第5話 甘い狂気、追いかけてくる影
第5話 甘い狂気、追いかけてくる影
西の街シジマを発つのは、翌朝では遅すぎた。
ロイシュはそう判断した。
池が濁り、石が光り、そして元に戻った。
あれは偶発的な異変ではない。
石の存在そのものが、この場所を揺らしている。
「……今夜のうちに出る」
タエンの家の居間で、ロイシュは静かにそう言った。
油灯の下、タエンの顔は険しく娘のリナは黙って石を胸に抱いていた。
「首都へ?」
「まずは首都だ。
赤い小麦の件も、もう始まっている。
東の街の薬師――エルディアにも、すぐ連絡する」
タエンは机を拳で叩いた。
「ふざけるな……!
なぜ俺たちがそんな危険に巻き込まれなきゃならん!」
「巻き込まれているんだ。もうすでに」
ロイシュは、はっきりと言い切った。
「石がここにある限り、池はまた濁る。
次は戻らないかもしれない」
沈黙が落ちる。
油灯の炎が揺れ、その影が壁に細長く伸び縮みした。
リナが、かすれた声で口を開いた。
「……お父さん。
わたし、この街が好き。
だけど……最近、池の下から見られている気がする」
タエンの顔色が変わった。
「なにを、言ってる……」
「夢だけじゃない。
目を閉じてなくても、水の底から上を見上げてる視線を感じる」
ロイシュは、胸の奥が冷えるのを感じた。
(南の谷と同じだ)
「首都へ行こう。
今はその方が、まだ安全だ」
タエンは、しばらく娘の顔を見つめ、そして歯を食いしばった。
「……俺も行く」
「漁は?」
「もうどうでもいい。
娘の方が大事だ」
その一言で、すべてが決まった。
◇ ◇ ◇
出立は日が沈んでからだった。
ロイシュの馬車は、元の荷台から岩塩箱を降ろし、代わりに最低限の荷と水袋だけを積んだ。
リナは後部の簡易座席に座り、膝の上に布で包んだ光る石を抱えている。
タエンは馬車の後ろに立ち、いつでも斧を振れる姿勢を保っていた。
西の街の灯りが、静かに遠ざかっていく。
「……まさか、こんな形で故郷を出るとはな」
ロイシュが漏らすと、タエンは鼻で笑った。
「人生なんて、そんなもんだ。
俺は“魚と池”だけで終わるつもりだったがな」
街を抜け、湿地を離れる頃、背後から――
ザリ……ザリ……
あの音が聞こえた。
ロイシュは、すぐに手綱を引いた。
「止まれ」
馬車が止まる。
西の街の灯りの向こう、池のある方向から、
闇の中で“地面を削る音”が、こちらへ近づいてくる。
ザリ。
ザリ。
ザリ。
タエンが斧を構えた。
「……何か、掘って来ている」
そのとき、リナの石が、はっきりと光った。
淡い青白い光が、布の隙間から漏れ出す。
「来てる……」
リナの声は、恐怖よりも確信に近かった。
「石を、追ってきてる」
地面が、わずかに隆起した。
ぬかるんだ土の下で、何かが泳ぐように移動している。
姿は見えない。
だが進路は、一直線にこちらを指していた。
「走れ!」
ロイシュが叫び、手綱を強く打つ。
馬が嘶き、全力で駆け出した。
その直後――
背後の地面が、盛大に抉られた。
湿った土と水が宙を舞い、
それは顔を出さなかったが、巨大な影だけが月明かりを遮る。
「見えねえ……!」
「見えなくていい!止まるな!」
馬車は首都街道へと滑り込む。
石畳に入った途端、背後の削る音が、ぴたりと止んだ。
まるで――
街道の外には、出られないかのように。
ロイシュは歯を食いしばりながら、振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
夜通し走り続け、夜明け前、彼らは首都ホウランの外郭の麦畑へ辿り着いた。
黄金色の穂は夜露に濡れ、静かに揺れている。
だがそこに、異様な光景があった。
人々が、麦畑の中に跪いている。
道具も持たず、
祈るように、
まるで麦そのものを崇拝するかのように。
「……なんだ、あれは」
タエンが低く唸る。
畑の向こうには、城下町の灯り。
そこからも、パン屋へ向かう人の流れが、夜明け前から続いていた。
「赤い小麦が……ここまで」
ロイシュは、喉の奥が詰まるのを感じた。
リナの石が、また脈打つように光る。
それに呼応するように――
遠く城下町の中央で、青白い光が一瞬、走った。
南の谷と、同じ種類の光。
空間が、恥ずかしそうに“きしむ”感覚が、足元から伝わってきた。
「……装置が、完全に目を覚まし始めた」
ロイシュは、誰にも言っていないはずの結論を、思わず口にしていた。
そのとき、麦畑の中の一人が、ふらりとこちらを向いた。
目が合う。
その男の瞳は、焦点が合っていない。
だが、口元だけが、異様に満ち足りた笑みを浮かべていた。
「……パンを、食べないと……」
男はぶつぶつと呟きながら、こちらへ歩いてくる。
ひとり、またひとり。
麦畑の中で跪いていた人々が、次々と顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
全員が、同じ方向――
パン屋のある城下町の中心を向いている。
「……行列だ」
タエンが呟いた。
「それも、祈りの行列だ」
ロイシュは、リナの肩に手を置いた。
「石を、しっかり持っていろ。
ここから先、何が起きても――離れるな」
「……はい」
震えながらも、リナは強く頷いた。
首都ホウランは今、
穀物と甘さによって、
静かに、人の心を呑み込み始めていた。
そしてその中心で、
南の谷、東の森、西の池と共鳴する
何かが確かに、動いている。
ロイシュは馬車を走らせた。
世界の心臓へ向かって。




