ロイシュ晩年編 商人が荷を降ろす日
ロイシュ晩年編 商人が荷を降ろす日
首都の朝は、かつてよりもずっと静かになっていた。
暴動も、奇跡も、
もう何年も前の出来事だ。
市場には今も人が集い、
北の野菜、東の薬草、南の岩塩が並ぶ。
ただ一つだけ違うのは――
誰も、永遠に保存できるものを期待しなくなったということだけだ。
ロイシュは、馬車の上でゆっくりと背伸びをした。
年は六十三。
腰は痛むし、長旅の翌日は必ず熱が出る。
それでも彼は、今日も馬車を引いていた。
「……まったく、
引退するって言い出したのは……
何年前だったか」
馬の首をぽんと叩く。
積んでいるのは、
南の岩塩、北の干し魚、東の薬草。
いつもの荷であり、
そして――最後の商いの荷でもあった。
首都の商人組合の建物は、昔よりも小さく見えた。
それは、建物が縮んだのではない。
ロイシュの肩が、少し丸くなっただけだ。
受付の若い職員が驚いた顔で立ち上がる。
「……ロ、ロイシュ様……!
今日は納品ですか……?」
「いや。
今日は名前を下ろしに来た」
職員は一瞬、言葉を失った。
「……それは……
つまり……」
「引退だ」
ロイシュは、あっさり言った。
組合の奥から、古参の役人が出てくる。
「……ついに、ですか……
止めた男が、
今度は降りる側になるとは」
「……そう言うな」
ロイシュは、小さく笑った。
「……俺は、
止めたんじゃなく、
降りただけだ」
その夜。
宿の部屋で、ロイシュは一通の手紙を受け取った。
封蝋は薄青。
差出人――北の街・氷室管理署。
中には、たった二行だけ、丁寧な文字が並んでいた。
> ロイシュさんへ
> 新しい氷室一号、
> 今日、初めて氷ができました。
>
> ――ユイ
ロイシュは、しばらく、その手紙を見つめていた。
「……ああ……
そうか……」
氷室が冷気を奪われて止まったあの日から、
人の手で氷を作るまで、十年以上。
「……ちゃんと、続いてるな……」
商人は、
世界が止まらずに続いていると知ったとき、
初めて、
自分が降りる意味を得る。
引退前の最後の旅路として、
ロイシュは、あえて南の谷を選ん。
あの燃えた鉱脈。
あの第二の心臓が眠っていた場所。
谷は、すっかり静かになっていた。
赤い雲も、
焼けた岩も、
もうない。
ただ、冷たい風と、
普通の岩塩の匂いがあるだけ。
かつての警備隊長だった男が、老いて門番をしていた。
「……またきたか、商人」
「……ああ。
燃える谷の最後の客だ」
「……あれ以来、
この谷じゃ、
きれいすぎる石は嫌われるようになってな」
「……それでいい」
ロイシュは、崖の下を見つめて言った。
「石は、
汚れて、欠けて、
それでも――
岩塩であるべきだ」
帰路の途中、首都郊外で、
ロイシュは一軒の小さな食堂に立ち寄った。
若い店主が、少し緊張した声で言う。
「……ロイシュ様、
こんな小さな店にまで……」
「最後の客になると思ってな」
「……最後……?」
ロイシュは、ゆっくりと岩塩の袋を差し出した。
「これで、お前の店の塩は終いだ」
「……え……?」
「次からは、
お前が選べ。
どこの塩を、
誰から買うか」
若者は、しばらく黙ってから、深く頭を下げた。
「……教わった値段の付け方も、
危ない匂いの見分け方も……
忘れません」
ロイシュは、照れたように言った。
「……忘れてもいい。
自分の感覚だけは、信じろ」
それが、
商人が後進に残せる、
最大の財産だった。
首都の南門。
ロイシュは、ついに馬車を降りた。
岩塩も、干し魚も、
もう積んでいない。
空の荷台。
彼は、ゆっくりと馬具を外し、
最後に、こんなふうに言った。
「……お前は、
ずいぶん長い距離を、
俺と一緒に歩いたな」
馬は、静かに鼻を鳴らした。
荷を降ろし終えた瞬間、
ロイシュの背から、
何十年分もの責任が、
すっと抜けた。
その日、彼は商人組合へ戻らなかった。
向かったのは、首都の外れ、
小さな丘――
夕焼けが一番よく見える場所。
彼は、腰を下ろし、
空を見上げた。
「……ああ……
世界は、まだ、
回ってるな……」
勝手には回らない。
だが――
誰かが必死に、
今日もつないでいる。
ロイシュは、ゆっくりと目を閉じた。
その背には、
もう商人の荷はない。
あるのはただ――
一人の人間として生き切った、重さだけだった。
風が吹いた。
南から、ただの岩塩の匂い。
北から、普通の冷たい空気。
東から、乾いた薬草の香り。
それらが、
静かに、混ざり合った。
――そして、ロイシュは、
商人ではない名前で、
この世界の循環に、
そっと還っていった。
---ロイシュ晩年編・完




