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四嶺の国  作者: ネージュ
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次世代編 第8話 測れない温度


次世代編 第8話 測れない温度


 首都中央市場の惨状は、夜になっても収まらなかった。


 崩落した石畳の縁には、警備兵の簡易柵が並べられ、

 その向こうでは、赤い光が地の底から脈打つように漏れている。


 だが、群衆は去らなかった。


 恐怖と同じだけの期待が、

 人々の足を、そこに縫い止めていたからだ。


「……見ろよ……

 あの下に奇跡の源があるんだ……」


「……崩れたのは、不運だったが……

 これでもっと腐らない食が増えるかもしれん……」


 ささやきはやがてはっきりとした欲望の声に変わっていく。


---


 その外縁。


 人の波の陰でユイは一人立ち尽くしていた。


 手には、

 いつも首にかけている温度計。


 だが今――

 その針の動きよりも、

 人の視線と声の方が、

 はるかに激しく、彼女の胸を打っていた。


(……氷室の温度は、

 数で測れた……

 地下の異変も、

 数で、追えた……)


 けれど――


(……人の心は……

 どうやって……測れば……)


 人々の目は、赤く濁り、

 だが同時に必死だった。


 それは、ただの欲ではない。


 「もう二度と、失いたくない」

 という、恐怖の裏返しだった。


---


 ざわめきの中で、

 一人の男が、警備柵を押しのけて前に出た。


「……おい、

 何を隠してる!!」


「腐らない食があるって、

 もう分かってるんだぞ!!」


 警備兵が槍を構える。


「これ以上進むな!」


「俺の子どもは、

 去年の冬に、食料不足で死んだ!!

 腐らない飯があるなら、

 なぜ今よこさない!!」


 空気が、一気に凍りついた。


 誰も、その男を責められなかった。


---


 その時。


 ユイは、気づいてしまった。


 警備線の内側――

 地下から染み出る赤い光を浴びて、

 その男の足元の地面だけが、

 異様に冷えていることに。


 首元の温度計が、

 わずかに、だが確実に、震えた。


 零度。


「……つながってる……」


 第二の心臓は、

 地下から熱と腐らない力を送り出している。


 だが同時に――

 奪うための吸い口も、

 人の近くに、確実に伸びてきている。


(……あの人は……

 失った悲しみごと、

 吸われかけてる……)


---


「……やめてください……!」


 その声は、

 人の怒号の中では、あまりに小さかった。


 だが、

 ユイはもう一歩前に出た。


「……それは……

 あなたの子どもを、

 取り戻す力じゃありません!!」


 何人かが、振り向く。


 男は、ユイを睨みつけた。


「……小娘が、

 何を知ってる……!」


 ユイは、震える膝を必死で支えながら、

 温度計を差し出した。


「……わたしは……

 氷室の温度を測る仕事をしています……」


「……だから……?」


「……いま、

 あなたの足元は……

 凍る温度に、なっています……」


 一瞬の沈黙。


 そして――

 誰かが、小さく息を呑んだ。


「……白い息……出てる……」


 男の吐く息が、

 かすかに、白くなっていた。


 さっきまで、生ぬるい夜だったのに。


---


 ユイは、声を張り上げた。


「……腐らない食は……

 あなたを守ってるんじゃない……」


「……あなたが持っている悲しみと、

 この街の恐怖を……

 食べているだけです……!!」


 男の視線が、揺れた。


 怒りと、困惑と、

 そして――

 深い、深い喪失。


「……ふざけるな……

 そんなもの……!」


「……じゃあ、

 どうして……

 あなたの足元だけ、

 冷えているんですか……?」


 その一言が、

 決定打になった。


 群衆がざわつく。


 誰かが後ずさり、

 また誰かが、地面を見る。


 あちこちで――

 温度のまだらが、

 目に見える形で浮かび始めた。


---


 その時。


 地下から、

 ごう……っという、

 低く、重い鼓動が伝わってきた。


 柵の内側の赤い光が、

 ひときわ強く、脈打つ。


「……反応してる……」


 リナが、ユイの背後で呟いた。


「……人の心の揺れに……」


 ロイシュは、低く言った。


「……こいつは、

 欲と恐怖そのものに、

 食いつく循環だ」


---


 群衆の中で、

 一人、また一人と、

 立ちすくむ者が増えていく。


 剥き出しの欲の裏にあった、

 「戻れない不安」が、

 ようやく、言葉になる。


「……俺たち……

 この奇跡に、

 縋ってるだけか……?」


「……もし、これが……

 生きる力じゃなかったら……?」


 空気が、少しだけ変わった。


---


 ユイは、涙をこらえながら言った。


「……腐らない世界は……

 生きている世界じゃありません……」


「……生きているものは……

 必ず、変わって、

 やがて、終わるものです……」


「……それが……

 怖いのは……

 わたしも、同じです……」


 その言葉は、

 理屈ではなく、

 等身大の恐怖の共有だった。


 男は、

 地面を見つめたまま、

 拳を、ゆっくりと下ろした。


「……じゃあ……

 俺は……

 また……失うのか……?」


 ユイは、首を横に振った。


「……いいえ……」


「……もう……

 あなた一人で失う時代じゃありません……」


---


 やがて。


 警備兵の呼びかけに応じて、

 群衆は、少しずつ後退し始めた。


 完全な鎮静ではない。

 だが――

 暴走は、初めて止まった。


 ロイシュは、ユイを見つめ、

 低く息を吐いた。


「……お前……

 数字じゃないものを、

 測りやがったな……」


 リナは、静かに微笑んだ。


「……ええ。

 心の温度をね」


 ユイは、ぼろぼろの声で、答えた。


「……測れませんでした……

 ただ……

 怖いって……言っただけです……」


「それで、十分よ」


 リナは、はっきりと言った。


---


 だが。


 地下の赤い光は、

 まだ消えていなかった。


 第二の心臓は、

 確かに人の動揺に喰らいつき、

 同時に――

 次の栄養源を探し始めている。


 人の心は、救われかけた。


 だが――

 循環そのものは、

 まだ、止まっていない。


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