次世代編 第7話 腐らない街
次世代編 第7話 腐らない街
首都の朝は、いつもパンの匂いから始まる。
粉を挽く音。
薪のはぜる音。
焼きたての湯気。
それは、この国が「今日も無事に回っている」ことを知らせる、
いちばん穏やかな合図だった。
――だがその日、
その匂いは、妙に甘すぎた。
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「……このパン、
三日前のものですよね?」
市場の一角で、老婆が怪訝な顔をして言った。
「……ええ、そうです」
若いパン売りは、困ったように頷く。
「でも、
まったく硬くもなっていないし、
カビも、生えてない……」
別の客が、声を上げた。
「昨日のもだ!
一昨日のも!
どれも同じ味で、同じ柔らかさだ!」
ざわめきが、少しずつ、
だが確実に、広がり始める。
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同時刻。
首都の補助倉庫。
保存魚、干し肉、根菜――
すべての“保存物”の確認作業が、緊急で行われていた。
「……腐敗、ゼロ……?」
倉庫役人の声が、震えた。
「期限を四日は過ぎているはずだぞ……
なぜ、一つも劣化していない……!」
帳簿をめくる手が、止まらない。
ありえない。
保存とは、
ゆっくりと死ぬ過程を遅らせる技術のはずだ。
それが――
死なない状態になっている。
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同じ頃。
南から首都へ向かう街道を、
ロイシュ、リナ、ユイの馬車が進んでいた。
道すがら、すでに異変の噂が流れていた。
「……首都の保存庫が永遠に保つって……」
「……神の食べ物になったって言ってる奴もいる」
「……値段が、三倍に跳ね上がったそうだ……」
人々の声は、
期待と不安が、奇妙に混ざっていた。
リナは、顔を伏せた。
「……これは……
救いとして広がってしまう……」
ロイシュは、低く唸った。
「……ああ。
腐らない食は、
人を狂わせるには、十分すぎる」
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正午。
首都中央市場。
事態は、すでに異変を越え、
暴走の段階に入っていた。
「俺の店の保存肉は、
昨日から一切腐っていない!」
「うちの井戸水で煮たスープもだ!
鍋ごと三日、匂い一つ変わらん!」
「それを異常だって?
ふざけるな!
これは奇跡だろ!」
人々の声が、重なり合い、
怒号に変わっていく。
やがて、役所の役人が、
市場の中央で声を張り上げた。
「――現在の保存異常は、
安全が確認されるまで、
すべての流通を一時停止する!」
一瞬、
完全な静寂。
次の瞬間――
「ふざけるな!!」
誰かが、叫んだ。
「俺たちの腐らない食を、
国が取り上げる気か!!」
「これは、
俺たちの希望なんだぞ!!」
石が飛び、
果物が投げつけられ、
市場は一気に暴動へと変わった。
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倉庫前。
保存物を積んだ馬車を巡り、
人々が殺到する。
「よこせ!
もう腐る食なんて、戻れねえんだ!」
「子どもがいるんだ!
死なない食なら、
奪ってでも守る!!」
警備兵が列を作るが、
数が足りない。
群衆の期待と恐怖が、
理性を完全に押し流していた。
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その光景を、
少し離れた屋根の上から、
ロイシュは唇を噛みしめて見ていた。
「……これが、
止まらない循環の末路か……」
かつての装置は、
勝手に回る世界を作った。
そして今――
その残骸は、
勝手に終わらない世界を作り始めている。
リナは、ユイの肩を強く掴んだ。
「……いい?
あなたはここに出ちゃだめ」
「……でも……」
「ここは、体じゃない。
心の病が暴れてる場所よ」
ユイは、唇を噛みしめて頷いた。
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その時。
市場の中央で、
一人の男が、高く腐らないパンを掲げた。
「見ろよ!!
これが新しい時代の食い物だ!!
もう、北の氷室も、
南の塩も、
何もいらねえ!!」
その瞬間。
ロイシュの背筋に、
凍りつくような既視感が走った。
――かつて、
神の循環を称えた人々と、
まったく同じ光景。
(……繰り返すのか……)
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そこへ――
地鳴り。
ごう……っと、
首都の地面が、低く唸った。
市場の石畳に、
細かい亀裂が走る。
「……な、なんだ……?」
ユイの温度計が、
狂ったように振れた。
零度、五十度、零度、五十度――
「……地下で、
第二の心臓が……
首都側の管を、
強く脈動させてる……!」
リナの顔が、蒼白になる。
「……このままじゃ、
地下水と熱の流路が、
首都の真下で……」
ロイシュは、叫んだ。
「……崩れる!!」
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次の瞬間。
市場の中央部が、
音もなく、沈んだ。
爆発でも、破裂でもない。
まるで、
地面そのものが空白に吸い込まれたように。
石畳が、
静かに、下へと消えていく。
「――う、うわああああ!!」
人々が、悲鳴を上げて逃げ惑う。
崩落は、市場の一角だけで止まった。
だが、その下から――
不気味な赤い光が、
じわじわと滲み出してくる。
ロイシュは、歯を食いしばった。
「……やはり……
もう、首都の下まで来ている……」
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騒乱の中。
腐らない食を握りしめたまま、
崩落の縁にへたり込む人々。
恐怖。
怒り。
そして――
それでも手放そうとしない、奇跡。
リナは、静かに言った。
「……人は、
死なないものに、
一度触れてしまうと……
生きることそのものを、
見失うのね……」
ユイは、震える声で呟いた。
「……この街……
測れなくなってます……」
ロイシュは、眼下の赤い光を見つめながら、
低く、しかしはっきりと言った。
「……もう、
商売の問題じゃない。
人の時代の問題だ」
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首都の地下で、
第二の心臓は、
確かに――
人の欲に反応するかのように、
鼓動を速めていた。
まるで、
この街がもっと欲しがることを、
待っていたかのように。




