
「なぁんでぇ?」
ポト。ポトリ。
踵を返して、今すぐ逃げ出したい。なのに、後ろからどんどん水滴の音が迫ってくる。ぬめりぬめりと冷たいものが足に絡まってくる。
ポトッ。
急に水の音が聞こえなくなった。彼女、いや、彼女の姿をした誰かが一歩近づいてきた。
足は草に縛られたように動かない。草木だけじゃない。冷たい粘り気を持つ“なにか”が、僕の体を縛り付けていた。体の震えが止まらない。
・・・・・・くん。
誰かに呼ばれた気がした。目の前の視線から逃れたくて、僕は振り返る。
誰もいなかった。ただ、一筋水滴の跡が垂れているだけで。
「ねぇ、なぁんでぇ? 」
彼女の姿をしたなにかに、ゆっくり目を移す。細長い舌が口からチロチロ出ている・・・・・・?
ゆっくり視線を下げれば、下半身に足がない。あるのは鱗模様のついた尻尾。ぬめりと動いた。
そして六つの髑髏が歯をならしながら彼女の回りを囲んでいる。
僕は声も出せず、その場に腰が砕け落ちた。
草木だけじゃない、変化自在ななにかに縛り付けられたようだ。下がることも、身をよじることもできない。
「なぁんでぇ? 」
――七来池の蛇女。一度誘われたら捕らわれる。
――黄昏時には気を付けよ。姿を変えて来るのだから。
体がどんどん変化し、手も消えてなくなった。体を手足なき鱗だらけの冷たいものとして、ゆっくり僕の体に巻き付いてきた。
ヤットキタ。ヤットキタ。コノトキガキタ。
舌が僕の首の後ろをチロチロ舐める。声が喉の奥へ引っ込んで、出てくれない。
――助けてよ。誰か。だれか。ダレカ。
ムカシムカシ、メガアッタ。コンドコソ。コンド、コソ。
女の口が開いた。僕の肩へ鋭い二本の歯を突き立ててくる。痛みとしびれに頭がくらくら麻痺していった。
・・・・・・くん
さっきよりもはっきり呼ばれる名はダレのだろう。あぁ、近くに誰かいるの・・・・・・か・・・・・・な。
チガウ、チガウ、マタチガッタ。
蛇女の鋭い威嚇の息を肌に感じながら、闇の中へと僕は落ちていった。
マタ、チガウ、ナナツ、ソロワヌ、シャレコウベ。
――七来池から逃れるには、ただ、水滴を辿ればよい。
――七来池には気を付けよ。喰われずも狭間の闇に落とされる。
――七来池には気を付けよ。七人来るまで終わらない。
完




