第8話 世界の心臓
第8話 世界の心臓
地下回廊の奥へ進むにつれ、空気はさらに重く湿り気を増していった。
水の匂いが濃くなる。
それと同時に、どこか甘い匂いが混じり始めた。
首都のパンと同じ、あの胸の奥をざわつかせる匂い。
足元の水は、もはや浅い水たまりではない。
くるぶしの高さまで満ち、歩くたびに水音が回廊に反響した。
ゴウン……
ゴウン……
ゴウン……
鼓動は、はっきりと近い。
「……この音、街の下からずっと聞こえてたのか」
タエンの声は低く、重かった。
「人は、気づいても気にしなかっただけだ」
エルディアが静かに答える。
「長く続く安定は音に慣れる。
異常が常態になれば、それは普通になる」
回廊の先が、ふいに開けた。
そこは、巨大な地下円形空間だった。
直径は、広場ほどもある。
中央には、巨大な水の柱が立っていた。
天井から床まで途切れずに流れる、青白く発光する水の柱。
その内部に――
結晶のような核が浮かんでいる。
脈打つたびに、光が波となって空間全体へ広がり、
それに合わせて、地鳴りのような鼓動が鳴り響く。
ゴウン……
ゴウン……
ゴウン……
「……これが、この国の心臓か」
ロイシュの声は、思った以上に震えていた。
壁面には、五方向へ伸びる太い水路が刻まれている。
北、東、南、西、そして上――首都へ。
「氷、水、森、風、人の心……」
エルディアが、息を詰める。
「五系統すべてが、ここに繋がっている」
そのとき――
リナの石が、これまでで最大の輝きを放った。
布越しにでも分かるほど眩しい光。
同時に、水の柱の中の核が同じリズムで強く明滅した。
「……同調、している」
エルディアが呟く。
「石は、この核の欠片だ。
外部に流出した制御核……だから、装置が暴走した」
リナが苦しそうに胸を押さえた。
「……呼ばれてる。
ここに……戻れ、って」
「戻るな!」
ロイシュは、とっさに彼女の肩を掴んだ。
「石はお前のものじゃない。
お前は、誰の部品でもない」
核の明滅が、一瞬だけ乱れた。
エルディアの目が見開かれる。
「……人の意思に、反応している!」
その瞬間、水柱の内部で像が形を結び始めた。
先ほどの番人とは比べ物にならない。
人の形に似ているが、その背は倍以上。
全身を光の回路のような紋様が走り、水が鎧のようにまとわりついている。
中枢管理体。
本物の番人だ。
その存在が、低く、空間そのものを揺らすような声を発した。
『――照合完了。
外部制御核、回収対象。
異常個体、排除対象。』
感情のない、ただの処理音声。
タエンが唸った。
「……娘を物として認識してやがる」
ロイシュは一歩、前に出た。
「リナは核じゃない。
人間だ。
装置の部品として扱うな」
『――命令不適合。
感情干渉、不要。
循環安定を最優先とする。』
中枢管理体の周囲で、水が渦を巻いた。
「来るぞ!」
エルディアが叫び、薬袋から粉末を床に撒いた。
水に触れた瞬間、白い煙が上がる。
「一時的に水流を乱す!
だが長くはもたん!」
管理体が腕を上げる。
水の柱の一部が裂け、巨大な水刃となって放たれた。
タエンが斧で迎え撃つ。
衝撃で水が弾け、床一面が水浸しになる。
「ロイシュ!核だ!」
エルディアが叫ぶ。
「石と同調している以上、
人の意思が一番、干渉できる!」
ロイシュは、リナの前に膝をついた。
「……選べ」
「え……?」
「この石と、この装置をどうするか。
止めるか、戻すか。
それを決められるのは――お前だ」
リナの瞳が震えた。
「……わたしが?」
「お前は選ばれたんじゃない。
巻き込まれただけだ。
だからこそ、選ぶ権利がある」
管理体が、再び水流を収束させる。
次の一撃は、回廊ごと吹き飛ばす規模だった。
リナは、石を強く抱きしめた。
「……ずっと、見られていました。
夢の中で。
水の底から」
彼女は、震える声で続ける。
「でも……わたしは、
上で、お父さんと、
この人たちと、生きたい……!」
その言葉と同時に、
石が、これまでにない純白の光を放った。
核の明滅が、大きく乱れる。
『――警告。
循環安定率、急低下。
制御系統、再構成不能。』
エルディアが叫んだ。
「今だ!
人の意思が、装置の優先権を上回っている!」
ロイシュは、短剣を構え核へ向かって駆け出した。
管理体が、それを遮ろうとする。
だが、水流が命令どおりに動かない。
混乱している――
人の選択という想定外の入力に。
ロイシュは、最後の力を振り絞って跳んだ。
「……終わらせる!」
短剣が、
水柱の中心で脈打つ核へ――
深く、突き立てられた。
――キィィィィッ……!!
世界が、白く反転する。
鼓動が、止まった。
ゴウン……
ゴウン……
という音が、
途切れ、
途切れ、
そして――完全に消えた。
水柱が、崩れる。
中枢管理体が、声もなく霧散した。
光が、急速に褪せていく。
やがて、その場に残ったのは、
ただの水と、
砕けた核の欠片だけだった。
静寂。
長く続いた、この国の裏の鼓動が、
ついに――止まった瞬間だった。
ロイシュは、膝をついた。
「……終わった、のか」
エルディアは、震える指で地下水をすくい、
慎重に舌につける。
「……甘く、ない」
その一言に、全員が息を呑んだ。
「首都の依存現象は、もう広がらない。
森も、池も、
勝手に修正される世界は終わった」
タエンが、静かに呟く。
「……じゃあ、これからは?」
エルディアは、苦く笑った。
「これからは、人の世界だ。
飢えも、争いも、異常気象も、
全部、人の責任になる」
ロイシュは、リナの肩に手を置いた。
「それでも、俺たちは――
誰かに管理される安心じゃなく、
自分で選ぶ不安を選んだ」
リナは、目に涙を浮かべながら、
それでも確かに、頷いた。
地下空間の天井が、わずかに軋む。
「……戻ろう」
ロイシュは言った。
「この国の表の世界へ」
彼らは、壊れた心臓の跡を背に、
一歩ずつ、階段を上り始めた。
その先で待つのが、
平穏か、混乱か、再生か――
それはまだ、誰にも分からない。
だが少なくとも、
この国の未来は、
もう機械の選択ではなく、人の手に戻った。




