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四嶺の国  作者: ネージュ
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ユイ壮年編 氷のない冬に、氷が生まれる日


ユイ壮年編 氷のない冬に、氷が生まれる日


 北の街に、久しぶりに大雪が降った。


 屋根は白く埋まり、

 通りは音を吸い込んだように静まり返る。


 だが――

 かつて、この街の命脈だった地下氷室は、

 もう冷気を宿していなかった。


 そこは今、

 ただの石造りの巨大倉庫。


 氷を頼らず、

 冷気を奪わず、

 人の知恵と、わずかな自然の力だけで

 冷やす場所へと生まれ変わろうとしていた。


 


 その中央で、

 一人の女性が設計図を見下ろしている。


 ユイ・ハルフィン、三十五歳。


 かつて測る少女と呼ばれた彼女は、

 今では氷なき氷室の責任者だった。


「……地熱遮断板、設置完了」


 若い職人が報告する。


「外気導入孔、準備できてます」


「水路温度、基準内!」


 ユイは、小さく頷いた。


「……よし。

 第一冷却循環、起動します」


 それは、かつての奪う循環とは、正反対の技術。

 外気の冷えを少しだけ借り

 井戸水の低温を少しだけ循環させ

 地熱を断って、ゆっくりと逃がす


 奪わない。

 押し付けない。

 ただ、もらいすぎない設計。


 石壁の奥で、

 低い水音が、静かに走った。


 ……一時間後。


 庫内の空気が、確かに変わった。


 息が、白くなる。


 石床に置かれた金属盆の水が、

 ゆっくりと、

 だが確実に――

 薄い膜を張り始める。


「……氷……」


 誰かが、呟いた。


「……人工でも、魔法でもない……

 人の冷却で、生まれた氷……」


 パキ、と、

 小さな音を立てて、

 水面が凍りきった。


 ユイはその氷をそっと指で触れた。


 ――冷たい。


 あの日、

 第二の心臓の前で震えた温度計の冷たさとは、

 まったく違う冷え。


 奪っていない冷たさ。


 ユイは、静かに目を閉じた。


「……できた……」


 かつて、

 氷室を犠牲にする決断をした少女は、

 その氷室を、

 まったく別の形で、取り戻したのだった。


 同じ雪の日。


 北の街から少し離れた、小さな診療所。


 そこに――

 白衣を着ていない、リナの姿があった。


 年は五十四を越えていた。


 いつも治療の最前線で戦い続けた彼女は

 先日病で倒れベットで眠っていた。


 ベッドの脇には、

 薬草の鉢。

 乾いた包帯。

 そして――

 古い小さな石。


 かつて、最初の循環を呼び覚ました石。


 そこへ、

 雪の匂いを連れて、

 ユイが入ってきた。


「……先生」


 リナは、薄く目を開け、

 すぐに分かった。


「……氷、できたのね」


 ユイは、息を呑んだ。


「……どうして……」


 リナは、かすかに笑った。


「……あなたの歩く音が……

 あの日より軽いから……」


 ユイは、泣きそうな声で言った。


「……先生、

 街は……

 もう、勝手に冷えません……」


「……ええ」


「……でも、

 ちゃんと……

 冷やせます……」


 リナの目に、わずかに涙が浮かんだ。


「……それでいいのよ……」


 夜。


 雪の音だけが、診療所を包む。


 リナは、ユイの手をゆっくりと握った。


「……わたしはね……

 救えない命を、

 たくさん見てきた……」


「……装置の時代も……

 その後の混乱も……」


 かすれる声で、続ける。


「……でも……

 あなたたちの世代は……

 救われない世界を……

 支える世界にした……」


 ユイの涙が、

 ぽとりと、落ちた。


「……先生……

 わたし……

 ちゃんと……やれましたか……」


 リナは、最後の力で、

 はっきりと頷いた。


「……ええ……

 あなたは、

 測る者として……

 選ぶ者として……

 最高の管理者よ……」


 そして、静かに、こう言った。


「……最後に……

 ひとつだけ、処方を出すわ……」


「……はい……」


「……自分を休ませなさい……」


 笑顔でその言葉を最後に、

 リナの胸は、

 もう、上下しなかった。


 外では、雪が、

 音もなく降り続いていた。


 リナの葬儀は、

 北の街らしく、

 静かで、小さなものだった。


 雪解け水で清められた身体。

 花の代わりに、

 薬草の束。


 ユイは最後に、

 そっと、

 あの小さな石を

 棺の中に置いた。


「……先生……

 もう……

 循環は、起きません……」


「……だから……

 安心して……

 見なくていいです……」


 数日後。


 氷なき氷室・正式稼働の日。


 北の街に初めて、

 人の手で守られる氷室が誕生した。


 ユイは、完成した氷室内で、

 若い職人たちに言った。


「……この氷は、

 奇跡じゃありません……」


「……誰かが壊れないように、

 毎日測って、

 毎日直して、

 毎日、祈りすぎないようにして……」


「……そうして、

 保っているだけの、

 氷です……」


 誰も、拍手はしなかった。


 ただ、

 全員が、深く、頷いた。


 ユイは、

 倉庫の外へ出て、

 雪解けの空を見上げた。


 氷室はもう、

 奪う冷えではない。


 リナも、

 ロイシュも、

 もう、ここにはいない。


 だが――

 彼らが止めたものと、

 つないだものは、

 確かに、ここで生きている。


 


 ユイは、小さな温度計を胸にしまい、

 静かに歩き出した。


 


 ――測る者は、

 もはや守られる存在ではない。

 守る者として、世界を歩き続ける。



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