第3話 削られる森、語られる理屈
第3話 削られる森、語られる理屈
首都を発ったのは、翌朝のまだ空気が冷たい時間だった。
ロイシュは岩塩を積んだ馬車を東街道へ向けて走らせていた。
東の街ハナカゲへは、首都から丸一日とかからない。
薬師への納品と、そして――昨夜決めた“相談”。
(迷信は信じない。だが、現実として説明がつかない以上、理屈の専門家に聞くしかない)
谷の橋の異変。
赤い小麦の甘さ。
人々の“求めすぎる心”。
それらが偶然であるとは、どうしても思えなかった。
昼前、遠くに色とりどりの花が見え始めた。
春から夏にかけて、街の周囲を埋め尽くす花畑――東の街ハナカゲだ。
染料職人たちの工房からは、色水を煮出す甘苦い匂いが漂い、薬草を干す軒先には山の香りが混じる。
首都とも南とも違う、生命の匂いが濃い街。
ロイシュは城下町も城もない、この開けた街並みを抜け、いつもの裏通りへ馬車を寄せた。
そこにあるのは、薬師 エルディアの小さな店だ。
扉を開けると、乾いた薬草の匂いと、かすかに甘い酒の残り香が鼻をついた。
「……おや。今日は昼間から珍しいね、岩塩商人さん」
棚の奥から現れたのは、浅黒い肌に鋭い目をした若い男性薬師――エルディアだった。
いつもの酒場ではだらしない笑顔を見せるが、仕事中の顔は別人のように真剣だ。
「注文通りの岩塩だ。質はいい」
「ありがたく。今度は傷薬の調合に使う予定でね」
ロイシュは帳面を出し、いつものように取引を済ませる。
儀式のように繰り返してきたやり取りだが、今日はやけに早く終わった。
沈黙が、短く落ちた。
ロイシュは一度だけ、外の花畑へ視線をやった。
「……今日は、仕事以外の話もある」
エルディアは一瞬だけ意外そうな顔をし、すぐに頷いた。
「裏の作業場へ。あそこなら、誰も聞いてない」
◇ ◇ ◇
作業場の中央には、乾燥台と石の調合机。
壁には刃物や試験管が雑然とぶら下がっている。
ロイシュは、南の橋で見たすべてのことを、最初から最後まで語った。
終わらない橋。
人の消えた道。
光る雲。
崩壊。
そして、首都での赤い小麦のパン。
話し終えたとき、喉がひどく渇いていることに気づいた。
「……」
エルディアはしばらく黙っていた。
石机の上で指を組み、視線だけを床へ落とす。
「夢や幻覚、の可能性は?」
ロイシュは即答した。
「俺が最初に否定した。だが、あの灰の粉がある。触れる」
「……なるほど“物理的な痕跡あり”か」
エルディアは小さく息を吐いた。
「首都のパンの話も、本当だな。ここへ来る商人たちの間でも噂になってる。
甘すぎるのに、食べてしまうって」
「依存を起こす物質が混じってる可能性は?」
「調べた。毒でも薬でもない。普通の小麦の成分だ。
ただ――」
エルディアは、言葉を一区切り置いた。
「水の成分が、異常だった」
「水?」
「首都の地下水だ。麦は水を吸って育つ。
その水に、ごく微量の“感情刺激性の何か”が混ざっている」
ロイシュの眉が寄る。
「……そんなものが、自然に?」
「通常はありえない。だが“装置”があるとしたら別だ」
「装置?」
エルディアは、ロイシュの目をまっすぐに見た。
「昔話じゃない。伝承にも残ってない。
けど、各地の薬師や染師の古い記録を読み漁って、ひとつだけ共通項が出てきた」
彼は棚から一冊の古い帳面を取り出し、開いた。
「この国の地下水、風、森、氷、空間。
性質が均等すぎるんだ。
異常が起きても、必ず元に戻るように修正されている記録が、何百年分もある」
頁には細かい書き込みが並んでいた。
水温、植物の再生速度、霧の消えるまでの時間、風向きの変化。
「まるで――」
エルディアは低く言った。
「まるで、誰かが“裏から世界を調整している”みたいだろ?」
ロイシュの背中に、冷たい汗が伝った。
「それが、南の橋にも関係していると?」
「おそらくな。
空間の長さが狂うのは、自然現象じゃない。
固定装置の誤作動に近い」
そのときだった。
外から、妙に乾いた音が響いた。
――ザリ、ザリ、ザリ。
まるで、地面を削るような音。
ロイシュとエルディアは同時に顔を上げた。
「この音……」
「昨日から、森の奥で起きてる」
エルディアは急いで薬袋を腰に下げると、外へ飛び出した。
ロイシュもそれに続く。
街外れ、森の入口。
そこには、数人の狩人と薬師見習いたちが集まっていた。
「見ろ……」
誰かが、震える声で言った。
森の木々の根元。
地面が“えぐられたように”抉れている。
獣の爪でも、人の道具でもない。
まるで、巨大な匙で、土と根と岩を一緒に掬い取ったような、滑らかな削り跡。
「昨日の朝までは、こんなものはなかった」
狩人が唸る。
「夜の間に……か?」
ロイシュは、喉の奥が乾くのを感じながら、削り跡に近づいた。
――ザリ。
その瞬間、音が、足元のさらに奥から響いた。
地面の向こう側。
見えない地下の空間で、何かが動いている。
そして、次の瞬間。
削り跡が、じわりと――元の地面へと戻り始めた。
土が盛り上がり、根が戻り、岩が埋まる。
数呼吸も経たぬうちに、そこは何もなかった森の姿に戻ってしまった。
「……戻った?」
「違う……修正されたんだ」
エルディアの声は、静かな確信を帯びていた。
「ロイシュ。これで確定だ」
彼は、はっきりと言った。
「この国の地下には、
水・森・風・空間・人の心を、同時に制御している何かがある。」
ロイシュは、拳を握り締めた。
南の橋。
首都のパン。
そして今、東の森。
点だった異変が、一本の線として繋がった瞬間だった。
「……なら、その何かは今、壊れかけているんだな」
「間違いない。しかも、かなり深刻にだ」
エルディアは、森の奥を見つめたまま続けた。
「西の街。あそこには、この国でもっとも古い水脈が集中している。
もし本当に中枢があるとしたら……」
「……西か」
ロイシュの脳裏に、故郷シジマの静かな池と、漁師タエンの姿が浮かんだ。
そして――
まだ言葉すら交わしたことのない、あの娘の姿。
そのとき、ロイシュはまだ知らなかった。
自分がこれから向かう西の街で、
この異変の真の引き金に触れることになるとは。




