第6話 甘い街、崩れる心
第6話 甘い街、崩れる心
首都ホウランの城下町は、夜明け前だというのに妙に明るかった。
灯りの数が、明らかに多い。
酒場でも祭りでもないのに、通りという通りに人の影が溢れている。
皆、同じ方向を向き、同じ歩調で歩いていた。
――パン屋のある中央通りへ。
「……異様だな」
タエンが低く呟く。
「まるで、操られてるみたいだ」
ロイシュは馬車の速度を落とし、城下町の外周に沿うように進んだ。
人の流れに正面から突っ込めば、馬車ごと押し潰されかねない。
リナは膝の上の石を抱いたまま、固く目を閉じている。
石は今も、淡く、規則的に脈打っていた。
「……石が、町の中と呼応してる」
リナの小さな声。
「ずっと、胸の奥が引っ張られてるみたい」
ロイシュの喉がきゅっと鳴った。
(やはり、中心は首都だ)
彼は脇道へ馬車を滑り込ませ、自分が住む下宿の前で一度だけ止まった。
状況を確認するためにも、エルディアへ連絡を取らなければならない。
だが戸口の前には、先客がいた。
「……ロイシュ?」
聞き覚えのある声。
振り向けば、夜着のままの宿屋の女将が立っていた。
目の下には濃い隈。だが、その表情は妙に穏やかだった。
「こんな時間に……珍しいね」
「それはこっちの台詞だ。何かあったのか?」
女将は、ふっと微笑んだ。
「ええ……とてもいいことがあったの」
ロイシュの背に、冷たいものが走る。
「どんな?」
「パンを、もらったの」
女将は胸元から、小さな包みを取り出した。
中には、半分に切られた赤みがかったパン。
「これを食べたらね……
全部、どうでもよくなったの。
怖いことも、不安も、悩みも……」
その言葉は、やさしいが、どこか空っぽだ。
「女将――それは」
「大丈夫、大丈夫。
ロイシュも、食べる?」
女将は、躊躇なくパンを差し出した。
その瞬間、ロイシュの胸の奥から、強烈な衝動が突き上げた。
――ほしい。
――触れたい。
――口に入れたい。
理由はない。
意味もない。
ただ、渇望だけがある。
ロイシュは、歯を食いしばり、拳を強く握った。
爪が、掌に食い込む。
「……いらない」
絞り出すように言った。
女将は、ほんの一瞬だけ、不思議そうな顔をした。
だがすぐに、興味を失ったように視線を逸らす。
「そう……ならいいわ」
そして何事もなかったかのように、中央通りの方へ歩いていった。
その背中は、まるで帰巣本能に従う虫のようだった。
「……耐性、か?」
タエンが小さく言った。
「お前……石に近くにいた娘より、影響が弱い」
ロイシュは答えなかった。
だが、自分の身体が完全には染まっていないことは、肌で理解していた。
◇ ◇ ◇
三人は馬車を路地裏に隠し、徒歩で中央通りへ近づいた。
空気が、甘い。
小麦と、焼けた油と、砂糖ではない別の甘さ。
それが夜気に溶け、街全体を包み込んでいる。
やがて、パン屋ベルトの店が見えた。
――異様な光景だった。
店の前には、百人を超える人々が列を作っている。
誰一人として騒がない。
押し合うこともない。
ただ、静かに恭しく順番を待っている。
それは行列というより、参列に近かった。
店の奥では、まだ明かりが灯っている。
パンを焼く熱が、外にまで伝わってくる。
「……異常だ」
ロイシュは、低く呟いた。
列の中に、見覚えのある顔を見つけた。
首都で岩塩の納品を受け取っていた、役所の書記だ。
「おい……!」
ロイシュは、その男の腕を掴んだ。
「正気に戻れ!」
書記は、ゆっくりとロイシュを見下ろした。
その目は、笑っていた。
「……邪魔を、するな」
声は静かだが、どこか機械的だった。
「これは……必要な行いなんだ……」
そのとき、リナが小さく悲鳴を上げた。
石が、今までで一番強く光を放っている。
青白い光が、彼女の指の隙間から溢れ夜の街路を淡く照らした。
それに反応するように、パン屋の看板の奥――
店の地下から、同じ種類の光が脈を打つように漏れ出した。
「……下だ」
ロイシュは悟った。
「装置の枝が、この店の下にある」
彼は、意を決して列を割った。
「通してくれ。荷の確認だ」
商人として通用する、自然な口調。
人々は、何の疑問も抱かず、ただ必要な動きとして道を開けた。
三人は、パン屋の裏口へ回り扉を押し開けた。
◇ ◇ ◇
店の奥は、焼き釜の熱気でむせかえるほどだった。
そこに、ベルトがいた。
額に汗を流し、粉まみれになりながら、無心で生地を捏ねている。
「……ベルト」
ロイシュが呼ぶ。
ベルトは、ゆっくりと振り向いた。
その目も、やはりどこか遠い。
「……また来たのか。
今は忙しい。
選ばれた人に、パンを焼かなきゃならない」
「南東の小麦だな。
あれは、どこから来てる?」
ベルトは、一瞬だけ手を止めた。
「……水だ」
「水?」
「あの麦畑の地下水は、特別なんだ。
粉が甘くなる。
焼けば、人が……満ちる」
言葉の端々から、明らかな陶酔が滲み出ている。
(彼は……もう半分、喰われている)
ロイシュは、さらに踏み込んだ。
「その水は、どこへ流れている?」
「……下……
もっと、ずっと下だ」
そのとき、床下から――
ゴウン……
低く、巨大な鼓動のような音が響いた。
床板が、わずかに震える。
粉塵が宙に舞う。
外の行列が、一斉にざわめいた。
「来る……」
リナの声が、はっきりと告げた。
「下が、目を覚ましてる」
次の瞬間――
ベルトが、悲鳴とも呻きともつかない声を上げ、床に崩れ落ちた。
目を大きく見開き、口から泡を吹いている。
「……っ!」
ロイシュが駆け寄ると、ベルトの指が、石畳を掻きむしった。
「焼かなきゃ……
焼かなきゃ……
もっと……」
そして、ぴたりと動かなくなった。
息は、ある。
だが意識は、深く、深く沈んでしまった。
「……最初の崩壊者だ」
エルディアの声が、背後からした。
「……来てくれたのか」
「連絡を受ける前に街が狂い始めた。
嫌でも分かるさ」
薬師は、床下を睨み据える。
「この下に、確実に中枢から伸びる管路がある」
人の心を溶かす水。
森を修正する力。
空間を歪ませる装置。
すべてが――
この地下で、どこかに収束している。
ロイシュはベルトを一瞥し静かに言った。
「……下へ行く」
タエンが唸る。
「正気か。見て分からんのか。
もう人の手で触れていい場所じゃねえ」
「それでも、行く」
ロイシュは、リナを見た。
「石は、ここを指している」
リナは小さく頷いた。
「……ずっと、呼ばれてる」
エルディアが、ゆっくりと息を吐いた。
「なら決まりだな」
彼は、壁にかかっていた鉄製の扉に手をかけた。
それは、明らかに後から隠された地下通路の入口だった。
「この国の心臓を、
見に行こう」
その扉の向こうで、
長い長い時間、静かに壊れ続けてきたものが、
今、確かに――
目を覚ましつつあった。




