次世代編 第9話 最後の商談
次世代編 第9話 最後の商談
首都の夜は、まだ騒がしかった。
暴動はひとまず沈静化したが、
人々の心のざわめきまでは、まだ収まっていない。
腐らない食。
失わない未来。
その甘い幻想は、
まだ、街のあちこちに残っていた。
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ロイシュは、一人首都の地下へと向かっていた。
かつて――
世界の心臓へと続いていた、旧管理用の地下通路。
今は封鎖され、誰も使っていない。
だが、彼だけは知っていた。
循環には、必ず人の出入り口が残される
ということを。
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地下通路の最深部。
そこに現れたのは――
第二の心臓へと直接つながる、
最も細く、最も脆い管だった。
冷気も、熱も、
はっきりとは流れない。
ただ――
人の欲だけが通る管。
「……やっぱりな」
ロイシュは、ゆっくりと息を吐いた。
「……お前は、
力よりも、
欲の流れを選びやがった……」
彼は、腰の袋から一つの包みを取り出した。
中身は――
腐らないパンと、赤い小麦の粉と、溶けない岩塩。
すべて、第二の心臓が生み出した異常の産物。
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「……聞こえてるだろ」
ロイシュは、暗闇に向かって静かに言った。
返事はない。
だが、
足元の管が――
かすかに、脈打った。
ゴウン……
ゴウン……
それは、
交渉の席についたという合図だった。
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「商談だ」
ロイシュは、異常なほど静かな声で言った。
「お前は、
奪う仕組みとして生まれた」
「だが今は、
奪う対象がいなければ、
生きられない存在だ」
管の内側で、
赤黒い光が、にじむ。
応答のように、
わずかに、振動が変化した。
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「……いいか」
ロイシュは、包みを一つ管の上に置いた。
腐らないパンが、
赤い光に照らされて、不気味に艶めく。
「これは、お前の餌だ」
「人が恐れて、
欲しがって、
縋ろうとする価値の塊だ」
もう一つ、包みを置く。
「だが、
これ以上、お前が伸びれば――
人は、必ず気づく」
「これは救いじゃないと」
ロイシュの声は、低いが確実だった。
「そうなった瞬間、
お前は、奪う相手を失う」
ゴウン……
ゴウン……
心臓の脈動が、わずかに乱れた。
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「だから、条件を出す」
ロイシュは、最後の包み――
溶けない岩塩を、静かに置いた。
「お前が、
自分から流れを縮めるなら、
人は一時的に、
お前を奇跡として守る」
「だが、
欲張って首都を飲み込むなら――
俺たちは、
必ず、完全に壊す」
しばしの沈黙。
地下の空気が、
ゆっくりと、重くなる。
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その時。
包みの一つが――
ふっと、消えた。
音もなく、
熱もなく、
ただ、存在だけが奪われる。
第二の心臓は、
取引に応じたのだ。
ロイシュは、目を細めた。
「……やっぱり、
奪うだけの獣じゃないな……」
それは、
理性ではない。
だが、
選択に似た反応だった。
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ロイシュは、背を向けて歩き出した。
「……これが、
俺の最後の商談だ」
「成功するかどうかは……
お前の食い方次第だな」
背後で、
管の脈動が、
一瞬だけ、弱まったように感じられた。
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同時刻。
首都の地上では――
腐らない食の保存性が、
わずかに、
だが確実に低下し始めていた。
「……パンが……
少し、硬くなってる……」
「……魚に、
匂いが戻った……?」
恐怖を生んだ完璧な異常が、
ほんの少し――
現実に引き戻され始めていた。
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診療所の一室。
リナは、異変の報告を受け、
静かに息を吐いた。
「……ロイシュさん……
あなた、
また一人で賭けを打ったわね……」
ユイは、強く拳を握った。
「……でも……
完全には止まっていない……」
リナは、はっきりと頷いた。
「ええ。
これは、あくまで――
時間を買っただけ」
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そして、地下深く。
第二の心臓は、
ゆっくりと、
鼓動の速度を落としていた。
だが――
その核の奥では、
新しい欲の波形が、
静かに、しかし確実に芽吹いている。
取引を覚えた循環は、
やがて、より悪質になる。
ロイシュは、
それを分かった上で、
それでも――
この最後の商談に、すべてを賭けたのだった。




