第9話 壊れた後の首都
第9話 壊れた後の首都
地上へ戻った瞬間、空気がまるで別物のように感じられた。
地下で感じていた、胸の奥をざわつかせる“甘さ”がない。
ただの、少し冷たい早朝の空気だ。
「……風が、普通だ」
タエンが呆然と呟いた。
首都ホウランの城下町は、夜明けを迎えつつあった。
けれどその光景は、彼らが地下へ入る前の狂った静けさとは、はっきり違っていた。
中央通りに集まっていた人々は、通りのあちこちに倒れている。
誰もが眠るように横たわり、パンを胸に抱いたまま動かない者もいる。
「死んでいる者は……いない」
エルディアが一人一人の呼吸を確かめながら言った。
「ただ、深く抜け殻みたいな状態になっているだけだ」
ロイシュは、胸の奥に重たいものが溜まるのを感じた。
自分たちは装置を止めた。
だが、それでなかったことになるわけではない。
人の心は、確かに壊れかけたのだ。
◇ ◇ ◇
パン屋ベルトは、店の奥の床に倒れたままだった。
ロイシュが抱き起こすと、その瞳は虚ろで焦点を結ばない。
「ベルト……聞こえるか」
少し間があって、微かに唇が動いた。
「……パンを焼かなきゃ……」
ロイシュの喉が詰まった。
「もう、パンを焼かなくていい。
終わったんだ」
「……?」
ベルトの目に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
エルディアが脈を取り、慎重に言った。
「精神の一部が、装置の回路と焼き付いた状態だ。
すぐに元には戻らないだろう」
「……戻らない、のか」
「戻るまで、時間が必要だ。
そして……戻らない者も出るだろう」
その言葉は、重かった。
しかしロイシュは、それでも頷いた。
「それでも、生きている」
それだけが、今は救いだった。
◇ ◇ ◇
城下町の各所で、次々と覚醒が起き始めた。
人々が、ゆっくりと目を覚まし、
自分が何をしていたのか分からず、混乱に陥る。
「……俺は、なんでこんなところに?」
「パンを……並んで……それから……?」
誰もが同じ記憶の欠落を抱えていた。
役所の役人が駆けつけ、警備隊が通りを封鎖し、
城からも正式な調査隊が下りてきた。
だが――
地下の心臓について、
それをここで止めた者たちについて、
すべての真実を知る者は、まだ誰もいない。
◇ ◇ ◇
宿屋の女将は、昼頃になって正気を取り戻した。
ロイシュの姿を見るなり、怯えたように一歩下がる。
「……あたし、あんたに、変なパンを……」
「覚えているのか」
「ええ……夢みたいだけど……
自分が空っぽの箱になったみたいで……」
女将の声は震えていた。
「……怖かった」
ロイシュは、ただ静かに頭を下げた。
「助けられなくて、すまない」
「いいえ……
生きているだけで、十分よ」
女将はそう言って、泣いた。
それが、ロイシュにとって
装置を止めた実感が初めて現実になった瞬間だった。
◇ ◇ ◇
リナは、地下から地上へ戻ってから一言も発していなかった。
石は、もはや光っていない。
ただの、少し変わった模様の石に戻っている。
それを両手で包み込み、じっと見つめている。
「……終わった、のかな」
ようやく、彼女はそう呟いた。
「ああ」
ロイシュは答えた。
「戻れって声は……もう、聞こえない?」
リナは、ゆっくりと首を縦に振った。
「……静かです。
すごく……怖いくらい、静か」
タエンは、娘の頭にそっと手を置いた。
「それが、本当の人の世界なんだろう」
◇ ◇ ◇
夕刻、エルディアは王城の使者に呼び出された。
地下で何が起きたのか――
完全な説明をするべきかどうか迷いながらも、
彼は真実の三割だけを伝えた。
地下に古代の制御施設があること。
それが暴走していた可能性が高いこと。
そして、すでに機能を停止したこと。
王城の判断は、早かった。
――正式発表は「原因不明の地下水異常と集団精神錯乱」。
装置という言葉は、どこにも残されなかった。
「国は、知らないままを選んだ」
エルディアは戻るなり、そう言った。
「知らなければ、責任も生まれない。
だが……」
「だが、次に壊れるものがあっても、
もう勝手に直される世界じゃない」
ロイシュは、静かに言った。
「その通りだ」
◇ ◇ ◇
数日後。
首都から、赤い小麦はすべて回収された。
甘すぎるパンも、市場から消えた。
パン屋ベルトの店は、しばらく休業となった。
彼は今も治療を受けている。
北の氷室では、翌年から雪が溶けるという現象が現実の問題として残り、
東の森では、削れた跡が二度と自然に戻らなくなったと報告が届いた。
西の池もまた、完全な透明ではなくなりつつある。
すべてが――
少しずつ、人の努力が必要な世界へと戻り始めていた。
◇ ◇ ◇
ロイシュは、首都の城下町の外れで、馬車の荷を整えていた。
タエンとリナは、西の街へ戻る準備をしている。
「……ここで別れ、だな」
タエンが言った。
「ああ。
俺の仕事は、また物を運ぶだけに戻る」
「だが、お前さんはもう、
世界を一度ひっくり返した商人だぞ」
ロイシュは、小さく笑った。
「誰にも知られなければ、
ただの岩塩商人のままだ」
リナが、ロイシュの前に立った。
「……ありがとうございました」
小さな声だが、はっきりした声だった。
「あなたが選ばせてくれなかったら、
わたしは……戻っていたかもしれません」
ロイシュは、少し困ったように頭を掻いた。
「俺は、ただ――
誰かに決められるのが、嫌いなだけだ」
リナは、小さく笑った。
「……わたしも、です」
タエンはリナを馬車に乗せ、西へ向かう道へと歩き出した。
リナは、最後に一度だけ振り返った。
ロイシュは、何も言わずに手を上げた。
それで、十分だった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
ロイシュは一人、宿の屋根の上から、街を見下ろしていた。
煙が立ち、パンの匂いが漂い、
人々はまた、ぶつかり合いながらも、自分の足で歩いている。
「……管理のない世界は、不便だな」
誰にともなく呟く。
そして、空を仰いだ。
「だからこそ……生きている、って感じがする」
風が吹き抜ける。
もう、地下から応える鼓動は返ってこない。
この国は、
誰にも管理されない世界になった。
あとは――
人が、どう生きるかだけだ。
ロイシュは、ゆっくりと馬車に戻った。
再び、物を運ぶために。
再び、
ただの商人として、世界を巡るために。




