終章 奇跡が、ただの仕事になった世界で
後日譚 当たり前になった不便
北の街の冬は、昔よりも少しだけ寒い。
それは、もう勝手に冷える地下がないからだ。
だが、その寒さを誰も恨んではいない。
氷なき氷室の横にある、小さな学び舎。
石造りの教室で子どもたちが円になって座っていた。
年は八つから十くらい。
中央に座るのは、
白髪の語り部――
かつてユイの部下だった、老職人の女性だ。
「いいかい、今日は装置の時代のお話だよ」
子どもたちは、一斉に身を乗り出した。
「またその話ー?」
「でも好き!
勝手にパンが腐らない時代のやつでしょ?」
語り部は、少し困ったように笑った。
「……そうさ。
でもね、あれは楽しい話じゃないんだよ」
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
「昔はね、
この街の下に、
何もしなくても冷える穴があった」
「えー、ずるい!」
「ワシら、
寒いのに薪くべなきゃいけないのに!」
語り部は、首を横に振った。
「……ずるい、なんて言葉じゃ足りないよ。
その穴は――
人の代わりに、世界が働いていた場所だった」
「氷も、塩も、
腐らない食べ物も、
全部、誰かが奪われて回っていた」
子どもたちは、少し静かになった。
「……誰が、奪われてたの?」
ひとりの小さな子が、ぽつりと聞いた。
語り部は、
少しだけ、言葉を探してから答えた。
「……見えない所にいた、誰かさ。
だから、大人たちは、
それに気づいた時、
とても苦しんだ」
「その頃にいたのが――
止める男と、
救う女と、
測る少女だ」
子どもたちは、目を輝かせる。
「それって、ロイシュさんと、ユイ先生と……」
「そう。
そして――
リナ様だ」
語り部は、ゆっくり続けた。
「リナ様はね、
最初はただの漁師の子だった。
川もなく、
装置に守られた世界で、
命を受け取るだけの人だったんだ」
「でもある時、
世界の仕組みを知ってしまった」
「その瞬間から――
自分の意志で、
誰かを助ける人になった」
子どもの一人が、小さく言った。
「……それって……
こわくなかったの?」
語り部は、静かに頷いた。
「……とても、怖かったろうね。
流れに身を任せる方が、
ずっと楽だったろう」
「でも、
リナ様は……
楽な世界より、
壊れない世界を選んだ」
教室は、しんと静まった。
語り部は、焚き火の向こうで、子どもたちの顔を見渡した。
「今のみんなは、
冬は寒く、
夏は暑く、
パンは固くなり、
魚は腐る」
「それでも――
それが、生きている世界だ」
子どもたちは、互いの顔を見て、
少しだけ照れたように笑った。
「氷を作るには、
人が測って、
人が守って、
人が失敗して……
それでも、
また直している」
「その当たり前は、
昔は――
奇跡だったんじゃない。
取り戻した不便だった」
一番年下の女の子が、手を挙げた。
「ねえ。
リナ様って、
えらい人だったの?」
語り部は、少し考えてから答えた。
「……えらいというよりね、
自分で歩くことをやめなかった人だよ」
別の子が聞いた。
「じゃあ、
ロイシュさんと、
ユイ先生は?」
「ロイシュさんは、
つなぐことをやめなかった人。
ユイ先生は、
測ることをやめなかった人さ」
子どもたちは、満足そうに頷いた。
語り部は、ゆっくり立ち上がった。
「……この話は、
もう冒険譚じゃない」
「でもね――
当たり前の毎日そのものが、
昔は命がけの選択だったってことだけは、
忘れないでおくれ」
外では、
人の手で守られる氷室から、
小さな蒸気が立ち上っている。
それを見ながら、
子どもたちは、いつも通りの声で言った。
「ねえ、明日は氷割り当番だよね!」
「やだー、指冷たいもん!」
「でもさ、
あれ、先生が世界を救った冷たさなんでしょ?」
語り部は、焚き火のそばで静かに笑った。
「……そうさ。
でも今はもう――
ただの冷たさだよ」
それが、
この世界が、本当に救われた証だった。
終章
「奇跡が、ただの仕事になった世界で」




