第4話 濁る池、光る石
第4話 濁る池、光る石
東の街ハナカゲを発ったのは、森の修正を目の当たりにした翌日の朝だった。
荷台の岩塩はすでに納品済み。
今のロイシュの馬車は、空に近い。
だが心だけは、これまでで一番重かった。
(南で橋が狂い、首都で人の心が狂い、東で森そのものが戻された……)
そして今、向かう先は西の街シジマ。
自分の生まれ育った、静かな池の街。
何も起きないはずの場所。起きてほしくない場所。
エルディアは、別れ際にこう言った。
「もし中枢があるなら、西だ。
あそこは水脈が集まりすぎている。
装置があるなら、必ず水を使ってる」
ロイシュはその言葉を、何度も頭の中で反芻しながら、街道を西へと進んだ。
◇ ◇ ◇
西へ近づくにつれ、土地は次第に湿り気を帯びていった。
乾いた南の岩肌とも、花の匂いが満ちる東とも違う。
地面がやわらかく、空気が重く、足元のどこかで常に水音がしている。
やがて視界が開け、大小の池が幾重にも広がる光景が現れた。
――西の街シジマ。
風は弱く、空は静かだ。
水面は鏡のように空を映し、雲がゆっくりと流れている。
(……変わってない)
ロイシュは胸の奥で、ほっと息を吐いた。
少なくとも“見た目”は、いつもの故郷だった。
街に入ると、湿った土の匂いと、魚を干す匂いが混ざり合って鼻をついた。
行き交う人々の顔も見知ったものばかりだ。
「……ロイシュか?」
不意に、声をかけられた。
振り向くと、網を肩に担いだ壮年の漁師が立っていた。
西の街の腕利き――タエンだった。
「久しぶりだな。首都暮らしって聞いてたが」
「仕事で戻っただけだ。……あんたも、相変わらずだな」
二人は軽く言葉を交わした。
だがロイシュは、すぐに異変に気づいた。
タエンの網の中の魚が、どれも小ぶりなのだ。
しかも、水気がやや濁っている。
「最近、魚の具合がよくないのか?」
タエンは一瞬だけ、視線を池の方へ流した。
「……一部の池だけ、な。濁るようになってきた」
ロイシュの胸が、ひくりと跳ねた。
「昔は、こんなことなかったはずだ」
「俺もそう思う。
だが、不思議なことに……翌日には元に戻ってる」
修正。
東の森で聞いた言葉が、脳裏に重なった。
「濁ったまま、にはならないのか?」
「ならん。
だから皆、あまり気にしてない。
だが……」
タエンは、少し言い淀んだ。
「この前、娘が変なものを拾った」
ロイシュは、思わず息を呑んだ。
「……変なもの?」
「光る石だ。
池の浅瀬で見つけたらしい。
西の石にしちゃ、やけに綺麗でな。記念にって持ち帰らせた」
胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。
「その石……見せてもらえるか?」
「構わんが……急にどうした?」
「……仕事の延長だ」
嘘ではなかった。だが事実の一部しか言えない。
ロイシュはタエンの家へ案内された。
木造の素朴な家。昔、魚の買い付けに来たときに何度も訪れた場所だ。
戸を叩くと、奥から小さな足音がした。
「はい……?」
戸を開けたのは、まだ幼さの残る少女だった。
黒髪を後ろでまとめ、少し警戒した目でこちらを見ている。
タエンの娘――十四歳。
「……初めまして」
ロイシュは、ぎこちなく頭を下げた。
「父さんの知り合いだ。ロイシュっていう商人だ」
少女は小さく会釈したが、その視線はすぐにロイシュから逸れた。
奥へ案内され、居間の卓の上に、布に包まれたそれが置かれた。
「これだ」
タエンが布をほどく。
次の瞬間、ぼんやりと青白い光が室内に滲んだ小さな石だった。
水に濡れたような質感。
表面には、かすかな文字のような模様。
ロイシュの背筋に、ぞくりとしたものが走った。
(南の谷で見た、あの光と……同じだ)
「娘が拾ってきたとき、大したもんだと思ったが……」
タエンの言葉が、遠のく。
ロイシュの視線は、石から離れなかった。
そのときだった。
石が――ごく微かに、脈打つように光った。
同時に、ロイシュの胸の奥に、奇妙な圧迫感が走る。
まるで、水の底から何かに握られたような感覚。
「……触るな」
彼自身も気づかぬうちに、そう呟いていた。
タエンと娘が、同時にロイシュを見る。
「触らない方がいい」
「どうしてだ?ただの石だろう?」
「……ただの石じゃない」
言葉にした瞬間、ロイシュは確信していた。
この石は――源だ。
そのとき、外でどよめきが起きた。
「おい!池が……!」
誰かの叫び声。
ロイシュ、タエン、そしてタエンの娘は同時に外へ飛び出した。
家の裏手の池。
ふだん澄みきっているはずの水面が、黒く濁っていた。
しかも、それは自然な濁りではない。
水の“中”が、まるで煙のように揺れている。
「昨日までは、確かに澄んでいた……!」
集まった漁師たちの声が震える。
そして――
池の中央が、わずかに盛り上がった。
水が押し上げられるように、円を描いて膨らむ。
その瞬間、ロイシュの視線が無意識に石へ戻った。
石が、先ほどよりもはっきりと光っている。
「……連動している」
ロイシュの喉から、かすれた声が漏れた。
池の水が揺れ、闇のような影が水底を這う。
それは生き物ではない。
だだ動きだけは、確かに存在していた。
タエンの娘が震えた声で言った。
「……この石、拾ってから時々……夢を見るんです」
ロイシュは彼女を見た。
「どんな夢だ?」
「……水の底。すごく深いところから、
上を見てる夢です」
背筋を、冷たいものが貫いた。
南の谷で、自分が見た光景。
谷底のさらに下から、こちらを見上げていた何か。
それと同じだ。
「……タエン」
ロイシュはゆっくりと言った。
「その石は、この国の異変の中心にある可能性が高い」
「……なんだと?」
「南で、東で、首都で、
すでに世界は、少しずつ狂い始めている」
タエンは言葉を失った。
タエンの娘は石を胸に抱きしめたまま、震えている。
池の水はやがて静まった。
黒い濁りも、数分で嘘のように消えていく。
だがロイシュは、確信していた。
これは始まりだ。
石がここにある限り、
この国の修正された平穏は、いつか必ず破綻する。
ロイシュは、ゆっくりとタエンの娘の前に膝をついた。
「……君の名前を、教えてくれるか」
少女は少し戸惑ったあと、か細い声で答えた。
「……リナ」
「リナ。その石は、もうただの拾い物じゃない。
この国すべてを揺らす鍵になってしまった」
彼は、はっきりと言った。
「首都へ来てほしい。
そして、東の街の薬師エルディアにも会ってほしい」
タエンが叫ぶ。
「ふざけるな!娘を危険な場所へ――」
「放っておいても、危険は向こうから来る」
ロイシュは、初めて感情を強く滲ませた。
「さっきの池がその証拠だ」
沈黙が落ちた。
風のない西の街で、
水だけが、微かに音を立てて揺れていた。
こうして――
ロイシュは、世界循環装置の心臓部と、
最初の 運命的な同行者 に出会ったのだった。




